スティーヴン・クレイン『街の女マギー』(前) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。


 19世紀アメリカの夭逝作家スティーヴン・クレイン(Stephen Crane、1871~1899、享年28歳)は、同世代のフランク・ノリス(1870~1902、出世作『マクティーグ(『死の谷』『グリード』)』1899年)、セオドア・ドライサー(1871~1945、処女作『シスター・キャリー(『黄昏』)』1900年)と並ぶアメリカ自然主義の小説家とされますが、実際のクレイン作品はゾラとモーパッサンを代表とするフランス自然主義小説、島崎藤村(1872~1943)や田山花袋(1872~1930)、徳田秋声(1872~1943)を代表とする日本の自然主義小説はおろか、社会的関心が広く劇的な構成に富んだノリスや、自然主義にロシア文学的な重厚な性格描写と問題性を加えたドライサーとも異なる、非常に不思議な作風のものです。没後30年あまり忘れられて1930年代に再評価された年長の女性南部作家ケイト・ショパン(1850~1904、第1長篇『過ち』1890年、第2長篇『目覚め』1899年)とも共通した点が多くあり、ローカル作家だったショパンよりもクレインは生前に全米的な文壇的評価を獲得していましたが、ヘミングウェイを始めとする1920年代~1930年代の作家から改めてクレインが脚光を浴びたのは、自然主義にとどまらないクレイン作品の異質さによるものでした。クレインは多くの優れた短篇とともに6作の長篇小説(未完の遺稿長篇1作を含む)を残しましたが、長篇小説はいずれも日本語訳で120ページ~200ページと中篇規模の長さです。日本語訳にして上下巻におよぶフランク・ノリスの『マクティーグ』『オクトパス』、ドライサーの『シスター・キャリー』『ジェニー・ゲルハート』の1/4ないし1/3しかありません。クレインは大学中退後ほとんど社会人経験もなく20歳で専業作家になったので、20代を習作期間と社会人生活で送ったフランク・ノリスやセオドア・ドライサーの処女作・出世作より生活経験が浅いのはやむを得ないことでした。その点では没落士族家庭の長女として下町で暮らし、少女たちの和歌教師として細々と一家を養っていた樋口一葉(1872~1896、『大つごもり』1894年、『たけくらべ』1895年)より庶民生活の観察を経た厚みに乏しく、作家志望のボヘミアン大学生のまま専業作家になった弱みは否定できません。しかし大学入学直後の1891年(19歳)から学業と新聞記者のアルバイトのかたわら執筆を始め、同年には早くも大学を退学してニューヨークのバウアリー地区に取材におもむき、翌1892年(20歳)に完成するも刊行を引き受ける出版社はなく、21歳の1893年3月に亡父の遺産と兄からの借金で1100部を自費出版した150ページ足らずの処女作にして第1長篇『街の女マギー (Maggie:A Girl of the Streets)』は、先輩作家からの賞賛を浴びてクレイン自身が街頭売りまでするもまったく売れなかったため、ほとんどの部数が焼却処分されたにもかかわらず、1980年代には24部きりが現存確認され、400万円の価格がつく稀少書になるどころか、19世紀文学と20世紀文学を橋渡しするアメリカ小説史上の特異点としてケイト・ショパンの『目覚め』ととに、もっとも重視され問題をはらんだ古典的作品と目されるようになりました。庶民階級の少年少女たちを大人の目からではなく子供たちの等身大の視点で描いた一葉の『たけくらべ』は西洋文学にもない画期的作品とされますが、『たけくらべ』ほどの詩的想像力、洞察力、観察眼、完成度には達していないとしても、『街の女マギー』は樋口一葉より2年の僅差で早く、同じ主題に取り組んでいたのです。
 原書にして150ページ(日本語訳にして原稿用紙180枚程度)の『街の女マギー』はいずれも8ページほどの全19章からなりますが、内容はほぼ四部、または五部に分けられます。同作はこれまで4種類の翻訳がありますが(『巷の娘』大久保康雄訳・1950年、『街の女マギー』大橋健三郎訳・1957年、『マギー・街の女』大坪精治訳・1980年、『ニューヨーク・バウアリー物語(姉妹作『ジョージの母』併載)』岩月精三訳・1982年)、今回は原文で読んでみて、あらすじをまとめてみました。

