山村暮鳥詩集『聖三稜玻璃』(3) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

山村暮鳥・明治17年(1884年)1月10日生~
大正13年(1924年)12月8日没、享年40歳

 山村暮鳥(明治17年/1884年1月10日生~大正13年/1924年12月8日没)の第二詩集『聖三稜玻璃』全編はほぼ均等な4部に分かれ、本文中の該当ページに「1915  III-V」「1914  V-」「1914  VII-XII」「1915  I-II」と印刷された(作品制作年月を表す)トレーシング・ペーパーの小さな紙片が挟み込んであります。詩集巻頭にはレオナルド・ダ・ヴィンチのデッサン1葉、古代仏典「ウシャニパッド」からの引用、さらに暮鳥自身による無題の題辞詩が置かれ、室生犀星による長文の序文が寄せられていました。詩集発行元(とはいえ自費出版ですが)のにんぎょ詩社は室生照道(犀星の本名)が主宰者になっています。暮鳥は『聖三稜玻璃』刊行の半年前(大正15年6月18日付)の同人誌仲間への書簡で「あなたが東京にお移りでしたら(同人誌の)発行人をあなたになつて貰いたいのですが、室生等を排斥するんです。あんな不良少年と仕事はできません」と室生への不信を述べていますが、日夏耿之介が後に回想するように室生犀星は図々しいくらいに人づき合いと世間知、現実処理能力は抜群だったようで、結局暮鳥も犀星に詩集刊行を預けています。

 詩集の第1部「1915  III-V」には大正4年3月~5月制作の詩篇から9篇、第2部「1914  V-」には大正3年5月制作詩篇から2篇、今回の第3部「1914  VII-XII」には大正3年7月~12月制作詩篇から12篇が収められ、次回ご紹介する第4部「1915  I-II」には大正4年1月~2月制作詩篇から12篇がまとめれています。詩集全編の収録作品は全35篇、全4部はほぼ均等な分量になっています。第一詩集『三人の處女』(大正2年/1913年5月)刊行後に刊行ぎりぎりまで収録作品の制作・発表が続けられた第二詩集『聖三稜玻璃』(大正4年/1915年12月)までの約2年半の間に、暮鳥がさまざまな同人誌に手当たり次第に発表した作品は総数200篇以上になり、未発表詩篇を数えると月産平均10篇を超えていますから、200篇+未発表詩篇からの35篇では詩集採用詩篇は2割に満たなかったことになります。40歳で亡くなった暮鳥の作品数は57歳で亡くなった萩原朔太郎の4倍以上になり、最晩年まで旺盛な詩作を続けた室生犀星(享年72歳)や金子光晴(享年80歳)の全詩業に匹敵します。しかも暮鳥が生前に7冊の詩集にまとめた作品は(『聖三稜玻璃』時代の補遺詩集『黒鳥集』も含めて)全詩作の3割にも満たないのです。
 
 暮鳥は貧しい小作農の生まれで、複雑な家庭事情から一家は東北各地を転々とし離合集散を繰り返しました。小学校がほぼ完全に義務教育化されたのは明治38年(1905年)の日露戦争終結後の明治39年~明治40年で、明治31年~明治32年(1898年~1899年)生まれ以前の日本人は小学校教育を受けることすら難しかったのです。暮鳥の生育環境や実家の経済力を鑑みると神学校進学~日本聖教会伝道師という進路は優秀な学力による奨学金制度を得なければ不可能だったでしょう。萩原朔太郎や中原中也のように実家が大病院で遺産や仕送りで暮らしていたのでもなく、高村光太郎のように江戸時代から続いた彫刻師の家系として手に職があるわけでもなく、宮澤賢治や太宰治のように実家が大地主の豪農だったのでもありません。その上、暮鳥は職業的聖職者としての適性に問題があり、次々とトラブルを招きました。暮鳥の宣教内容は教会本部の方針を逸脱しており、詩人であることが不信感に輪をかけました。暮鳥独自の解釈による難解な宣教や指導力の弱さは信徒から罷免の訴えすら招くこととなり、何度となく教会本部に担当伝道所をたらいまわしにされています。しかし暮鳥は聖書研究以外に文学研究会も先々の伝道所で主宰したので、暮鳥に兄事する文学青年たちからは非常に慕われていました。

