令和4年6月16日
JR中津川駅6:03発 塩尻経由 下諏訪駅8:12着
歩いた時間:10時間 歩数:55,275歩
JR下諏訪駅
今日は下諏訪宿から和田宿の外れまで約30kmを歩きます。
中山道最難関と言われる和田峠越えです。
曇り空ですが雨の心配は無いようです。
塩尻峠、奈良井峠、十三峠、摺針峠などを75歳のじーさまがどうにか越えて来ましたので今回も何とかなると思います。
皇女和宮様も越えてる峠だからね。
駅を後にして中山道に出ると高札場が見えて来ました。
こんなに大きな高札場は初めてです。
高札場→幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目をひくように高く掲げておく場所
さすが温泉の町。庭先に温泉が出ています。
あぁーもったいない。
オルゴール記念館の案内板 「日本電産サンキョーオルゴール記念館すわのね」
真宗大谷派諏訪教会 本願寺 複合文化施設「しもすわ今昔館おいでや」
博物館「時計工房儀象堂」と「星ケ塔ミュージアム矢の根や」に加え、無料休憩スペースやショップ(入場無料)、足湯「御柱神湯」が併設されています。
説明板によれば「綿の湯 由来 中山道下諏訪立町 ここ八か所の源泉掛け流し温泉は諏訪明神の御神湯と言われています。女神さまのお化粧水が温泉になったと言い伝えられ綿の湯(わたのゆ)と呼ばれて、 千年も脈々と流れて続けているのです。 立町まちづくり協議会」
「しもすわ今昔館おいでや」入口横に歌碑があります.
島木赤彦歌碑
「電灯に照らされてゐる朝顔の 紺いろの花暁近づけり」
旅館みなとや 玄関前に道標があります。
「右甲州道 左中山道」 と刻まれています。
「旅館奴」の入口横に「あざみの詩」の歌碑があります。
詩を作ったのは「下町の太陽」「哀愁列車」などでも知られる作詞家の横井弘(1926~2015)。18歳で兵役に就いたあと、1945年初めに生まれ育った東京へ戻る。同年5月の空襲で焼け出され、母が疎開していた下諏訪に。終戦を挟んで半年ほど住む間に作った詩の一つが、「あざみの歌」です。
「あざみの詩 横井弘作詞 八洲秀章作曲
山には山の愁いあり 海には海のかなしみや ましてこころの花園に 咲きしあざみの花ならば
高嶺(たかね)の百合のそれよりも 秘めたる夢をひとすじに くれない燃ゆるその姿 あざみに深きわが想い
いとしき花よ汝はあざみ こころの花よ汝はあざみ さだめの径(みち)は果てなくも 香れよせめてわが胸に 八島湿原にて」
下諏訪・霧ヶ峰八島湿原で、アザミの花に自分の理想の女性像をだぶらせて綴ったものといわれます。
歴史民俗資料館
明治7年の火災後に建てられたものですが江戸時代の商家の雰囲気が漂っています。
1階は無料休憩所や展示スペースとして、
2階では江戸時代の下諏訪宿の様子や皇女和宮降嫁、和田嶺合戦、赤報隊に関する貴重な資料を展示しています。
桔梗屋
元禄三年、本陣前の旅籠として開業したのが始まりで、それ以降三百年の歴史と伝統を誇っています。
皇女和宮が降嫁の際、母君の観行院とお付きの中臈などは「桔梗屋」に宿泊しています。
十返舎一九や安藤広重なども宿泊しています。
御宿まるや
江戸時代の元禄年間創業。旧脇本陣として古い歴史をもつ宿。代々丸屋四朗を名乗っていました。
下諏訪の旧脇本陣兼旅籠を復元した美しい木造建築です。
甲州街道、中山道合流之地
甲州街道は、古甲州道をもとに、江戸幕府が整備した五街道の1つです。江戸日本橋から江戸城半蔵門前を通り内藤新宿、八王子、甲府を経て信濃国の下諏訪宿で中山道と合流するまで44次の宿場が置かれていました。
「綿の湯」説明板 「綿の湯」石碑
下諏訪観光協会によれば
