高村光太郎詩集『典型』より連作長篇詩「暗愚小傳」昭和22年(1947年)その3・詩人と戦争 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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昭和22年(1947年)7月、岩手県にて。
長篇詩「暗愚小傳」発表月の高村光太郎、65歳
(明治16年/1883年生~昭和31年/1956年没)
高村光太郎詩集『典型』
昭和25年(1950年)10月25日・中央公論社刊
(昭和26年5月・第2回読売文学賞受賞)
詩集『典型』高村光太郎自装口絵

 高村光太郎が日中戦争(支那事変)~大東亜戦争~太平洋戦争の戦時下に戦争翼賛詩を多作したことは前回触れた通りです。高村の場合は智恵子夫人の病状悪化と逝去が支那事変拡大による日中戦争開戦と暗合しており、夫妻に子供はありませんでした。彫刻家を本職とする高村は詩人としては寡作で個人主義的でしたが、再び独居生活に戻った高村の年間詩作数は孤独を社会的コミットメントに求めるかのように急激に増加しました。昭和5年(1930年)から昭和20年(1945年)までの高村の年間発表詩篇数を列挙してみましょう。これは発表された詩篇のみの篇数ですが、未発表詩篇も多作な年ほど多いのが研究者による没後の遺稿整理により判明しています。この対照年表は智恵子夫人を失った高村光太郎の心の空虚に戦争が入りこんでいった過程を表しているとも見なせます。
 
昭和05年 ; 09篇 - 智恵子病臥
昭和06年 ; 12篇 - 智恵子精神病兆候
昭和07年 ; 03篇 - 智恵子自殺未遂
昭和08年 ; 00篇 - 智恵子病状悪化
昭和09年 ; 01篇 - 父光雲逝去
昭和10年 ; 07篇 - 智恵子入院
昭和11年 ; 03篇 - 宮澤賢治詩碑製作
昭和12年 ; 10篇 - 智恵子入院続く
昭和13年 ; 19篇 - 智恵子逝去、日中戦争開戦、国家総動員法
昭和14年 ; 23篇 - 国民徴用列挙公布、第二次世界大戦開戦
昭和15年 ; 19篇 - 大政翼賛会発足、期限二千六百年式典
昭和16年 ; 24篇 - 東条内閣成立、太平洋戦争勃発
昭和17年 ; 31篇 - 学徒勤労報国命令、日本本土空襲開始、ミッドウェー敗戦、日本文学報国会結成
昭和18年 ; 44篇 - ドイツ軍敗色、学徒出陣、大日本言論報国会結成
昭和19年 ; 42篇 - サイパン失陥引責東条内閣崩壊、東京空襲開始
昭和20年 ; 22篇 - 大空襲、沖縄陥落、原子爆弾投下、ポツダム宣言受諾により無条件降伏(敗戦)
 
 高村が連作長篇詩「暗愚小傳」から割愛した未定稿「わが詩をよみて人死に就けり」で指しているのは、おおむね昭和13年~昭和20年の間の戦争翼賛詩です。

爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
電線に女の太腿がぶらさがつた。
死はいつでもそこにあつた。
死の恐怖から私自身を救ふために
「必死の時」を必死になつて私は書いた。
その詩を戦地の同胞がよんだ。
人はそれをよんで死に立ち向つた。
その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
(「わが詩をよみて人死に就けり」全行)
 
 高村が詩集『典型』の自序で「これらの詩は多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たわけと言われつづけて来たもののみである。」というのは『典型』収録の敗戦後の詩というよりも、むしろ戦時中に執筆・発表された多くの戦争翼賛詩が敗戦後に浴びた非難を指すものでした。高村の自序は「私はその一切の鞭を自己の背にうけることによって自己を明らかにしたい念慮に燃えた。私はその一切の憎しみの言葉に感謝した。私の性来が持つ詩的衝動は死に至るまで私を駆って詩を書かせるであろう。そして最後の審判は仮借なき歳月の明識によって私の頭上に永遠に下されるであろう。私はただ心を幼くしてその最後の巨大な審判の手に順うほかない。」と続きますが、戦時下の高村の翼賛詩は三好達治、佐藤春夫と並んで高村の文名を高めたものでした。「暗愚小傳」最終章の「山林」で高村は、
 
おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の非難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。
 
 --と絶唱していますが、ではもし日本が大東亜戦争~太平洋戦争の戦勝国になっていたらこれは簡単に書き換えられてしまいます。つまり歴史の結果次第では「おのれの明知をいやほど見たので、/自分の業績のどんな評価をも快く容れ、/自分におもねる千の賞賛も素直にきく。/それが社会の約束ならば/よし勲章とても甘受しよう。」と逆転することもあり得たのです。事実愛国詩人としての高村(明治16年/1883年生れ)は翼賛詩でも抒情詩・祝詞的作品が主だった佐藤春夫(明治25年/1992年生れ)、三好達治(明治33年/1900年生れ)より積極的に直接国策と戦況を称揚したイデオロギー型の詩人であり、年齢や詩歴の上でも佐藤や三好より重んじられた最大の戦争詩人でした。もし日本が戦勝国になっていたら文筆による軍事翼賛体制への貢献で表彰され、国家的詩人として桂冠詩人の称号を授与されてもおかしくなかったのです。しかし現実には日本は敗戦国となり、GHQによって高村の戦争詩は部分引用すら許されない発禁作品に事実上指定され(「わが詩をよみて人死に就けり」の削除も高村自身による自己検閲だったと思われます)、戦後の論壇では高村の戦争詩は徹底的に批判されるとともに敗戦後の新作詩篇に対しても非難が相継ぐことになりました。今回は戦時下の高村の詩作品を10篇、評論・随筆を2篇ご紹介しますが、次回で検討するようにこれらの詩・散文は戦争前の高村の詩・散文や敗戦後の「暗愚小傳」とも同じ文体・発想によって書かれており、たまたま題材とテーマが戦争翼賛であること以外は高村の詩として一貫したものです。高村の詩には常に人類代表を自認するような大振りな身振りと理想主義的なイデオローグ性(この二つを合わせたものがファッショなのは言うまでもありません)がつきまといますが、これら戦争翼賛詩が初期の「根付の国」や中期の「ぼろぼろな駝鳥」、戦後の「典型」(詩集表題作)と似通っているのは単に対象の「敵」が変わったからにすぎないとさえ言えます。これらの戦争詩は数多ある文庫やシリーズものの選詩集などの『高村光太郎詩集』では意図的に排除されており、かえってそれが詩人高村の本質から多くの読者を遠ざけているとすら思えるのです。

 堅冰いたる

乾の方百四十度を越えて凛冽の寒波は来る。
書は焚くべし、儒生の口は箝すべし。
つんぼのやうな万民の頭の上に
左まんじの旗は瞬刻にひるがへる。
世界を二つに引裂くもの、
アラゴンの平野カタロニアの丘に満ち、
いま朔風は山西の辺疆にまき起る。
自然の数字は厳として進みやまない。

漲る生きものは地上を蝕みつくした。
この球体を清浄にかへすため
ああもう一度氷河時代をよばうとするか。
昼は小春日和、夜は極寒。
今朝も見渡す限り民家の屋根は霜だ。
堅冰いたる、堅冰いたる。
むしろ氷河時代よこの世を襲へ。
どういふほんとの人間の種が、
どうしてそこに生き残るかを大地は見よう。

(昭和11年/1936年12月11日執筆、初出「中央公論」昭和12年1月号、生前詩集未収録)
*ナチス政権によるドイツ国内の芸術批評禁止令1936年11月施行、同月に日独防共協定締結。同年7月スペイン内乱。

 未曾有の時

未曾有の時は沈黙のうちに迫る。
一切をかけて死んで生きる時だ。
さういふ時がもう其処に来てゐる。
迫り来るものは仮借せず、
悠久の物理に無益の表情はない。
吾が事なほ中道にあり、
世の富未だ必ずしも餓孚を絶つに至らず
人みな食へないままに食ひ
一寸先の闇を衝いて生きる日
(ばい)を銜んで迫り来るものは四辺に満ちる。
既に余が彫蟲の技は余を養はず、
心をととのへて独り坐れば、
又年が暮れて暦日はあらためられる。
巷に子供ら声をあげて遊びたはむれ、
冬の日は穏かにあたたかく霜をくづし、
紫陽花の葉は凋み垂れて風雅の陣を張り、
山雀は今年もチチと鳴いて窓を覗きこむ。
すべて人事を超えて窮まる処を知らない。
さればしづかに強くその時を邀へよう。
一切の始末を終えて平然と来るを待たう。
悉く傾けつくして裸とならう。
おもむろに迫る未曾有の時
むしろあの冬空の透徹の美に身を洗はう。
清らかに起たう。