 30代始めから暮鳥には結核の兆候があり、牧師の業務も休職が増えて生計が逼迫したので、原稿料収入のために童話・童謡集を晩年5年間で10冊、地方新聞連載の長編小説を4作も書いています。大正8年(1919年)6月には教会本部から半年後の12月までの休職期間で完治しないと伝道師を解雇すると通達され、当然当時の結核治療は抗生剤もない時代ですから、半年で完治する病状ではありませんから、これは事実上の猶予つき免職でした。その後の晩年5年間(とはいえ35歳~40歳)は、暮鳥は文学研究会に集っていた青年たち(最盛時には76名)からの住居の提供(田舎の家の離れ等ですが)や食糧の提供を受けながら、現金収入はわずかに童話や小説の原稿料きりになりました。夫人と女児ふたりの家庭でしたが、石川啄木のように夫人にも結核を感染させて命取りになり、子どもも病死という悲惨なことにはならず、5年間真剣に結核療養に務めたようです。夫人もお嬢さんがたも長寿を全うしました。暮鳥に薫陶を受けた詩人たちは故人をしのぶ暮鳥会を続け、暮鳥没後100年になる現在でも没後会員によって活動が受け継がれています。暮鳥は群馬県出身で宣教師時代は秋田県各地、茨城県各地を転々としましたが、晩年は茨城県大洗町で療養に専念し同地で亡くなりました。遺稿・遺品は暮鳥未亡人(1979年没)から暮鳥会に託され、暮鳥会によって茨城県立図書館に一括寄贈され常設展が行われています。
 
 今回の第3部は極端に断片化した文体、ひらがな詩の試みと意図的なかな・漢字表記の不規則さ、文脈を無視した唐突な宗教的イメージ(しかも神仏・ヒンズー・キリスト教の恣意的な混合)、具象詩なのか隠喩詩なのかわからない文体と視点、弁証法的発想ではまったくない異様なイメージの衝突による一元的なイメージの相殺など、『聖三稜玻璃』期の暮鳥の短詩の特徴のショーケースの観があります。第1部の「1915 III-V」に較べるとまだ過渡期ではありますが、第2部「1914 V-」の大作散文詩「A' FUTUR」(同人誌掲載時は「肉體の合奏の行進曲」というタイトルで、フランス語の「A' FUTUR (香水に寄せる)」に改題して成功です)を短詩に分割した試みが「1914 VII-XII」だったのがわかります。第4部「1915 I-II」ではさらに練れた作風になり、最新作の第1部に回帰する構成になっています。

 しかしこの『聖三稜玻璃』は、伊良子清白『孔雀船』(明治39年/1906年)からはたった10年、石川啄木『啄木遺稿』(大正2年/1913年)収録の啄木晩年作品からすら5年未満しか経っていないとは信じがたい詩集です。「秋澄み//電線うねり/電線目をつらぬき」(「模様』)、「かみのけに/ぞつくり麦穂」(「光」)、「百足(むかで)ちぎれば/ゆび光り」(「持戒」)、「むぎのはたけのおそろしさ……」(「印象」)、「銀魚はつらつ/ゆびさきの刺疼き」(「十月」)、「寂光さんさん/泥まみれ豚//秋冴えて/わが瞳の噴水/いちねん/山羊の角とがり」(「楽園」)などの鮮やかな奇想、美しいひらがなの4行詩「発作」を一語も書きかえられる他の詩人はいないでしょう。「銀魚」はこの時期の暮鳥の好んだ造語ですが、金魚ならぬ一般の魚を「銀魚」と捉えるのは具象でもあり抽象でもあります。旧約聖書「創世記」の禁断の樹をモチーフにした2行4連のひらがな詩「曼陀羅」も宗教的というよりもむしろ童話的な幻想性を感じさせます。

