萩原朔太郎(1886-1942)、詩集『氷島』刊行前年、
個人同人誌「生理」(昭和8年6月~昭和10年2月、
萩原朔太郎詩集『氷島』昭和9年(1934年)
漂泊者の歌(序詩) 斷崖に沿うて、陸橋の下を歩み行く人。そは我が永遠の姿。寂しき漂泊者の影なり。卷頭に掲げて序詩となす。
とされている作品なので、同作が執筆された昭和6年2月時点には既発表詩篇19篇を含んだ新詩集『氷島』の構想がまとまったと見ていいでしょう。「漂泊者の歌」は詩集中でももっとも高い調子を持った作品で、かつこれまで萩原が破格的文体で口語詩を直観的に創作してきたように、文語においても文法的破格が見られます。たとえば「かつて何物をも信ずることなく/汝の信ずるところに憤怒を知れり。」という2行は文法的にも内容的にもまったく破綻しています。全篇にそうした強引で無理なレトリックが目立つのに、これを萩原は詩集の序詩としてはばからなかったのです。
日は斷崖の上に登り
憂ひは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
續ける鐵路の棚の背後(うしろ)に
一つの寂しき影は漂ふ。
ああ汝 漂泊者!
過去より來りて未來を過ぎ
久遠の郷愁を追ひ行くもの。
いかなれば蹌爾として
時計の如くに憂ひ歩むぞ。
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を斷絶して
意志なき寂寥を蹈み切れかし。
ああ 惡魔よりも孤獨にして
汝は氷霜の冬に耐へたるかな!
かつて何物をも信ずることなく
汝の信ずるところに憤怒を知れり。
かつて欲情の否定を知らず
汝の欲情するものを彈劾せり。
いかなればまた愁ひ疲れて
やさしく抱かれ接吻(きす)する者の家に歸らん。
かつて何物をも汝は愛せず
何物もまたかつて汝を愛せざるべし。
ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき斷崖を漂泊(さまよ)ひ行けど
いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!
(「漂泊者の歌」全行)
破格な文法的無理も含めて、これは詩集『氷島』全体のテーマを集約した一篇と言っていいでしょう。ところで萩原が大阪の新進詩人・伊東静雄(1906-1953)の第一詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年10月刊)を詩集刊行すぐに長文の、ほとんど詩人論とすら言えるエッセイで激賞し、東京に招いて出版記念会まで主催したのはよく知られる話ですが、『わがひとに~』は口語詩と文語詩を共に含み、口語と文語の中間体とも言える文体の実験も行われている詩集で、巻頭詩は次のような作品でした。萩原がこの詩集に島崎藤村(1872-1943)の面影を見たのは(後述)、藤村の第一詩集『若菜集』明治30年(1897年)の著名な収録作「初戀」の、「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき/前にさしたる花櫛の/花ある君と思ひけり」(第1連)、「林檎畑の樹の下に/おのづからなる細道は/誰が踏みそめしかたみぞと/問ひたまふこそこひしけれ」を伊東の詩「晴れた日に」の重ね合わせ、伊東の詩の「林檎畑」に自虐的なパロディ性(「櫻は咲き 裏には正しい林檎畑を見た!」「到底まつ青な果實しかのぞまれぬ/變種の林檎樹を植ゑたこと!」)を見出したからでした。
伊東静雄(1906-1953/府立住吉中学校教員時代)
『わがひとに与ふる哀歌』
発行・杉田屋印刷所/発売・コギト発行所、
1935年(昭和10年)10月5日発行
晴れた日に
伊東静雄
とき偶(たま)に晴れ渡つた日に
老いた私の母が
強ひられて故郷に歸つて行つたと
私の放浪する半身 愛される人
私はお前に告げやらねばならぬ
誰もがその願ふところに
住むことが許されるのでない
遠いお前の書簡は
しばらくお前は千曲川の上流に
行きついて
四月の終るとき
取り巻いた山々やその村里の道にさヘ
一米(メートル)の雪が
なほ日光の中に殘り
五月を待つて
櫻は咲き 裏には正しい林檎畑を見た!
と言つて寄越した
愛されるためには
お前はしかし命ぜられてある
われわれは共に幼くて居た故郷で
四月にははや縁(つば)廣の帽を被つた
又キラキラとする太陽と
跣足では歩きにくい土で
到底まつ青な果實しかのぞまれぬ
變種の林檎樹を植ゑたこと!