「江戸時代の五街道である中山道・甲州街道。この合流点に下諏訪温泉の由来となった綿の湯源湯がございます。綿の湯は、諏訪大社のご祭神の妃神、八坂刀売神(やさかとめのかみ)が、開湯された温泉であるとこの地には言い伝えられています。
昔々、神代の時代のこと、 古事記の国譲り神話に出てくる建御名方神(たけみなかたのかみ)と八坂刀売神(やさかとめのかみ)がこの地を治められていた頃のお話。
ある時、八坂刀売神が、建御名方神と喧嘩をしました。諏訪湖を挟んで対岸の下社に移り住むことにし、その際に毎日お化粧に使っているお湯を湯玉にし綿に包んで持っていきました。小舟に乗って湖を渡る途中、その綿からぽたぽたと湯が落ちたところ、湖の中からも温泉が湧き出ました。秋宮あたりに着き、持ってきた湯玉を置いたところ、不思議なことに、綿を置いたその場所からコンコンとお湯が湧き出てくるではありませんか! これが下社秋宮の脇にある「綿の湯」の縁起です。この「綿の湯」は女神さまのお使いになるお湯(ご神湯)ですので、心の汚れた者が入ると、みるみる湯口が濁るという言い伝えがあり、下社七不思議の一つ「湯口の清濁」として伝えられています」
下諏訪宿は中山道唯一の温泉場でしたが、旅人が入浴できたのは「綿の湯」のみでした。他の湯には入れませんでした。江戸時代は混浴が普通で、幕府は度々禁止令を出していました。1890年(明治23年)の法令で7歳以上の子どもの混浴が禁止されたことで、実質的に混浴はなくなりました。
塩ようかんの新鶴さんの前を通り「諏訪大社下社秋宮」に向かいます。
諏訪大社下社秋宮 鳥居
御祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)、 八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)。
諏訪湖の南側には上社前宮・本宮があります。諏訪大社は四社からなる神社です。
創建は、古事記の国譲り神話にまでさかのぼり、最も古い神社の一つです。
国の重要文化財に指定されている神楽殿(神様に雅楽や舞を奉納したり祈願を行う建物) 注連縄は長さ7.5m、重さ1トンです。 狛犬は青銅製では日本一です。高さ1.7mです。
国の重要文化財に指定されている幣拝殿と左右片拝殿 本殿はありません。自然そのものをご神体としています。
長さ17m、直径1mの樅の木です。神域四隅に正面右手前から時計回りに一之御柱~四之御柱が建っています。
樹齢800年の根入りの杉
丑三つ時(午前2時~2時30分)になると枝先を下げて寝入りいびきが聞こえ、子どもに木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止まるといわれています。諏訪七不思議のひとつです。
甲州街道、中山道合流之地碑の前を通り中山道に戻ります。
本陣(岩波家)
皇女和宮降嫁時の宿泊や、明治天皇巡幸時の小休所としても利用されました。
※降嫁 皇女や王女が皇族や王族以外の男性に嫁ぐことです。
下諏訪宿は天保14年の記録では本陣1,脇本陣2、旅籠屋40軒で和田峠、塩尻峠をひかえ甲州街道との分岐点でもありさらに温泉があったので、かなり繫盛した宿場でした。
説明板によれば
「江戸時代中山道の大きな宿場として殷盛をうたわれた下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのままここに残っている。
維新前は公卿や大名たちの休泊所になり、文久元年(1861)11月には関東へ御降嫁の和宮さまのお宿泊所になり、明治13年(1880)6月24日明治天皇ご巡幸のときにはお小休所になった。 (下諏訪町教育委員会)
明治天皇下諏訪御小休所碑
本陣の隣に
