萩原朔太郎詩集『氷島』(9・完)「郷土望景詩」 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

萩原朔太郎(1886-1942)、詩集『氷島』刊行1年前、
個人出版誌「生理」(昭和8年6月~昭和10年2月、全5号)
創刊の頃、47歳。
萩原朔太郎詩集『氷島』昭和9年(1934年)6月1日・
第一書房刊(外函)
詩集『氷島』本体表紙

 詩集『氷島』については文体がまず問題で、その文体の変化が従来の萩原の詩の軽やかさ、自由な感覚を圧迫して露骨に自伝的な内容を呼び込んでしまった、というのがこれまでのまとめです。たったこれだけのことにこれまで8回も読書感想文を重ねたのは忸怩たるものがありますが、世の中には必要な無駄というものがあるのです。寄り道・まわり道をしなければ見えてこないことも時にはあります。『氷島』のような食えない詩集の場合はなおのことです。結局、萩原の文語自由詩系列は大正2年(1911年)~大正3年の「愛憐詩篇」18篇(大正14年/1925年8月刊『純情小曲集』に収録)と大正12年(1923年)~大正14年の「郷土望景詩」10篇(『純情小曲集』に収録、のち昭和3年/1928年3月刊『萩原朔太郎詩集』で大正15年の1篇追加)を、昭和2年(1927年)~昭和8年創作の『氷島』収録の新作詩篇20篇と併せて見るのが早道で、前回は「愛憐詩篇」全18篇をご紹介しました。次に見るべきは「郷土望景詩」です。

 この「郷土望景詩」は全詩集『萩原朔太郎詩集』(昭和3年/1928年3月刊)では『純情小曲集』刊行の翌年に発表された「監獄裏の林」(大正15年/1926年4月「日本詩人」)を「郷土望景詩・追加詩篇」と付記して追加し全11篇になりましたが、詩集『氷島』(昭和9年/1934年6月刊)には「波宜亭」「小出街道」「中學の校庭」「廣瀬川」「監獄裏の林」の順で、『氷島』初収録の新作20篇に混じって5篇が再録されています。前回・今回は作品自体の紹介に止めますが、『氷島』の先駆をなすに「愛憐詩篇」と「郷土望景詩」からなる『純情小曲集』が文語詩篇への回帰と言っても、その意図は『氷島』とはまったく異なるものだったのがわかります。年少の親友だった芥川龍之介(1892~1927)の睡眠薬自殺に際しての追悼文で萩原は、当時近所に住んでいた芥川が萩原の「郷土望景詩」の雑誌発表を読んで夜間に突然「君に会いたくてたまらなくなった」と訪ねてきた、と回想していますが、おそらくそれは「小出新道」「新前橋驛」「大渡橋」の3篇が一挙発表がされた大正14年(1925年)6月の「日本詩人」だったろうと思われます。芥川の自殺は昭和2年(1927年)7月24日で、遺書には「この2年自殺を考えてきた」と書き残されていましたから、芥川が萩原の自伝的な新作文語詩篇を読んで感極まって訪ねてきたのはすでに自殺を考え始めていた頃ということになり、同年発表の自伝的短篇「大導寺信輔の半生」(大正14年/1925年1月「中央公論」)から作風に変化のあった芥川は翌年大正15年(1926年)9月(「改造」発表)の「点鬼簿」からははっきりと晩年の作風に入ります。芥川にとって萩原の「郷土望景詩」は、当時の萩原の意図を越えて、芥川がその早逝によって見ることのなかった詩集『氷島』を予感させるものであったでしょう。詩人・萩原本人よりも、優れた批評眼の持ち主だった芥川の方が「郷土望景詩」の次に来るものを予感していたと思われるのです。


萩原朔太郎詩集『純情小曲集』
大正14年(1925年)8月12日・新潮社刊
(カヴァー装)