私は言ひあてることが出來る
命ぜられてある人 私の放浪する半身
いつたい其處で
お前の懸命に信じまいとしてゐることの
何であるかを
(初出・昭和9年/1934年8月「コギト」)
また詩集2番目の作品は文語詩で、「晴れた日に」で「お前」と呼ばれた「私の放浪する半身」が語り手となっていると読める詩です。
曠野の歌
伊東静雄
わが死せむ美しき日のために
連嶺の夢想よ! 汝(な)が白雪を
消さずあれ
息ぐるしい稀薄のこれの曠野に
ひと知れぬ泉をすぎ
非時(ときじく)の木の實熟(う)るる
隠れたる場しよを過ぎ
われの播種(ま)く花のしるし
近づく日わが屍骸(なきがら)を曳かむ馬を
この道標(しめ)はいざなひ還さむ
あゝかくてわが永久(とは)の歸郷を
高貴なる汝(な)が白き光見送り
木の實照り 泉はわらひ……
わが痛き夢よこの時ぞ遂に
休らはむもの!
(初出・昭和10年/1935年4月「コギト」)
萩原にとっては伊東の詩は自身の詩集『氷島』の正統な後継者のように見えたでしょう。長文のエッセイ「わがひとに與ふる哀歌――伊東静雄君の詩について」(「コギト」昭和11年1月)で萩原は、
「伊東君の詩を始めて見た時、僕は島崎藤村氏の詩を読むやうな思ひがした。(中略)しかしながらまた再読して、この一九三〇年代の若い詩人が、一八〇〇年代の末期に生れた若い日の藤村氏に比し、いかに甚だしく詩人的風貌を異にするかを知り、再度また別の驚きを新たにした。」
「所で『わがひとに與ふる哀歌』は、何といふ痛手にみちた歌であらう。(中略)即ちそのリズムは一行毎に破滅して支離に分散し、詩想は暗黒の憂愁に充ち、希望もなく目的もなき、ニヒルの宿命的な長い影が、力のない氷島の極光(オロラ)にむかって、幽霊のやうな郷愁を訴えてゐる。これはまさしく<傷ついた浪漫派>の詩であり、<歪められた藤村>の詩である。」
「『わがひとに與ふる哀歌』は、一つの美しい恋歌である。(中略)しかしながらこの<美しさ>は、そのエスプリに惨虐な痛手を持った美しさであり、むしろ冷酷にさへも意地悪く、魂を苛めつけられた人のリリックである。ああしかし、これもまた一つの<美しい恋歌>であらうか?」
萩原はここでほとんど自身の詩集『氷島』の自作解説をしています。それほど伊東静雄の第1詩集に『氷島』を重ね合わせているのです。口語詩と文語詩の折衷体とも言える詩集表題作を引用しましょう。
わがひとに與ふる哀歌
伊東静雄
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内(うち)の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒(つね)に變らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無邊な廣大の讚歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の發明の
何にならう
如かない 人氣(ひとけ)ない山に上(のぼ)り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに
(初出・昭和9年/1934年11月「コギト」)
これを『氷島』の巻頭から2番目の作品と読み較べてみると――、
遊園地(るなぱあく)の午後なりき
樂隊は空に轟き
廻轉木馬の目まぐるしく
艶めく紅(べに)のごむ風船
群集の上を飛び行けり。
今日の日曜を此所に來りて
われら模擬飛行機の座席に乘れど
側へに思惟するものは寂しきなり。
なになれば君が瞳孔(ひとみ)に
やさしき憂愁をたたへ給ふか。
座席に肩を寄りそひて
接吻(きす)するみ手を借したまへや。
見よこの飛翔する空の向うに
一つの地平は高く揚り また傾き 低く沈み行かんとす。
暮春に迫る落日の前
われら既にこれを見たり
いかんぞ人生を展開せざらむ。
今日の果敢なき憂愁を捨て
飛べよかし! 飛べよかし!