旅籠「つる屋」跡があります。今は遊泉ハウス児湯(こゆ)として営業しています。和泉式部伝説の銕焼(かなやき)地蔵尊(来迎寺)の御利益により湧き出したと云われる湯で、子宝の湯として親しまれたことから 「児湯」 と呼ばれている。
江戸時代に「綿の湯」「児湯」「旦過の湯」が湧き出し、三名湯といわれていました。「綿の湯・児湯」とも源泉が枯れ、「遊泉ハウス児湯」は旦過の湯を引いて営業しているそうです。
50m程先の交差点の角に「銕焼地蔵尊と“かね”の説明板」があります。
ここを右折して「来迎寺」に向かいます
来迎寺山門と扁額(引接山
来迎寺(らいこうじ)は諏訪観光ナビによれば「浄土宗知恩院派の寺で、天文10年(1541)栄海上人の中興開山。開基は諏訪大社大祝金刺氏の一族で諏訪右衛門尉とのこと。江戸時代の初めは増上寺22世位産和尚がこの寺で得度したと伝えられます。また和泉式部の幼少の頃にまつわる伝説とその守り本尊で最明寺入道北条時頼が運んできたと伝えられる銕焼地蔵尊があり、毎年4月中旬にご開帳供養が行われます
来迎寺本堂
銕焼(てつやき)地蔵堂
地蔵様とかね
平安の昔、顔に大けがを負った「かね」という少女が、普段から信仰厚くお参りしていたこの地蔵様に拝んだところ、不思議なことに傷は地蔵様の顔に移り、傷はたちどころに治ったという伝説があります。そして美しく成長した少女「かね」の噂は都にまで聞こえ、時の帝に召し出され、のちにかの平安の歌人、和泉式部になったとの言い伝えもあることから、立身出世にもご利益があると言われているそうです。
先程右折した交差点から中山道に戻り急坂(湯田坂)を下ります。
「旦過の湯」 説明板によれば
「中世よりこの地は湯の町として知られ、街道の道端で高温の温泉が自噴しているのが珍しく、多くの旅人が疲れを癒した温泉場で、名湯として広く知られてきた。
ここ旦過の湯は、鎌倉時代に慈雲寺に来た修行僧のために建てた旦過寮(旦に過ぎ夕に宿す)からでた名前で、そこに付属させた浴場が旦過の湯であった。
温泉の効能は傷や吹出物にもよく効くと言われ、元治元年(1864)和田嶺合戦の時、負傷武士の内で、この温泉に入った者は、傷の治りが極めて早かったという。
現在も湯量が豊富で、かけ流しの公衆浴場として親しまれている。
(下諏訪財産区)」
※旦は朝、夜明け
今井邦子文学館
旦過の湯の向かい側に昭和の女流歌人今井邦子の実家の茶屋松屋があります。松屋は今井邦子文学館とっています。
長野県下諏訪町で幼少女期を過ごしたのち、島木赤彦門の女流歌人として活躍し女流歌誌「明日香」を主宰創刊した昭和を代表する女流歌人です
代表歌 真木(まき)ふかき谿(たに)よりいづる山水(やまみづ)の常あたらしき生命(いのち)あらしめ
鉄鉱泉本館「つたや」 創業120年。割烹料理屋から始まった料理自慢の旅館
隣は旅館「古久屋 古久屋前の説明板
古久屋前の説明板によれば
「下諏訪宿は宿としての呼び方で、郷村名としては湯之町と呼ばれていた。下諏訪宿の宿場は綿之湯を中心につくられ、湯田町、横町、立町の4丁50間(527m)と木の下五十二間(九十五メートル)である。宿場の中心は問屋である。問屋は運輸業務の一切を取扱うもので、その事をしたところを問屋場または会所といい、綿の湯の前にその建物があった。
この問屋場で仕事をする人を宿役人といった。問屋年寄、帳付、馬指という人々がこれである。
本陣・脇本陣・伝馬宿・旅籠屋・茶屋商家が多く、旅籠には飯盛女という名の遊女がおり、宿場は大変賑やかであった」
少し先の四辻の角に常夜灯があります。その脇に「番屋跡」碑が有ります
江戸側の番屋跡
※番屋とは 江戸時代に消防、自警団の役割をしていた自身番の詰所のこと。 木戸番や火の見櫓を併設していることが多く江戸や大坂、京都などの大都市、地方の城下町で見られた。 自身番は地元住民が交代で役割を担っていたことから、現在も地域の安全の拠点となる消防団の詰所や公民館として跡地が残る場所が多い。
