アシュ・ラ・テンペル - ファースト (Ohr, 1971)
Released by Metronome Records GmbH, Ohr OMM 56.013, 1971
All Composed and Performed by Ash Ra Tempel
(Seite 1)
A1. 鉄床 Amboss - 19:40
(Seite 2)
B1. ドリームマシーン Traummaschine - 25:24
[ Ash Ra Tempel ]
Manuel Gottsching - guitar, vocals, electronics
Hartmut Enke - bass
Klaus Schulze - drums, percussion, electronics
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(Original Ohr "Ash Ra Tempel" LP Liner Cover, Inner Double-fold Triptych Cover & Seite1/2 Label)
自分より5歳あまり年長のメンバー2人と組んだタンジェリン・ドリームのファースト・アルバムから1作きりで脱退したクラウス・シュルツェ(1947~2022)が次に組んだのが、5歳年少のマニュエル・ゲッチング(ギター、1952~2022)、ハルトムート・エンケ(ベース、1952~2005)とのトリオ、アシュ・ラ・テンペルでした。つまりシュルツェはジャーマン・ロック(クラウトロック)でも有数の最重要バンド二組の創設メンバーを経て、ソロ・アーティストになったのです。この新たなバンドの命名はディープなヒッピーだったエンケによるもので、灰(Ash)、太陽神(Ra)、神殿(Tempel)の並列語というコテコテのネーミングです。ゲッチングとエンケのこのバンドは1973年まで5作のアルバムをリリースしましたが、シュルツェの参加はこのデビュー作と第4作『Join Inn』'73の2作で、他の3作にはシュルツェは不参加ですし、『Join Inn』は本作のリメイクというべき再会セッションの性格があり、AB面各1曲の構成も同じならA面はギター・トリオのパワー・フリー・インプロヴィゼーション、B面はメディテーショナルなエレクトロニック・ミュージックで、楽曲としても同一です。もっともアシュ・ラ・テンペルは第1作~第4作までB面は全部同じ曲(!)というすごい実験派サイケデリック・ロックなので、ゲッチングとエンケはこの間19歳~21歳ですから、若さと勢いに任せたアルバム制作でもあります。また1972年~1973年にかけてゲッチングとエンケ、シュルツェはOhrのサブ・レーベル、PilzとKosmische所属の男性フォーク・デュオのヴィットゥーザー&ヴェストルップ、ヘヴィ・シンフォニック・ロックのバンド、ヴァレンシュタインのメンバーとともに7作におよぶ「The Cosmic Jokers」セッションのアルバム(1972年~1974年リリース)に参加していますので、この時期シュルツェとゲッチング、エンケはW&Wやヴァレンシュタインのメンバーともどもファミリーのようなものだったと見なせます。同じOhrのアーティストでもタンジェリン・ドリームのメンバーはコズミック・セッションには参加しておらず、これも年齢差による感覚の違いか、またエドガー・フローゼの強固なリーダーシップからタンジェリンのメンバーは加わらなかったと思えるので、この時期にはシュルツェの身軽さが豊かな経験になったのがわかります。
同じジミ・ヘンドリックス系ヘヴィ・ギター・サイケと言ってもタンジェリンのファーストとアシュ・ラ・テンペルのファーストでは大きな違いがあって、前年にデビュー作『UFO』(Ohr, 1970)を発表していたトリオ編成のグル・グルもいかれたジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのような音楽性でしたが、グル・グルは1969年デビューのカン同様に30代のメンバーが中心になって始めたバンドで、タンジェリン・ドリームのフローゼやコンラッド・シュニッツラーがそうだったようにロックを始める前に現代音楽やジャズ界で活動してきたキャリアがあり、音楽的素養が豊富な分、音楽を突き放して構築する作業がカンやタンジェリン、グル・グルのロックを脱ロック的実験派ロックにしていました。それに対してゲッチングやエンケ、特にエンケはぶっ飛んだヒッピー気質で、この2人はアシュ・ラ・テンペルのファーストではまだ19歳だったこともあり、A面ではギター/ベース/ドラムスの即興ヘヴィ・ロックをとことんやる(1曲20分もやる)、B面ではピンク・フロイドの「神秘 (A Soucerful of Secrets)」のようなメディテーション・サイケをとことんやる(1曲26分もやる)、という具合で音楽的素養というのがロックしかない(しかも極端に浅くて、ジミ・ヘンドリックスとピンク・フロイドくらいしか知らない)、そういう産物がエンケ在籍時のアシュ・ラ・テンペルでした。日本盤初発売がCD時代の1992年までずっと見送られていたのもこうしたアルバム内容のためです。エンケは1973年を最後にバンドを脱退し、その後ゲッチングのソロ録音を経て「Ash Ra」名義で再スタートしたゲッチングは、シュルツェに学んだ音楽性からミュージシャンシップの高いバンドを再編成しますが、エンケ在籍時のアシュ・ラ・テンペルの乗りははまると病みつきになるもので、知的に実験的ロックだったタンジェリンのデビュー作にも、野蛮の極みのような底なしのヘヴィ・ロックのアシュ・ラ・テンペルのデビュー作(翌年1972年の『イルリヒト (Irrichit)』に始まるシュルツェのソロ活動につながっていくのは本作のB面ですが)にもどちらもつきあえたところに、一見頑固なイメージのシュルツェの意外な柔軟性がうかがえます。そして本作も演奏をリードしているのは変幻自在なシュルツェのドラムスで、メディテーショナルなB面もシュルツェのソロ活動につながっていくものです。
(旧記事を手直しし、再掲載しました。)