(昭和12年/1937年12月19日執筆、初出「中外商業新聞」昭和13年1月、詩集『記録』昭和19年/1944年3月刊収録)
*昭和12年7月7日、蘆溝橋事件勃発。北支事変から支那事変に事変拡大し日中戦争に発展。同年12月13日南京完全占領、15日南京大虐殺。

 防長訓練

この夜明けの出しぬけの警報には
みんな慌てたやうですな
どてらに戦闘帽
長襦袢にエプロン
夜がしらしらと明けてくると
霜のおりる往来にふるへてゐるのは
まことに奇怪至極の行列です
遠くの方ではさかんに銃声が聞えるのに
この高台の一くるわでは
じつさい申しわけの無い次第です
しかしわれわれ同胞のほんとの意気は
いざといふ時でなければ出ませんよ
焼夷弾の落ちた家は天災とあきらめて
一軒犠牲となるのです
われわれはぜつたい延焼させませんよ
何しろ敵の夜襲を野崎詣りとしやれる
さういふ兵隊さんの親兄弟ですから
少少ぐらゐな不体裁はむしろ気が強いです

(昭和13年/1938年12月4日執筆、初出「文藝」昭和14年1月、詩集『大いなる日に』昭和17年/1942年4月刊収録)
*昭和13年3月国家総動員法議会通過。10月5日、智恵子夫人逝去、享年53歳。10月、日本軍が広東・武漢三鎮を占領、11月近衛内閣が東亜新秩序建設を声明。

 十二月八日

記憶せよ、十二月八日
この日世界の歴史あらたまる。
アングロ  サクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは我等ジヤパン、
眇たる東海の国にして、
また神の国たる日本なり。
そを治しろしめたまふ明津御神なり
世界の富を壟断するもの、
強豪米英一族の力、
われらの国において否定さる。
われらの否定は義による。
東亜を東亜にかへせといふのみ。
彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
われら自ら力を養いてひとたび起つ。
老若男女みな兵なり。
大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
世界の歴史を両断する。
十二月八日を記憶せよ。

(昭和16年/1941年12月10日執筆、初出「婦人朝日」昭和17年/1942年1月号、詩集『大いなる日に』収録)
*昭和16年12月8日、日本政府からの米国への予備通達未受諾のまま日本軍ハワイ真珠湾空爆。奇襲の名目により日米太平洋戦争開戦。

 彼等を撃つ

大詔(おほみことのり)ひとたび出でて天つ日のごとし。
見よ、一億の民おもて輝きこころ躍る。
雲破れて路ひらけ、
万里のきはみ眼前(まなかひ)にあり。
大敵の所在つひに発(あば)かれ、
わが向ふところ今や決然として定まる。
間髪を容れず、
一撃すでに敵の心肝を寒くせり。
八十梟帥やそたけるのとも遠大の野望に燃え、
その鉄の牙と爪とを東亜に立てて
われを囲むこと二世紀に及ぶ。
力は彼等の自らたのむところにして、
利は彼等の搾取して飽くところなきもの。
理不尽の言ひがかりに
東亜の国々ほとんど皆滅され、
宗教と思想との摩訶不思議に
東亜の民概ね骨を抜かる。
わづかにわれら明津御神の御陵威により、
東亜の先端に位して
代々よよ幾千年の練磨を経たり。
わが力いま彼等の力を撃つ。
必勝の軍なり。
必死必殺の剣なり。
大義明かにして惑ふなく、
近隣の朋とも救ふべし。
彼等の鉄の牙と爪とを撃破して
大東亜本然の生命を示現すること、
これわれらの誓なり。
霜を含んで夜よるしづかに更けたり。
わが同胞は身を捧げて遠く戦ふ。
この時卓(つくえ)に倚りて文字をつづり、
こころ感謝に満ちて無限の思切々たり。