御作田神社 ここにも温泉が出ています。
御作田神社 鳥居
御作田神社拝殿、奥に本殿
御作田神社説明板
説明板によれば
「ここは、諏訪大社の末社、御作田社であります。下社の御作田祭(御田植神事)は、毎年6月30日この境内で行われます。
この日植えられた稲は1ヶ月後の8月1日には、諏訪大神の神供として捧げられたと伝えられ、御作田の早稲として諏訪七不思議の一つに上げられています。
なお、同日(6月30日)には、諏訪大社春宮横の浮島社において、夏越しの安穏を祈る茅の輪くぐりが行われます。
少し先に「伏見屋邸」があります。
伏見屋邸は1864年(元治元年)の建築と推定される木造二階建ての旧商家。平成22年に復元修理し、まち歩きを楽しむ観光客の休憩や住民の交流の場として開館しました。
中山道の街道沿いにあった商家の特徴を良好に残すものとして、平成25年に主屋と土蔵2棟が国の登録有形文化財に登録されています。
下諏訪の一里塚跡 江戸から55里目の一里塚です。
さらに進むと右側に
龍の口 石段下辺りを龍ノ口と呼び江戸時代中期に山田金右衛門により造形された龍頭水口が水を湛えています。
龍の口の隣に石段があります。
石段横に慈雲寺寺標 その後ろに庚申塔、三界萬霊塔
慈雲寺の参道 参道の途中から右に入ります。寶光院
石段の途中に沢山の石塔があります
参道を上り国道を横断した所に慈雲寺はあります。
寶光院の前の験力不動碑、眞明霊神碑、 三社稲荷大明神
眞力不動碑など
蚕玉神社、道了大菩薩 清瀧と不動明王、制咤迦童子、矜羯羅童子
弥栄富神社 矢除石
矢除石の説明板によれば
「武田信玄は、慈雲寺中興の祖と言われる天桂和尚を師とも仰いでおり、戦場へ赴く時に慈雲寺に立ち寄り、天桂和尚に戦勝の教えを請いました。
上人は、境内の大きな石の上に立って 「私を弓で射てみよ」 と至近の距離から射かけさせたところ、矢はすべて岩で跳ね返されて上人には一本の矢も当たりません。不思議に思った信玄が尋ねてみると 「この石には矢除けの霊力がある」 とのことでした。 信玄は、この念力がこもった矢除札を受け勇躍戦場に向ったという言伝えのある石です。
(下諏訪観光協会)
不動明王 梵字碑
慈雲寺の山門
慈雲寺まではまだ300m近くありそうなので、これから先の和田峠越えの事もあり今回は慈雲寺はパスし、諏訪大社下社春宮に向かいます。
中山道に戻ります。
ここで中山道から外れて諏訪大社下社春宮に参拝します。
春宮参道改修記念碑と常夜燈
手水舎
ここから左へ
下馬橋(げばばし) 下社で最も古い室町時代の建造物です。年二回、遷座祭、お舟祭の折、御霊代を運ぶ神輿はここを通ります。どんなに身分の高い人もこの橋の前で馬や籠を降り、参拝したそうです。
手水舎の前を通り
諏訪大社下社春宮の鳥居と社標
荘厳な空気に包まれました。
神楽殿
左右片拝殿 国の重要文化財
片拝殿と呼ばれるこの建物は幣拝殿と同じ安永9年(1780)地元の大工柴宮(伊藤)長左衛門により造営されたものである。 秋宮に比べて幅が短く屋根は片切りになっている。
幣拝殿 国の重要文化財
この建物は御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったもので幣拝殿と呼ばれている。建築様式は二重楼門造りで全体に見事な彫刻が施されている。棟梁は地元の宮大工柴宮(伊藤)長左衛門で秋宮と同じ絵図面で秋宮幣拝殿より一年早い安永9年(1780)に落成した。
春秋両宮は社殿構造は同じで当時は双方で技術が競われた。
諏訪大社には本殿はありません。自然そのものをご神体としています。
春宮一之御柱
春宮二之御柱
地上10m付近で二股に分かれていますが、根元近くでは一緒になっていることから「縁結びの杉」といわれます。