 郷 土 望 景 詩


 中 學 の 校 庭

われの中學にありたる日は
(なま)めく情熱になやみたり
いかりて書物をなげすて
ひとり校庭の草に寢ころび居しが
なにものの哀傷ぞ
はるかに青きを飛びさり
天日(てんじつ)直射して熱く帽子に照りぬ。
 
(大正12年/1923年1月「薔薇」)


 波 宜 亭

少年の日は物に感ぜしや
われは波宜亭(はぎてい)の二階によりて
かなしき情歡の思ひにしづめり。
その亭の庭にも草木(さうもく)茂み
風ふき渡りてばうばうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや。
いにしへの日には鉛筆もて
欄干(おばしま)にさへ記せし名なり。
 (発表誌未詳)


 二 子 山 附 近

われの悔恨は酢えたり
さびしく蒲公英(たんぽぽ)の莖を噛まんや。
ひとり畝道をあるき
つかれて野中の丘に坐すれば
なにごとの眺望かゆいて消えざるなし。
たちまち遠景を汽車のはしりて
われの心境は動擾せり。
 (初出誌未詳・大正15年/1926年5月『日本詩集・一九二六年版』)


 才川町
 ――十二月下旬――

空に光つた山脈(やまなみ)
それに白く雪風
このごろは道も惡く
道も雪解けにぬかつてゐる。
わたしの暗い故郷の都會
ならべる町家の家竝のうへに
かの火見櫓をのぞめるごとく
はや松飾りせる軒をこえて
才川町こえて赤城をみる。
この北に向へる場末の窓窓
そは黒く煤にとざせよ
日はや霜にくれて
荷車巷路に多く通る。
 (発表誌未詳)


 小出新道

ここに道路の新開せるは
(ちよく)として市街に通ずるならん。
われこの新道の交路に立てど
さびしき四方(よも)の地平をきはめず
暗鬱なる日かな
天日家竝の軒に低くして
林の雜木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
われの叛きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。
 (大正14年/1925年6月「日本詩人」)


 新 前 橋 驛

野に新しき停車場は建てられたり
便所の扉(とびら)風にふかれ
ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや。
烈烈たる日かな
われこの停車場に來りて口の渇きにたへず
いづこに氷を喰(は)まむとして賣る店を見ず
ばうばうたる麥の遠きに連なりながれたり。
いかなればわれの望めるものはあらざるか
憂愁の暦は酢え
心はげしき苦痛にたへずして旅に出でんとす。
ああこの古びたる鞄をさげてよろめけども
われは瘠犬のごとくして憫れむ人もあらじや。
いま日は構外の野景に高く
農夫らの鋤に蒲公英の莖は刈られ倒されたり。
われひとり寂しき歩廊(ほうむ)の上に立てば
ああはるかなる所よりして
かの海のごとく轟ろき 感情の軋きしりつつ來るを知れり。
 (大正14年6月「日本詩人」)


 大 渡 橋

ここに長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より 直(ちよく)として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり
あわただしき自轉車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢ゑたる感情は苦しくせり。
ああ故郷にありてゆかず
鹽のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤獨の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢ゑたり
しきりに欄干らんかんにすがりて齒を噛めども
せんかたなしや 涙のごときもの溢れ出で
頬(ほ)につたひ流れてやまず
ああ我れはもと卑陋なり。
往(ゆ)くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす。
 (大正14年6月「日本詩人」)


 廣 瀬 川

廣瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
われの生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川邊に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちひさき魚は眼めにもとまらず。
 (発表誌未詳)


 利 根 の 松 原

日曜日の晝
わが愉快なる諧謔(かいぎやく)は草にあふれたり。
芽はまだ萌えざれども
少年の情緒は赤く木の間を焚やき
友等みな異性のあたたかき腕をおもへるなり。
ああこの追憶の古き林にきて
ひとり蒼天の高きに眺め入らんとす
いづこぞ憂愁ににたるものきて
ひそかにわれの背中を觸れゆく日かな。
いま風景は秋晩(おそ)くすでに枯れたり
われは燒石を口にあてて
しきりにこの熱する 唾(つばき)のごときものをのまんとす。
 (発表誌未詳)