(昭和16年12月15日執筆、初出「文藝」昭和17年1月、詩集『大いなる日に』収録、詩集『記録』再録)
*昭和16年12月24日、大政翼賛会開催による日本文学報国会結成のための文学者愛国大会席上で高村光太郎、新作「彼等を撃つ」朗読。

 神とともにあり

「犬と某々国人入るを許さず」と
おのが生れた土地の公園に書き出されて
それでも黙つてゐたのはつい昨日のことだ。
日本一たび起つて米英蘭を撃つ。
天上天下、
アジアの住民アジアを護り、
アジアの良民アジアをたのしむ。
これを非とする神は此の世にいまさぬ。
これを非とする理不尽は唯彼等の我慾だ。
世界の選良と思ひ上つた彼等の夢が
逐われた彼等を歯がみさせる。
昔日の非道に未練をすてない
米英蘭の妄執断じて絶つべし。
大東亜の同胞われら日本の義を知り、
われらの神とともに彼等を撃つ。
公明天日の如きわれらの理念と
無比の武力と甚深の文化と
今や世界の蒙昧をひらくのみだ。

(昭和17年/1942年11月16日執筆、初出「家の光」昭和18年1月号・原題「われらの神と倶にあり」、詩集『記録』収録)
*昭和17年海戦激化。6月マダガスカル島奇襲~11月ガダルカナル島激戦。

 戦争と詩 (評論)

 すでに戦争そのものが巨大な詩である。しかも利害の小ぜり合ひのやうな、従来世界諸国間で戦はれたいはゆる力の平衡化のためのやうな底の浅い戦争と事変り、今度の支那事変以来の大東亜戦争の如きは、長きに亙る妖雲の重圧をその極限において撥ねのけるための己むに己まれぬ民族擁護の蹶起であり、皇国の存亡にかかはる真実の一大決戦であり、肇国の公大なる理念に基づいて、時にとつての条約や規約ばかりを重んじて更に根帯の道義を重んじない世界の旧秩序を根本的に清浄にしようといふ皇国二千六有余年の意義を堂々と天下に実現するための聖戦であつて、この内に充ち満ちた精神の厚さと、深さと、強さとの一あつて二なき途への絶体絶命の迸発そのものこそ即ち詩精神の精粋に外ならぬ。詩における「気」とは斯の如きものである。
 その上、戦争における現実のあらゆる断面は悉く人間究極の実相を示顕して、平和安穏な散漫時代には夢にも見られなかつたせつぱつまつた事態と決心と敢行実践とが日毎に、刻々に体験の事実として継起する。物語の中でしか以前には遭遇しなかつた人間の運命も、生死も、喜怒哀楽も、興亡盛衰も、今では一億が身みづから切実にその事実の中で起居し、実感する。一億の生活そのものが生きた詩である。一切の些事はすべて大義につらなり、一切の心事はすべて捨身の道に還元せられる。
(中略)
 皇国の悠久に信憑し、後続の世代に限りなき信頼をよせて、最期にのぞんで心安らかに 大君をたたへまつる将兵の精神の如き、まつたく人間心の究極のまことである。このまことを措いて詩を何処に求めよう。
(中略)
 詩精神とは気であるが、気は言葉に宿る。言葉は神の遣はしものである。踏み分け難い微妙な言葉の密林にわれわれもまた敢然として突入せねばならないのである。

(初出「日本読書新聞」昭和19年/1944年1月29日、生前単行本、没後第1次全集未収録)

 必勝の品性

敵に塩を送った心理など
もとより彼等には分かるまい。
俘虜が名誉で、戦死が不名誉、
さう彼等の打算倫理はいふ。
降伏するよりも自殺を好む傾向があると
彼等は皇軍について報告する。
彼等はそんなに低い、そんなに卑しい。
病院船は擬装だと睨む彼等の眼に
大和民族の清さ高さは御伽噺だ。
さういふ彼等の屠殺慾が
いま大和島根の岸辺に迫る。
手段を選ばぬ彼等野獣の本性が
いま神苑の地たる皇土を汚さうとする。
われら一億の品性この時光を放つて
純粋蕪雑の初源にかへる。
乃ち無尽の力を内に激発せしめて
必ず最後の一撃に野獣を仆さう。
神裔国民の正気斯の如きあるを知らしめて
世界の俗悪生活に永久自卑の止めをささう。

