今にも落ちてきそうな空の下で | 真っすぐに之く

真っすぐに之く

格闘家気取りはやめてライター気取りしてます


あとでジョジョのこのシーンが関係してきます。
 
【心に引っ掛かった一言】
「偉くなりたいなら・・・」
何の話かと言えば、酔ったとき説教癖のある会社の先輩と飲んでいるときに
「そんなんじゃ偉くなれない」
「君だって偉くなりたいんだろ?」
「偉くなりたいならもっと●●した方が良い。」
と言う説教を受けた話。
 
内容は組織で働く上でごく真っ当ではあったけど、「偉くなりたいなら」という前置きだけ引っ掛かった。
 
(みんなが偉くなりたいって決めつけないで・・・)
(偉くなれないならそれしなくていいの?)

【そして辞書の旅の真似事をしてみる】
「偉くなる」とは「偉くない」人が「偉い」人に変わること。

では「偉い」という言葉の意味とは?意味が大きく二つあります。
 

偉い】 …
① 人物や行動などが普通の人よりはるかにすぐれているさま。偉大だ。
② 高い地位にあるさま。大きな勢力をもっているさま。
(『大辞林』(第3版))

子供が大人から「偉い」って言われるのは①の意味でしたね。親の手伝いや宿題をした時とかです。

大人対大人の会話をするときは大抵②の意味で使われてますね。部長さんとか役員を「偉い人」っていうのはそれですね。

社会に出てみたら②の意味での「偉い」とされる人や組織が必ずしも①の偉さを備えていないものだから、長らく「偉い」の二重の意味が気になってはいた。

仮説・・・日本は元は村社会。みんなから慕われるような立派な人物を村のリーダーにしていた時代もあったんだろう。品格があって行動が立派な人=身分も高かった。だからこんな二重の意味が生まれたものと思います。
 
※「#辞書の旅ってなんやねん」と思った方はキックボクサー佐藤嘉弘氏のブログか、twitterで#辞書の旅を検索ください。なかなか面白いですよ。

【だが時代は変わった】
現代社会では①の意味で「偉い」と言えない人や組織でも、結果を出せば社会で成功をおさめ②の意味で「偉く」なれるし、逆も然り。

結果を出すことが社会全般で評価の軸とされているからですが、それで歪みも起きるし被害者もでます。
 
「偉くなる」ことを目的として動く人達は上の顔色や"自分の"成績・利益ばかり気にするから、平気で人を裏切る。こっちが困ろうがお構いなし。何の配慮もなく仕事をぶん投げて。自分が言った通り周りが動いて当たり前。彼らネギライの言葉を知らない。
 
結果を評価する人には受けが良い。そして攻撃を受け傷ついた人の声は届かない。
 
会社にいてよく感じることではあるけど、世の中広く見渡せばそんな感じで人の道に反しながら社会的に「成功」を修めた人・組織・団体がゴロゴロ目につく。
 
はっきりとした敵が相手なら「よろしい、では戦争だ」で済むけど。同じ組織・業界の中に居れば同じ目的のために動かなきゃいけないこともある。そんな相手から、何故こんな攻撃を受けねばならない?てめーだけ美味しければいいのかコノヤロー!
 
・・・と、どうにも心穏やかでいられないこともあります。
 
これ以上は飲み屋で愚痴る程度に留めておきますが。
 
人それぞれ身に着ける世の渡り方や欲求は最初から違うもの。防衛本能や愚鈍さから相手の心情に気付かず無意識にやってる人も居る。
 
実力以上に評価されたが故に器じゃない役割を任され、無理をして無理が出た結果でもある。器が追いつかない限り見えない所で後ろ指差され続けて。立場と報酬でしか人はついてこない。

僕なら耐えられない。むしろ同情すらしたい。
 
【ジョジョの話がしたい】
悪口を言うんじゃなくて、彼らを見て自分はどうするのか、という所が大事なんだと思っています。自分で表現を見つけるのは面倒くさくなったので、ジョジョシリーズ屈指の名台詞に頼ります。
 

そうだな…わたしは“結果”だけを求めてはいない。“結果”だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ…近道した時真実を見失うかもしれない。やる気も次第に失せていく。大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている。向かおうとする意志さえあれば、たとえ今回は犯人が逃げたとしても、いつかはたどり着くだろう?向かっているわけだからな…違うかい?」
(『ジョジョの奇妙な冒険』第39巻「今にも落ちてきそうな空の下で」より)

概ね、こういうことです。
 
偉くなるという「結果」を求めて近道しようとしちゃった人達。僕から見たら彼らはカッコ悪いし、迷惑だから出来れば一緒に仕事したくない。ただ自分はカッコ悪い人よりはカッコいい人になりたいから、悪いところは真似せず、自分の「意志」は崩さずやっていきたい。
 
