http://www.excite.co.jp/News/sports/20100118/Fuji_SP_zak20100118002.html
“球世主”だった小林氏 トレード拒否なら球界分裂も
球界に衝撃を与えた、57歳の小林繁 氏(現日本ハム投手コーチ)の急死。波瀾万丈の野球人生だった。巨人連覇の立役者になりながら、「空白の一日」を突いた江川事件のために阪神へ電撃トレードされた。が、アンチ巨人ファンのスーパーヒーローになっただけでなく、日本プロ野球界の救世主になった。
見かけはやさおとこだが、裸になるとムダな贅肉のない全身筋肉の小林氏は、反骨心の男でもあった。巨人のドラフト破りの江川卓 氏獲りの犠牲者として同情されることを何よりも嫌った。1976年、18勝をあげ、長嶋茂雄 監督下での初優勝に貢献。翌77年も18勝を記録してリーグ連覇の立役者になった。それなのに、前代未聞の阪神・江川卓 氏との電撃トレードだ。その際に、こう胸中を明かしている。
「相手はいくら才能のある投手かもしれないが、プロでは1勝もしていない投手だ。オレを出して失敗だったということを巨人に思い知らせてやる。勝負の世界だから、変な同情はいらない」と。こう誓った小林氏は有言実行。阪神に移籍した79年、巨人の前に仁王立ち、22勝をあげ、最多勝のタイトルと2度目の沢村賞を獲得している。アンチ巨人ファンが拍手喝采したのは当然だが、江川事件で離れていった元巨人ファンからも熱烈な声援を送られた。世間から大バッシングされた悪役・江川氏と対照的に、善玉・小林氏は国民的なヒーローになった。
もしも、小林氏が阪神へのトレードを拒否していたら、今の日本プロ野球界の姿はなかった。分裂していたのだから。12球団了解の上で事務的な手続きのために「空白の一日」になっていたドラフト前日を利用して、江川氏と電撃契約した巨人は、セ・リーグ連盟から契約無効とされるとドラフトボイコット。さらには新リーグ結成画策まで突っ走ったのだ。
「全く新しいプロ野球組織を作る」という巨人に対し、情けないことに我先にと各球団のオーナーたちが東京・大手町の読売新聞社詣でを始めたのだった。金子鋭コミッショナーは「このままではプロ野球界は本当に完全に分裂してしまう」と危機感を強め、苦渋の決断。「ドラフトで阪神に指名された江川は一度阪神入りして、交換トレードで巨人入りの決着案しかない」という、コミッショナーの強い要望を出したのだ。が、小林氏があくまで阪神入りを拒否していたら、コミッショナーの収拾案も実現しなかった。小林氏が球界の救世主と言われるゆえんだ
http://www.excite.co.jp/News/sports/20100118/Sanspo_SP_ssp20100118003.html
小林繁氏が57歳突然死…江川事件で阪神移籍
球春を前に届いた悲報。細腕のサイドスロー投手、小林コーチの急逝に、球界は大きな衝撃を受けた。日本ハムの発表によると、小林氏はこの日朝、福井市内の自宅で体調を崩し、救急車で搬送される途中に息を引き取った。
球団関係者には、肝臓の薬を服用していると明かし「こんな体で野球を教えちゃダメだよな」と漏らしていたというが、死の直前まで元気な姿を見せていた。
16日には東京ビッグサイトで行われた、日本ハムグループの商品展示会に午後3時まで出席。他の関係者は「きのうはいつもより元気なぐらいだった」と口をそろえた。12日のスタッフ会議では春季キャンプの指導法を確認。昨年まで暮らしていた千葉・鎌ケ谷の選手寮から、新居を構える札幌へ家具を運び出す手はずを整えていた。
小林コーチは巨人のエースとして活躍していた78年に、いわゆる“江川事件”で阪神に移籍。日本中を揺らす大騒動の犠牲者となったが、「それはショックでした。でも12、13年しかユニホームを着ていられないのだから、自分を商品と思い、できるだけ高く売ることが得策だと考えた」と気持ちを切り替え、翌年22勝をマーク。男を上げた。
引退後はテレビのスポーツキャスターなどさまざまな分野へ挑戦。歌手としてヒット曲を出したり、俳優でも活躍。95年には「さわやか新党」を結成し、参院選の比例代表に立候補した(落選)。
そして、97年から近鉄の1、2軍投手コーチとして球界に復帰。2001年には梨田監督と近鉄最後のリーグ優勝の美酒を味わった。韓国プロ野球を経て、昨季は日本ハムで梨田監督とのタッグを再結成。2軍投手コーチとして、伸び悩む投手を次々に変身させた。
プロ未勝利だった糸数をサイドスローへの転向で開花させ(昨季4勝)、江尻も腕を下げさせ、中継ぎとして45試合に登板できるまでにした。今年は1軍でどう腕を振るうか、本人も楽しみにしていたはず。周囲の落胆以上に、小林氏自身の無念さは計り知れない。