(昭和19年3月4日「月刊西日本」4月号掲載予定のため執筆、生前詩集未収録)
*昭和20年1月27日、2月17日、2月27日、3月4日、旧東京市内各地の連続局所空襲。

 戦火

戦は人に迫りて未練をすてしむ。
万死の間に生きて
人はじめて生活の何たるかを知る。すがすがしいかな
真に戦い極むるものの日常。
皇国戦火をくぐつて
いよいよ純にして大ならんとす。

(昭和20年/1945年3月28日執筆、初出「婦人之友」昭和20年3月号、生前詩集未収録)
*昭和20年3月10日、東京大空襲。罹災者200万人以上、民間人戦死者10万人以上。

 琉球決戦

神聖オモロ草子の国琉球
つひに大東亜戦最大の決戦場となる。
敵は獅子の一撃を期して総力を集め
この珠玉の島うるはしの山原谷茶、
万座毛の緑野、梯梧の花の紅に
あらゆる暴力を傾け注がんずる。
琉球やまことに日本の頸動脈、
万事ここにかかり万端ここに経絡す。
琉球を守れ、琉球に於て勝て。
全日本の全日本人よ、
琉球のために全力をあげよ。
敵すでに犠牲を惜しまず、
これ吾が神機の到来なり。
全日本の全日本人よ、
起つて琉球に血液を送れ。
ああ恩納ナビの末孫熱血の同胞等よ、
蒲葵の葉かげに身を伏して
弾両を凌ぎ、兵火を抑へ、
猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。

(昭和20年4月1日執筆、初出「朝日新聞」昭和20年4月2日、生前詩集未収録)
*昭和20年2月19日アメリカ軍硫黄島上陸、3月27日硫黄島日本軍全員自決、アメリカ軍4月1日沖縄嘉手納上陸開始。

 自信を以て立て (随筆)

 今、日本全土は敵機の空襲によつて至る処兵火の厄にかかつてゐる。帝都だけでも四月廿五日現在既に五十一万戸二百十万人の罹災を見るに至つた。高みに立つて俯瞰すれば茫々たり、累々たり、焦土一面の瓦礫鉄片。此の蕭条たる荒涼の風景に最高の美ありて存し、神明の気此の灼爛の曠野にこもりて息づき、限りなく吾が心を打つ。これこそ明治、大正、昭和初期の三代に亘つて蓄積された非日本的旧醜文化の壊滅焼尽であり、猛火消毒を意味する。残虐な敵の手によつて行はれた戦禍でさへも翻つて之を見れば其処に斯の如き神意を拝する。至純至誠の男女青少年よ、自信を以て立て。旧時代の陋習奸知を猛火の中に掃蕩して、皇国骨髄の節義を新しく作興し、着々脚下を固めて実力断行の巨腕を縦横に揮へよ。窮まりなくして新しき真日本を護持する巨人よ、今こそ簇がり出でよ。

(昭和20年4月29日「新女苑」掲載予定執筆、掲載誌未確認、生前単行本未収録)
*昭和20年4月13日深夜、空襲により自宅兼アトリエ焼失。知人宅に仮寓後、5月15日に上野出発、宮澤賢治遺族の好意により岩手県花巻町へ疎開。

 一億の号泣

綸言一出でて一億号泣す。
昭和二十年八月十五日正午、
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて、
天上はるかに流れきたる
玉音の低きとどろきに五体をうたる。
五体わななきてとどめあへず、
玉音ひびき終りて又音なし。
この時無声の号泣国土に起り、
普天の一億ひとしく
微臣恐惶ほとんと失語す。
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し、
苟も寸毫の曖昧模糊をゆるぎざらん。
鋼鉄の武器を失へる時
精神の純おのずから大ならんとす。
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん。

(昭和20年8月16日早朝執筆、初出「朝日新聞」「岩手日報」昭和20年8月17日、生前詩集未収録)
*昭和20年8月14日、日本政府ポツダム宣言受諾により全面降伏・敗戦。翌15日正午、天皇玉声によるラジオ放送にて終戦の詔勅。

*仮名づかいは原文のまま、用字は略字体に改めました。

(以下次回)

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)