近くにいても腐らず流されず。自分の「意志」に従って行動していれば、伝わる所には伝わるし、同じものを持った人が仲間にしてくれるものと思っています。
 
いやキレイゴトや強がりではなく、実際ブレずに耐えてきたからこそ今信頼できる上司、同僚と共に仕事が出来ていると思っているので。
 
何年もかかったけど「向かおうとする意志」さえあればいつかは辿り着くって言葉が本当なんだともわかったし。
 
【西部劇の話もしたい】
散々に言ってきましたが、自分のやり方以外認めない人間にもなりたくないのです。
 
『荒野の七人』(1960アメリカ映画)という映画からも1シーンを紹介します。忘れられない一言です。
 
この映画は西部開拓時代のメキシコ農村が舞台。毎年収穫の時期に盗賊から食料を奪取され、困り果てた村人が、腕利きのガンマン7人を雇い、盗賊たちとの戦いに挑む……という話。
 
黒沢明監督『七人の侍』の西部劇版リメイクとしても有名です。その中から、オリジナルの『侍』の方にはないシーンです。
 
一時はガンマンと村人の共闘が功を奏し盗賊たちを追い払うも、盗賊団も食料が掛かっているから必死になる。これ以上の犠牲を恐れた一部の村人は盗賊団と裏で通じ村に引き入れ、ガンマンたちを追い払うことにしてしまう。
 
村を出る身支度をするガンマンたちに村の子供の一人は自分たちの親を「弱虫で卑怯者だ。」と非難する。それを聞いたガンマンの一人、子供を叱りつけるんです。
 

「二度とそんなこと言うな!銃を持って戦うより土地と家族を守るほうがよほど勇気がいるんだ!お前の親父さんは村とお前達を守ると決断した!お前達を愛しているからだ!悪口を言ってはいけない!俺にそんな勇気はない!」

(記憶の中で書いているからどこまで正確だろう・・・)

 
村人のため命をかけて戦った末村人からの裏切り。そんな中で出てきたこの言葉の重み・・・。
 
どこにも根を張らず銃の腕前一つで生き抜くのは、はたから見ればカッコいいけど、当の本人は自分に出来ない別の戦いをしている農民に憧れ、尊敬していたんですね。
 
初見からいいセリフだと思ってましたが自分に家族が出来てから思い出すとまた重みが違います。
 
【何が言いたいかというと】
既に伝わっている気はしますが僕は「偉くなりたい」欲求は強くありません。出世できるに越したことはないけど「偉くなりたい」⇒「じゃあ偉くなるために何しよう」という考え方・行動がそもそも出来ないんです。
 
自分の実力以上に、自分が望んでない部分が評価されたって嬉しくないじゃないか。自分の力不足や向かうべき道が違ったことで評価されないならそれで構わない。
 
それに自分の信念が「大事じゃない」「必要な仕事じゃない」と思った仕事は上司がどう思ってようが徹底的に力を入れない。
 
こんな性格なので、出世を念頭に置いて行動できる人と同じことは出来ないんですよね。ただ、彼らは僕に出来ないことを平然とやってのけるので、そこはシビれたり憧れたりしても良い気はしています。

自分の信じたやり方が、必ずしも良い結果に向かうとは限らない。それに自分と違う道を選んだ人にも相応の考えや苦労があるもの。
 
ガンマンと盗賊の戦いが更なる悲劇へ入口と捉えた人が居たように。その背景には村と子供たちを守りたい思いがあったように。
 
自分の性格ややり方が今更変えられるとは思っていないけど、このガンマンのような気付きと理解を持てる大人はカッコいい。
 
自分のやり方しか認めない人になってしまえば、同じタイプの人間としか付き合えない。そして同じと思い込んで近づいたら今度は違う部分が見えてきて、いずれ袂を分かつことになる。幅広く色んなタイプを受け入れる人間力は身に着けておきたいな、という話でした。
 
【ごく自然な流れで広告記事っぽくしてみる
『荒野の七人』は悪の盗賊に脅かされる弱い農民を正義のガンマンが助ける、と一見非常に分かりやすい勧善懲悪ストーリーのように見えます。
 
しかし盗賊は生きていくのに「略奪」という手段しか残されてない一面がえがかれているし、ガンマンもまた役目が終われば厄介払いされ何処にも身を据えられず、土地に根を張って生きる農民への憧れと敬意を持っている。そして農民は、弱い存在だけど土地と家族を守るという重い責務を背負って生きている。
 
というメッセージが込められているのです。その精神は『七人の侍』の侍たちのリーダー勘兵衛の「勝ったのは百姓たちだ」という一言から引き継がれたもの。
 
そんな『七人の侍』→『荒野の七人』は実は今年、時を経てハリウッドで更なるリメイクがされました。

マグニフィセント・セブン


デンゼル・ワシントン主演です。シブいぜ。激シブだぜ。

『ザ・ウォーカー』や『イコライザー』でも見せてくれたデンゼル・ワシントン無双を見せつけてくれること間違いなし!
 
1/27から絶賛公開中!みんな、劇場に急げ!