境内のここを上って中山道に出ますが、その前に
近くにある「万治の石仏」を見学して来ます。
鳥居を背にして右に進み赤い橋を渡り右折して川沿いに進みます。
万治の石仏入口の石碑
説明板によれば 「万治の石仏と伝説
万治3年(1660年11月1日
伝説によると諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造るとき、この石 を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石 工達は恐れをなし仕事をやめた(ノミの跡は現在でも残っている)その 夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たして そこに良材を見つけることができ鳥居は完成したというのである。石工 達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。尚、この地籍はこの 石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっている。
下諏訪町」
「万治の石仏」お参りの仕方
1、石仏の正面で合掌し「よろずおさまりますように」と念じる
2、石仏の周りを時計回りに3周
3、石仏の正面で「よろずおさめました」と唱え一礼する。
高さ2m余りの丸い大きな自然石に仏頭を乗せた石仏。万治3年(1660)に作られたそうです。心で願い事を唱えながら石仏の周りを時計回りに3回まわると叶うそうです。お賽銭を忘れずに!
諏訪大社下社春宮の境内に戻り先程の坂道を上ります
坂を上り舗装道路に出た所に「大社諏訪神社」の社標があります。
振り返ると遠くに諏訪湖が見えました。
ゆるやかな坂道を上り国道142号線に合流します。
142号線を150m程進み中山道は左に入ります。
畑で作業していたおじさんが後から追いかけてきて「木落し坂に入るところの道をよく間違える人がいるから気を付ける様」にと親切に教えてくれました。ありがとうございました。
142号線に合流する手前に御柱に囲まれた道祖神がありました。
142号線に合流すると間もなく右側に鳥居が見えます。
扁額に「山之神」と書かれています。
階段を上った先に山之神があります。
さらに奥に鳥居があります。
四隅に御柱が建っています。
説明板によれば
「白鷺山 正平年間(1350年代)この山中の岩が燦然(さんぜん)と光るので苔を払ったところ 「不動」 の二文字が現れ人々は不動明王の影向(ようごう)と崇めた。 宝暦(1750年代)の頃、白鷺が巣をかける瑞兆があったので白鷺山と呼ぶようになった。
山頂の石尊大権現と白鷺稲荷大明神をはじめ山中には30体に及ぶ神仏碑が祀られ、一山が敬愛社の神体山となっている。 (真言宗醍醐派修験道敬愛社)」
※影向とは神仏が仮の姿をとって、この世に現われること。
142号線を600m程進み
ここで右折します
右側に赤い鳥居と祠があります。
少し先の左側に
道祖神(?)狸や猿(?)の石像
ステンレス製の表示 板和田峠まで8.6km
歩いてきた道
再び142号線に合流します。
すぐ先に落合発電所があります。
中部電力落合発電所
説明板によれば
「諏訪地方最初の発電所です。
諏訪地方に電気を送って百年 諏訪地方の電気発祥の地
諏訪の地に、電気の灯が点いて100年の歳月がたちました。
明治11年(1878年)日本で、初めて電気の灯りがともり、明治20年代に、白熱灯の実用化とともに、電気の灯りは日本国内に広まり始め、諏訪の地にも水力発電所建設の機運が生まれました。
和田峠周辺の水系を調査し、諏訪地方で最も安定した水量がある、東俣川および砥沢川を選び、