明るき四月の外光の中
嬉嬉たる群集の中に混りて
ふたり模擬飛行機の座席に乘れど
君の圓舞曲(わるつ)は遠くして
側へに思惟するものは寂しきなり。
(「遊園地(るなぱあく)にて」・昭和6年7月「若草」)
同じデートの詩でも萩原の方がぐっと渋い読みぶりですが、そこは20歳の年齢の差とかたや第一詩集、かたやすでに全詩集までまとめ上げたキャリアの差というものでしょう。『氷島』と『わがひとに與ふる哀歌』に共通しているのは詩人は世間から追放された存在である、という自虐的な感覚です。萩原は逝去2年前、健康を害して執筆活動から遠ざかるほとんど最後の仕事としてアンソロジー『昭和詩鈔』(昭和15年3月刊・富山房)を編纂し、長文解説を書き下ろしていますが、収録詩人48人の人選と収録作品総数180篇の選定はすべて萩原自身が直接詩人たちと連絡を取ったそうですから大変な力作だったわけです。詩人の収録順は50音順でもなければABC順でもなく、伊東静雄は『昭和詩鈔』の巻頭で『わがひとに與ふる哀歌』から「歸郷者」「私は強ひられる――」「冷めたい場所で」「わがひとに與ふる哀歌」「かの微笑のひとを呼ばむ」の5篇(伊東の詩集での収録順とは異なる収録順ですから、伊東自身か、伊東の了解を得た萩原による配置でしょう)に10ページを割いています。アンソロジー全編は360ページですから48人・180篇の中では際立っており(しかも巻頭です!)、10ページを割かれた詩人は他には萩原恭次郎、津村信夫、中原中也、安西冬衛、北川冬彦、草野心平、丸山薫、三好達治、田中冬二(収録順)になりますから、この『昭和詩鈔』に選ばれなかったために元々萩原嫌いだった吉田一穂が生涯萩原の悪口を公言してはばからなかったという逸話もありますが、萩原の人選はまず妥当と言えるでしょう。「歸郷者」「私は強ひられる――」「冷めたい場所で」の3篇は詩集表題作とともに前述の萩原の伊東論でも引用されていますから、「かの微笑のひとを呼ばむ」と併せて萩原が選んだ伊東の詩篇を引用しておきましょう。
歸郷者
伊東静雄
自然は限りなく美しく永久に住民は
貧窮してゐた
幾度もいくども烈しくくり返し
岩礁にぶちつかつた後(のち)に
波がちり散りに泡沫になつて退(ひ)きながら
各自ぶつぶつと呟くのを
私は海岸で眺めたことがある
絶えず此處で私が見た歸郷者たちは
正(まさ)にその通りであつた
その不思議に一様な獨言は私に同感的でなく
非常に常識的にきこえた
(まつたく!いまは故郷に美しいものはない)
どうして(いまは)だらう!
美しい故郷は
それが彼らの實に空しい宿題であることを
無數な古來の詩の讚美が證明する
曾てこの自然の中で
それと同じく美しく住民が生きたと
私は信じ得ない
ただ多くの不平と辛苦ののちに
晏如として彼らの皆が
あそ處(こ)で一基の墓となつてゐるのが
私を慰めいくらか幸福にしたのである
(初出・昭和9年/1934年4月「コギト」)
私は強いられる――
伊東静雄
私は強ひられる この目が見る野や
雲や林間に
昔の私の戀人を歩ますることを
そして死んだ父よ 空中の何處で
噴き上げられる泉の水は
區別された一滴になるのか
私と一緒に眺めよ
孤高な思索を私に傳へた人!
草食動物がするかの樂しさうな食事を
(初出・昭和9年/1934年2月「コギト」)
冷めたい場所で
伊東静雄
私が愛し
そのため私につらいひとに
太陽が幸福にする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
眞白い花を私の憩ひに咲かしめよ
昔のひとの堪へ難く
望郷の歌であゆみすぎた
荒々しい冷めたいこの岩石の
場所にこそ
(初出・昭和9年/1934年12月「コギト」)
かの微笑のひとを呼ばむ
伊東静雄
………………………………………
………………………………………
われ 烈しき森に切に憔(つか)れて
日の了る明るき断崖のうへに出でぬ
静寂はそのよき時を念じ
海原に絶ゆるなき波濤の花を咲かせたり
あゝ 黙想の後の歌はあらじ
われこの魍魅の白き穂波蹈み
夕月におほ海の面(おもて)渉ると
かの味気なき微笑のひとを呼ばむ
(初出・昭和10年/1935年7月「日本浪曼派」)
萩原は前述の伊東論の中で、アイルランドの岩礁ばかりの不毛の孤島(岩だけの島なので水源や森林もほとんどなく、漁業も農業も非常に過酷で貧しい)アラン島の島民の生活を描いたロバート・フラハティのドキュメンタリー映画『アラン』'34を引き合いに出し、伊東の詩集を「アラン島の叙情」と呼んでいます。「歸郷者」を伊東詩抄の巻頭に置いたのは同作がもっとも「アラン島の叙情」の特質を備えているからでしょう。ところで、伊東の詩集は口語詩と文語詩の対照にも特徴がある詩集ですから、代表的な文語詩も引いておきたいと思います。実際には詩集『わがひとに與ふる哀歌』全27篇(昭和7年~昭和10年作)の中で完全な文語詩は5篇しかないのですが、一読して口語詩と文語詩が半々のように見えるのは、この詩集は口語詩も文語的な詰屈な文体で書かれ、かつ二人の語り手による相聞歌(応答詩)の構成を持っているからです。
氷れる谷間
伊東静雄
おのれ身悶え手を揚げて
遠い海波の威(おど)すこと!