 第一部(第1章~第3章)は、スラム街の不良少年ジミー・ジョンソンが、敵対する隣のスラム街の不良少年たちの一味と一人で喧嘩しようとする場面から始まります。劣勢のジミーは友人のピートに助けられ、帰宅途中の父の姿に少年たちは散っていきます。ジミーは妹のマギー、よちよち歩きの弟のトミー、先に帰宅していた残忍で酒浸りの父親、そして育児放棄した母親メアリーのいる家に帰ります。アイルランドからの移民である両親は夫婦仲も悪く、日常的に子供たちを虐待しています。

 第二部(第4章~第9章)では数年が経ち、トミーと父親は亡くなり、マギーは盗んできた花を棺の中のトミーの手に挿みます。ジミーはさらに攻撃的でニヒルな無法者へと変貌しています。貨物馬車の馭者として働くジミーは、馬車より交通を優先される消防車と交通整理の警官以外には従いません。美しい少女に成長したマギーはシャツ工場で働き始めますが、マギーの努力はアルコール中毒の母親の八つ当たりによって台無しになります。マギーはジミーの友人ピートとつきあい始めます。バーテンダーとして働くピートはマギーの目に立派な人物に映り、今の生活から抜け出すのを助けてくれると思いこみます。女たらしのピートはマギーを劇場や博物館に連れて行きます。ある夜、兄ジミーと母メアリーはマギーを「悪魔の所業(街娼)をやった」と非難し、耐えかねたマギーはピートを頼って家出します。
 
 第三部(第10章~第14章)で、ジミーは自分自身も近所の少女たちをたぶらかし、堕落させてきたにもかかわらず、マギーを誘惑したピートのバーに行き喧嘩を始めます。ピートの勤めるバーの地下にある売春窟の女たちがピートをかばいます。安アパートの隣人たちがマギーの噂話に興じる中、ジミーとメアリーはマギーをかばうどころか、隣人たちと一緒にマギーの悪口を言いふらします。

 第四部・第五部(第15章~第16章・第17章~第19章)では、売春窟の「聡明で大胆な女」ネリーがマギーを意志薄弱で哀れな女と呼び、ピートにマギーと別れるよう説得します。すでにマギーに飽きていたピートはマギーを捨てます。頼る者のなくなったマギーは家に帰ろうとしますが、母親に拒絶され、アパートの住人全員から蔑まれます。第17章では「彼女」とだけ呼ばれる街娼が通りをさまよい、次第に治安の悪化するスラム街を転々とし、夕暮れに職場から帰宅する工員たちに客引きの失敗をくり返し、橋の上に着くとみすぼらしい酔っぱらいに追いかけられ、ようやく逃げると、夜のビル影が映る川面をじっと見つめます。第18章では、ピートが酒場で「聡明で大胆な」6人の着飾った売春婦たちと飲んでいます。ピートは泥酔して気を失い、ネリーらしき姉御の女がピートの金を奪います。最終章の第19章では、ジミーが母親メアリーにマギーが死んだと告げます。酔った母親はマギーが赤ん坊だった頃の小さな靴下を取り出して自己憐憫に浸り、隣人たちが慰める中、「あの子を許すわ!」と叫びます。