明治30年6月、長野県知事から河水引用の発電所設置を許可され、明治30年11月、上諏訪町・下諏訪町・長地村・平野村を供給区域として、諏訪電気株式会社が設立されました。
当時の最新の技術と、多くの苦労を乗り越え、明治33年10月、東俣川に出力60kWの落合水力発電所の工事が竣工いたしました。
建設当初は主に電灯のお客様でありましたが、この地に栄えた製糸業の動力としてその近代化の一翼を担うため、明治36年さらに、出力60kW1台を増設し合計出力120kWとしました。 製糸業の電気使用量がますます増加したため、明治43年には、落合発電所の機械全部を取替え、出力200kWに増加させ、電気を送り続けています。
現在では、世界に誇る電気機械産業や精密機械産業を支える原動力として営々と発電を続け地域の発展に大きく貢献しております。
100年という長い間、諏訪の地に電気を最初から送り続けた落合発電所の偉業と苦労をたたえると共に、電気事業の発展を暖かく見守っていただいた、諏訪地区の皆様に感謝を込めて落合発電所100周年を記念して、之を建てる。
平成12年10月吉日 中部電力株式会社諏訪電力センター」
発電所脇の細い道を進みます。
ここから山道を上ります。
芭蕉の句碑「ゆき散や 穂屋のすすきの 刈残し」
道祖神や馬頭観音があります。
急な坂を息を切らせながら上りました。木落し坂の上
天下の木落とし坂碑
説明板によれば
諏訪大社の御柱祭は7年目毎申・寅年に行います。規模の大きさ、勇壮・豪快なことは比類なく、天下の大祭として知られています。
樅の巨木を奥山から切り出し、社の四角に建てるのですが、山から引き出す 「山出し祭」 が御柱年の4月、町内を曳航し建立する 「里引き祭」 を5月に行います。
曳航途中、木落し坂と呼ぶこの急坂で、御柱を引き落とすのが下社山出し祭最高の見せ場 「木落し」 です。男意気に駆られる若者たちが、群がりうちまたがった御柱を、100m余り・傾斜度45度近い崖のようなこの木落し坂頂上から、一気に引き落とします。落下の反動で、若者たちの大半は放り出され御柱とともに転がり落ちる、一帯を埋め尽くす大観衆は一瞬息を飲み、驚声と大喚声が沸き上り、その豪壮さは筆舌に尽くせません。 「男見るなら七年一度諏訪の木落し坂落し」と唄われてきました。
この木落し坂での木落しは、下社春宮・秋宮の御柱8本を3日にわたって行います。(下諏訪観光協会)
(142号線に合流後142号線を戻り木落し坂の下まで戻り撮影)
600m程先の町屋敷地下歩道を通り142号線歩道に出ます。
500m程先に一里塚碑の案内板があります。
一里塚碑の案内板 案内に従い142号線から左の道に進みます。
案内に従い進みます。
この先にある様です。
樋橋の一里塚碑 江戸まで54里目の一里塚です
説明板によれば
「一里塚は、徳川幕府が江戸日本橋を起点とした五街道に、一里ごとに築いた道標である。道の両側に基底5間(9m)四方に、まるく土を盛り上げ、その上に榎や欅など」大きく成長する木を植え、遠くからも目立つような塚をつくった。
中山道一里塚は、慶長9年(1604)に長井伯元等が一里塚奉行として築き、ここは54里目の塚で、ながく旅人に親しまれてきたが、明治維新に取り崩されたものを近年復元した。 (下諏訪町教育委員会)」
国道142号線に戻ります。500m程先の左側ガードパイプに
峠まで6.2kmの表示があります。
1km程進んだ所に標高1000mの表示
ここで左折しまた142号に出ます。
「中山道歩き 改訂版 下諏訪宿から和田宿まで②」に続きます。









































































