樹上の鳥は撃ちころされ
神秘めく
きりない歌をなほも紡(つむ)ぐ
憂愁に氣位高く 氷り易く
一瞬に氷る谷間
脆い夏は響き去り……
にほひを途方にまごつかす
紅(くれなゐ)の花花は
(かくも氣儘に!)
幽暗の底の縞目よ
わが 小兒の趾(あし)に
この歩行は心地よし
逃げ後れつつ逆しまに
氷りし魚のうす青い
きんきんとした刺は
痛し! 寧ろうつくし!
(初出・昭和10年/1935年4月「文學界」)
行つて お前のその憂愁の深さのほどに
伊東静雄
大いなる鶴夜のみ空を翔(かけ)り
あるひはわが微睡(まどろ)む家の暗き屋根を
月光のなかに踏みとどろかすなり
わが去らしめしひとはさり……
四月のまつ青き麦は
はや後悔の糧にと収穫(とりい)れられぬ
魔王死に絶えし森の邊(へ)
遥かなる合歓花(がふくわんくわ)を咲かす庭に
群るる童子らはうち囃して
わがひとのかなしき声をまねぶ……
(行つて お前のその憂愁の深さのほどに
明るくかし處こを彩れ)と
(初出・昭和10年/1935年6月「コギト」)
漂泊
伊東静雄
底深き海藻のなほ 日光に震ひ
その葉とくるごとく
おのづと目(まなこ)あき
見知られぬ入海にわれ浮くとさとりぬ
あゝ 幾歳を経たりけむ 水門の彼方
高まり 沈む波の揺籃
懼れと倨傲とぞ永く
その歌もてわれを眠らしめし
われは見ず
この御空の青に堪へたる鳥を
魚族追ふ雲母岩(きらら)の光……
め覚めたるわれを遶りて
躊躇(ためら)はぬ櫂音ひびく
あゝ われ等さまたげられず 遠つ人!
島びとが群れ漕ぐ舟ぞ
――いま 入海の奥の岩間は
孤独者の潔き水浴に 真清水を噴く――
と告げたる
(初出・「コギト」昭和10年/1935年8月)
しかし萩原の『氷島』の自伝的で悲愴な詠嘆に対して(萩原の「乃木坂倶楽部」や「無用の書物」にも『氷島』としては精一杯の諧謔がありますが)、伊東の『わがひとに與ふる哀歌』にははっきりとフィクションを意図し、ロジカルに醒めた一面があります。次の2篇などはそうです。
秧鶏は飛ばずに全路を歩いて来る
伊東静雄
秧鶏(くひな)のゆく道の上に
匂ひのいい朝風は要(い)らない
レース雲もいらない
霧がためらつてゐるので
厨房(くりや)のやうに温くいことが知れた
栗の矮林を宿にした夜よは
反(そり)落葉にたまつた美しい露を
秧鶏はね酒にして呑んでしまふ
波のとほい 白つぽい湖邊で
そ處(こ)がいかにもアツト・ホームな雁と
道づれになるのを秧鶏は好かない
強ひるやうに哀れげな昔語(がたり)は
ちぐはぐな相槌できくのは骨折れるので
まもなく秧鶏は僕の庭にくるだらう
そして この傳記作者を殘して
來るときのやうに去るだらう
(初出・昭和10年/1935年4月「四季」)
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
伊東静雄
耀かしかつた短い日のことを
ひとびとは歌ふ
ひとびとの思ひ出の中で
それらの日は狡(ずる)く
いい時と場所とをえらんだのだ
ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
ひとの目を囚(とら)へるいづれもの沼は
それでちつぽけですんだのだ
私はうたはない
短かかつた耀かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
(初出・昭和10年/1935年1月「コギト」)
詩集『氷島』が達成とともに萩原の詩人としての手詰まりを感じさせるのも、文語詩に徹底したのを目的化してしまった面とその漢文脈にあるように思えます。伊東は文語詩にこだわらず、その文語詩は一見漢文脈に見えて和漢混交の柔軟な文体を持っていました。序詩「漂泊者の歌」について指摘した通り『氷島』には二重否定により強意の効果を狙って論理的には破綻した修辞が続出し、文体も完全な漢文脈ではなく所々口語的発想が破格の構文をもたらしていますが、それが独創性・訴求力であるとともに短所にもなっている難があります。三好達治の否定的評価のように詩想の枯渇が文体に反映している、または文体で不十分な詩想を塗装しようとしたという意の批判が払底できないのも『氷島』の萩原独自の文体にこそあり、これを検討するのが次回の課題になるでしょう。
(引用詩の用字、かな遣いは初版詩集複製本に従い、明らかな誤植は訂正しました。)
(以下次回)
(旧記事を手直しし、再掲載しました。)