今のバイトでも、辛くなって休んでしまった。
嫌なことがあって処理しきれなくなると休んでしまう、というのを、どの職場でも毎回繰り返してる。
人がストレスを抱えた時って大体の人は身体に出るけど、私はそういうことは少ない。
身体は丈夫なんだけど、その分心が弱すぎる。
一般的なダメージの比率が身体へ7:心へ3、とかなら、私は1:9なんだと思う。
ほんとに体調不良なら休みやすいけど、心が、ってなると、それを理由にすることはできず仮病みたいな言い訳しないといけないから、後ろめたくて情けない気持ちになってしまう。
体調不良だけじゃなくて、心調不良って言葉があってもいいのに。
毎回怒られては「日本料理屋で働くというのはそういうものだ」と納得させながらやり過ごしていたけど、それと同時に「私はいつまでも怒られて成長もしない役立たずなんだ」という自己否定が着々と折り重なっていたんだな、と感じた。
前のシフトの時、(多分ずっと私にイライラはしていたけど大人な人なので我慢してくれていた)若い社員さんも怒らせてしまって、皿洗いだって"俺がやった方が早いんで"、と言われてしまい、
そこで自分の自己否定が満水状態になって溢れてしまった。盆からこぼれる水のように、溢れ出たのを確かに感じた。
「私にはきっと飲食業界は向いていない」と心が折れてしまった。
ここで辛いながらも我慢してやらせてもらったことは確実に自分に還元されて、結果的に知識面でとっても有意義だと思っているけど、自分が仕事をこなせているか・その仕事で社会での有能感を得られているのかを天秤にかけたらそれとこれとは別だ。
学びの満足感と、蓄積されていく自己否定では、後者の方が圧倒的に上回ってしまった。
辛いことやりづらいこといっぱいありながらも本当はここを続けたいけど、行けば「自分の役立たずさ」で、押し潰されてしまうだろう。
実際無能で成長しないアホなんだけど、実際に料理長にアホ扱いされているのもつらい。あんまそう思われたくない。自分って意外とプライドが高いんだなって気づいた。無能ほどプライドが高いって、真理だよね。どう思われれば安心できるんだろうね。
無能扱いされていると、自分の発言に耳を傾けてもらえないことが多い。無視されたり、否定されたりとか。
だから、気づいたことや言わなきゃいけないことも、発言を躊躇ってしまう。
それは心理的安全性の低さだと思う。
そうやって質問や発言や意見を言う度に、抑圧感と、我慢と、言う怖さ、そしてそれと一緒に自己否定も飲み込んで、身体の中へと溜まっていく。
じゃあどこに向いてる?ったら言われたら、何の仕事でもいいんですけど、仕事というか人がだめなんでしょうね。たぶんもう、自分のことを評価する者・物がある限り、誰ともどこでも働くことはできないのだろう。
神様は乗り越えられる試練しか与えないという。
今のこの辛さはきっと、乗り越えるべき試練なんだけど、乗り越えた先にどう変われるんだろう?
今自分に与えられている試練ってなんだろう?
課題設定ができない。
そしてこのざっくりとした大きな試練を細くしていくと解決しないといけない問題がいくつかあるはず。なんだけどそれも設定できない。わからないし、考えるのを拒否して考えようともできないや。
学校すら行く気力が出なくなってしまった。
いろんな仕事に支障が出ている。
だから、こうして心の掃除をしないとまた自己否定を溜め込まなくなるから書いた。
大将は怖いけど、前にいただいた励ましが薄く心に残り続けている。
営業中は料理のお披露目だから、皆で一丸と
お客様のために全力でやる
自分はこれができているのか。もっと考えるべきなのかもしれない。