 と、あらすじにするとゾラの『ナナ』(1880年)のような自然主義小説の常套である庶民の少女の堕落物語になりますが、『街の女マギー』の異色さはほとんど説明的な性格描写や物語展開の細部を飛ばし、映画の先取りのように各章ごとが独立した場面で構成されていることにあります。サイレント映画でこうしたシーン分割によって物語を進める話法が確立するのはD・W・グリフィス(1875~1948)の1912年以降の短篇映画からなので、『街の女マギー』はニューヨークのスラム街の不良少年少女たちの抗争を描いた、短篇時代のグリフィスの傑作『ピッグ横丁のならず者たち (The Musketeers of Pig Alley)』(バイオグラフ社、1912年)を連想させます。短篇映画時代のグリフィスはフランク・ノリスの短篇小説が原作の「小麦の買い占め (A Corner in Wheat)」(1909年)もありますから、『ピッグ横丁のならず者たち』が『街の女マギー』にインスパイアされたオリジナル脚本作品なのは想像にかたくありません。クレイン作品においては、まず冒頭の第1章で描かれるスラム街の不良少年たちの喧嘩でも、マギーの兄ジミーや敵対する不良少年たちの性格描写はほとんどなく、ジミーと名前だけで呼ばれる少年が、ブルー・ビリーやライリー、親分らしい「16歳の少年」と呼ばれる隣のスラム街の不良少年たちと殴りあい、通りかかったピートに加勢され、工事から帰宅途中のジミーの父の姿を見て少年たちが散っていく、という行動と情景描写しかありません。第2章で帰宅したジミーの家族の描写も、ヒロインであるマギーすら「みすぼらしい服の少女」として登場し、家族の会話で「マギー」と呼ばれるまで名前すら地の文では書かれません。この徹底したカメラ・アイ手法は街娼に身を落としたマギーが川に投身自殺をすることが暗示される第17章、バーテンダーのピートがバーの地下売春窟の女たちと酒盛りに興じた挙げ句泥酔してネリーらしき売春婦の大姉御に財布を盗まれる第18章、死因さえ語られず兄のジミーが「マギーが死んだ!」とだけ母のメアリーに告げる第19章(最終章)でピークに達するので、この小説は行動と台詞(会話)だけでできているのです。第17章の「彼女」がマギーなのか、川に投身自殺するのかもクレインは代名詞と暗示だけしか書いておらず、またこうした手法のため作者自身が各章で起きた出来事の因果関係の説明も一切省かれています。マギーの堕落のきっかけになる母メアリーの虐待、女たらしの誘惑者ピートの性格も母メアリーの行動、裏表あるピートの行動(マギーに対するピート、看板女のネリーが仕切る勤務先のバーの地下売春窟でのピート)を通してしか読者が読み取るしかありません。上下巻に渡る『ナナ』や『ベラミ』(モーパッサン、1885年)のようなリアリズムに徹したフランス自然主義の、細部にいたるまで精密描写で書かれた小説とは、真っ向から対照的な手法で書かれているのです。こうしたクレインの手法はベストセラーになり出世作となった戦争小説の第2長篇『赤い武功章』(1894年完成、1895年刊)、『街の女マギー』の姉妹作(乙女時代のマギーに失恋するスラム街の内気な青年とその母の物語)の第3長篇『ジョージの母』(1895年完成、1896年刊)で、より精密に磨かれていきます。
 スティーヴン・クレインがこうした手法を取ったのは、フランス自然主義小説の英訳を読んで『街の女マギー』の執筆に着手した19歳~完成して自費出版した21歳までの社会経験の不足と作家的技量がまだまだ未熟だったため、とも言えるでしょう。またクレインは自費出版前にジャーナリズムのアルバイトのつてで複数の出版社に持ち込み出版を断られていますし、当時のアメリカの倫理規定はヨーロッパ諸国より厳しく、特に性についてあからさまな記述をするのは即発禁回収、さらに罰金刑の危険もありました。そうしたいろいろな要因のため、このクレインの処女作『街の女マギー』は喩えれば、いわばあちこちのピースが欠損した、ジグソーパズルのような小説です。樋口一葉晩年の透徹した庶民階級の人物の性格把握と、豊かな想像力と説得力・完成度の高い小説とは比較にならないほど欠陥だらけの小説です。しかし結果的に『街の女マギー』は、その曖昧な印象主義的描写と自然主義的題材の併存によって、アメリカ自然主義小説にとどまらない前衛性と、何度読み返しても薄れない初々しさに満ちた、作者が悲惨な環境にある登場人物たちに託した貧民階級の痛みを痛切に伝える小説になったのです。 

(以下次回)