 公 園 の 椅 子

人氣なき公園の椅子にもたれて
われの思ふことはけふもまた烈しきなり。
いかなれば故郷(こきやう)のひとのわれに辛(つら)
かなしき「すもも」の核(たね)を噛まむとするぞ。
遠き越後の山に雪の光りて
麥もまたひとの怒りにふるへをののくか。
われを嘲けりわらふ聲は野山にみち
苦しみの叫びは心臟を破裂せり。
かくばかり
つれなきものへの執着をされ。
ああ生れたる故郷の土(つち)を蹈み去れよ。
われは指にするどく研(と)げるナイフをもち
葉櫻のころ
さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり。
 (大正13年/1924年1月「上州新報」)


 郷 土 望 景 詩 の 後 に

 I. 前橋公園
 前橋公園は、早く室生犀星の詩によりて世に知らる。利根川の河原に望みて、堤防に櫻を多く植ゑたり、常には散策する人もなく、さびしき芝生の日だまりに、紙屑など散らばり居るのみ。所所に悲しげなるベンチを据ゑたり。我れ故郷にある時、ふところ手して此所に來り、いつも人氣なき椅子にもたれて、鴉の如く坐り居るを常とせり。

 II. 大渡橋
 大渡橋(おほわたりばし)は前橋の北部、利根川の上流に架したり。鐵橋にして長さ半哩にもわたるべし。前橋より橋を渡りて、群馬郡のさびしき村落に出づ。目をやればその盡くる果を知らず。冬の日空に輝やきて、無限にかなしき橋なり。

 III. 新前橋驛
 朝、東京を出でて澁川に行く人は、晝の十二時頃、新前橋の驛を過ぐべし。畠の中に建ちて、そのシグナルも風に吹かれ、荒寥たる田舍の小驛なり。

 IV. 小出松林
 小出の林は前橋の北部、赤城山の遠き麓にあり。我れ少年の時より、學校を厭ひて林を好み、常に一人行きて瞑想に耽りたる所なりしが、今その林皆伐られ、楢、樫、ブナの類、むざんに白日の下に倒されたり。新しき道路ここに敷かれ、直として利根川の岸に通ずる如きも、我れその遠き行方を知らず。

 V. 波宜亭
 波宜亭、萩亭ともいふ。先年まで前橋公園前にありき。庭に秋草茂り、軒傾きて古雅に床しき旗亭なりしが、今はいづこへ行きしか、跡方さへもなし。

 VI. 前橋中學

 利根川の岸邊に建ちて、その教室の窓窓より、淺間の遠き噴煙を望むべし。昔は校庭に夏草茂り、四つ葉(くろばあ)のいちめんに生えたれども、今は野球の練習はげしく、庭みな白く固みて炎天に輝やけり。われの如き怠惰の生徒ら、今も猶そこにありやなしや。



 監 獄 裏 の 林

監獄裏の林に入れば
囀鳥高きにしば鳴けり。
いかんぞ我れの思ふこと
ひとり叛きて歩める道を
寂しき友にも告げざらんや。
河原に冬の枯草もえ
重たき石を運ぶ囚人等
みな憎さげに我れを見て過ぎ行けり。
暗鬱なる思想かな
われの破れたる服を裂きすて
獸類(けもの)のごとくに悲しまむ。
ああ季節に遲く
上州の空の烈風に寒きは何ぞや。
まばらに殘る林の中に
看守の居て
劍柄(づか)の低く鳴るを聽けり。

 ――郷土望景詩・追加詩篇――
 (大正15年/1926年4月「日本詩人」)

(引用詩の用字、かな遣いは初版詩集複製本に従い、明らかな誤植は訂正しました。)