 第3部最高の作品はたった5行の短詩「岬」でしょう。晴れた夜空に魚が灯台の明かりに集まってくる光景ですが、「岬の光り/岬のしたにむらがる魚ら」(「魚」の読みは「うを」でしょう)と灯台という言葉は一度も使わずに情景を述べ、「岬にみち尽き/そら澄み」という簡素な副詞節で光景の絶対的な真実性を導いた上で「岬に立てる一本の指。」と灯台そのものを神秘的な「指」に幻視します。生命本能としての信仰の発生を灯台の光に集まる魚を暗喩として描いた宗教詩と取るのがもっとも素朴で妥当ではありますが、これは明らかに既成宗教のどんな教義にとっても異端なものです。おそらく暮鳥にはその自覚がなかったので、職業的聖職者としての不適格と幻視者としての詩人的卓越性が同居したことに暮鳥の不幸も栄光もあったのです。

『聖三稜玻璃』初版
四方貼函入り型押し三方山羊革表紙特製本
にんぎょ詩社・大正4年(1915年)12月10日発行
(着色型押し三方山羊革表特紙本)

1914  VII-XII

 樂園
 
寂光さんさん
泥まみれ豚
ここにかしこに
蛇からみ
秋冴えて
わが瞳(め)の噴水
いちねん
山羊の角とがり。
 
(大正3年/1914年11月「地上巡禮」)


 發作
 
なにかながれる
めをとぢてみよ
おともなくながれるものを
わがふねもともにながれる。
 
(大正4年/1915年3月「地上巡禮」)


 曼陀羅
 
このみ
きにうれ
 
ひねもす
へびにねらはる。
 
このみ
きんきらり。
 
いのちのき
かなし。
 
(大正3年/1914年10月「地上巡禮」)


 かなしさに

かなしさに
なみだかき垂れ
一盞の濁酒ささげん。
秋の日の水晶薫り
餓ゑて知る道のとほきを
おん手の葦
おん足の泥まみれなる。
 
(大正3年/1914年10月「地上巡禮」)


 岬
 
岬の光り
岬のしたにむらがる魚ら
岬にみち盡き
そら澄み
岬に立てる一本の指。
 
(大正4年/1915年4月「詩歌」)


 十月

銀魚はつらつ
ゆびさきの刺疼(うづ)
眞實
ひとりなり
山あざやかに
雪近し。
 
(大正3年/1914年11月「地上巡禮」)


 印象

むぎのはたけのおそろしさ……
むぎのはたけのおそろしさ
にほひはうれゆくゐんらく
ひつそりとかぜもなし
きけ、ふるびたるまひるのといきを
おもひなやみてびはしたたり
せつがいされたるきんのたいやう
あいはむぎほのひとつびとつに
さみしきかげをとりかこめり。
 
(初出誌不詳)


 持戒

草木を
信念すれば
雪ふり
百足(むかで)
ちぎれば
ゆび光り。
 
(大正3年/1914年11月「風景」)


 光
 
かみのけに
ぞつくり麥穗
滴る額
からだ青空
ひとみに
ひばりの巣を發見(みつ)け。
 
(大正3年/1914年8月「郷土文藝」)


 氣稟

鴉は
木に眠り
 
豆は
莢の中
 
秋の日の
眞實
 
丘の畑
きんいろ。
 
(大正3年/1914年12月「詩歌」)


 模樣
 
かくぜん
めぢの外
秋澄み
方角
すでに定まり
大藍色天
電線うなる
電線目をつらぬき。
 
(初出誌不詳)


 銘に
 
廢園の
一木一草
肉心
磁器
晶玉
天つひかりの手
せんまんの手
その手を
おびえし水に浸し
目あざやか。
 
(大正3年/1914年9月「潮」)

(以上「1914  VII-XII」12篇)

(以下次回)

(旧記事を手直し再掲載しました。)