郵便局の終活日和 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

 元日本郵政公社、現日本郵便株式会社の取り扱い事業というともっぱら郵便が主のように思われがちですが、実際は郵便・貯金・保険が三本柱で、他の銀行にメインの口座を持っていてもゆうちょ銀行口座にも分けている、またはゆうちょ銀行一本で銀行口座を済ましている、という方も多いでしょう。農業が盛んだった50~60年前なら農協が銀行の役割を果たしていましたが、農地だった郊外までベッドタウン化した現在では農協自体が事業を縮小化しています。かつて国家運営だった郵政省の分割民営化について功罪を問えばきりがありませんが、郵便局は実際は貯金・保険の方が本体と言えて、その資金運用は国家事業に転用されていました。例えば旧日本国有鉄道、略称国鉄がJRグループに再組織化された際に、JRが負っていた国鉄時代からの数十億円の負債は郵政省の資金によって補填されました。

 カール・マルクス(1818~1883)は19世紀の人ですし、その経済学理論もすべての文化圏に応用できるとは限りませんが、権力による国家支配の三本柱は「銀行・鉄道・(あとひとつ何だっけ?)」と看破していました。マルクスの著作で一応通読したのが高校の先生に勧められて読んだ初期の概論『経済学・哲学草稿』(いわゆる『経哲草稿』1844年)、エンゲルスとの共著「共産党宣言」(1848年)だけなので記憶もあてになりませんが、国家権力が国民の労働を掌握する際に「銀行(換金資本)」と「鉄道」(物流・人流)を管理する、というのは高校生くらいで習っておくべきで、あとひとつ何だったか思い出せずじれったいですが、「郵便(通信)」でも「医療(資格)」でもいいでしょう。いわばそこでは労働者=労働は「商品」としてやり取りされる存在にすぎません。それが飽和状態に達すれば権力なき国家的資本共有、「共産主義」に移行して労働=商品の時代の終りが来るだろう、というマルクスの予言は今なお実現しておらず、代わりに「超高度資本主義」の時代に突入したというのが近年50年来の一般的な見解になっています。その50年の間に三世代同居はほぼ消滅し、二世代同居すら減少し、世帯のほとんどが核家族化しています。また毛沢東によって中華人民共和国で昭和42年(1967年)~昭和51年(1976年)に行われた「文化大革命」が従来の伝統的な自然発生的自治体の崩壊を招き、いかに悲惨な結果をもたらしたかも、1980年代末~1990年代初頭には解禁されることになりました(田壮壮監督作品『青い凧』1993、陳凱歌監督作品『さらば、わが愛/覇王別姫』1993参照)。

 いわゆる「団塊の世代」が定年を迎えた1948年前後、その年金が発生する2003年前後に、ゆうちょ銀行を始めとする銀行はこぞって退職金受取口座、年金受取口座の顧客の奪い合いになったそうですが、「団塊の世代」が70代半ばになった2024年の今や個人資産の「終活運用」すら銀行の提供する「商品」になっています。マルクスが分析した資本主義下の人間の商品化、人間性の疎外に、核家族化が進むとともに超高度資本主義下の人々はすっかり順化されてしまったので、まだしも1990年代なら「終活」という口当たりの良い呼び換えには抵抗感がある人が多かったでしょう。国民の1/3が65歳以上になる人口比が近づいた現在、下から突き上げるように青年~壮年世代からも「終活」という言葉が高齢者に突きつけられるようになり、流されるように「終活」商品が当たり前のように提供されるのに違和感を持つ人すら少ない、という現実がとうとうやって来たのには薄ら寒い思いがします。これは現代の姥捨て山、新たな「楢山節考」です。しかも誰も他人(本人ですら!)の死に自責の念なしで向かい合わずにいられる死の商品化です。どんな死も個人的に訪れることには違いありませんし、それについての備えに他人や専門家の智恵を借りるのはおかしなことではありませんが、「断捨離」や「終活」と言った言葉が安易に交わされる風潮は、親しい人との人間関係や自分の過去をも他人事にしてしまうような薄っぺらさと裏表でしょう。「死」にすら余剰換金価値(ビジネス)が生じるとすれば、それは立派な「屠殺」です。もはや「終活」とはそういうものだと理解した方が良さそうです。そうした社会における人間のあり方など生涯労働の対価による「商品」にすぎないという先駆的な解明は、大著『資本論』の原型かつ濃縮版、マルクス26歳の学習ノート『経済学・哲学草稿』(少なくとも‘80年代初頭までは学生の必読書でした)にすらすでに尽くされています。共産主義という色眼鏡なしに、それは今なお学ぶ価値があります。