小林秀雄『ドストエフスキイの生活』 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。


 昭和20年代~50年代に多く刊行された各社の「日本文学全集」類で、批評家で1巻を占めているのは小林秀雄(1902~1983)だけです。48歳の昭和26年(1951年)には最初の『小林秀雄全集』により日本芸術院賞受賞を受賞し、昭和34年(1959年)には57歳にして日本芸術院会員となった小林は、アルチュール・ランボーやポール・ヴァレリー、アンドレ・ジッドの本格的な紹介者として、また富永太郎や中原中也、三好達治ら詩人たちとの交友も伝説的で、同人誌時代から芥川龍之介に注目され、昭和4年(1929年)に「様々なる意匠」が『改造』懸賞評論第二等入選作(一等は宮本顕治『「敗北」の文学』)で批評家デビューし、昭和5年(1930年)4月に「アシルと亀の子」を「文藝春秋」に発表後後1年間に渡って連載された文芸時評で文学青年たちから熱狂的な支持を得るとともに、文学時評の終了からは明治学院大学講師として内外の文学を講じ、大評判になる新進気鋭の批評家となりました。志賀直哉や宇野浩二を始めとした大正時代からの文学者、当時文壇をリードしていた横光利一や川端康成との交際も密接で、小林秀雄と対立し、また匹敵する昭和以降の批評家は中野重治(1902~1979)くらいでしょう。学生時代の同人誌活動から逝去まで日本文壇のトップ・エリートだった人で、21世紀の現在でもなお20世紀日本の批評家で読むに耐える文学者として中野重治とともに尊敬されています。筆者は一時地元の芸術家サロンに招かれて若い批評家、翻訳家、画家、音楽家たちの意見をうかがう機会がありましたが、日本の文学者で論ずるに値するのは小林秀雄、という意見の一致には教条的な違和感を感じました。これが中野重治や、小林の盟友・河上徹太郎(1902~1980)や中村光夫(1911~1988)、またはあの恐るべき保田與重郎(1910~1981)、あるいは戦後の批評家でも福田恆存(1912~1994)や江藤淳(1932~1999)だったら、具体的な著作に即してもっと意見を聞きたかったと思います。
 筆者はこの年の瀬にドストエフスキーの主要作品を読み返そうと思い(筆者がもっとも戦慄するドストエフスキー作品は『地下室の手記』と『悪霊』、好きなのは『貧しき人々』と『白痴』『永遠の夫』です)、先んじて所蔵している昭和31年(1956年)刊の普及版『小林秀雄全集』(全8巻)から1939年(昭和14年)~1940年(昭和15年)の著作を集めた第五巻の『ドストエフスキイの生活』を読み返している最中ですが、なかなかページが進みません。小林秀雄については梶井基次郎(1901~1932)が親友の三好達治(まだ三好が小林と友人になる前です)宛ての書簡に、小林秀雄の文芸批評についてもったいぶった文体と意図的に仕組まれた韜晦さを難じる意見を漏らしており、またブロレタリア詩人の小熊秀雄(1901~1940)も小林秀雄訳のランボー『地獄の季節』を書評で賞讚しながら、風刺詩ではハッタリの文壇エリートと見なして攻撃しています。筆者が文学少年だった頃には柄谷行人(1941~)と中上健次(1946~1992)の長篇対談『小林秀雄をこえて』(昭和54年/1979年)の反響が尾を引いていました。筆者も岩波文庫の小林秀雄訳『地獄の季節』や文春文庫の『考えるヒント4  ランボオ・中原中也』(ランボー、中原中也論、『地獄の季節』『飾画』「酩酊船ほか韻文詩」の翻訳収録)を、小林秀雄の他の著作より先に読んでいたので、ランボー案内書としての学恩を感じつつも、批評対象を論じて自己を語る小林秀雄の論法(しかも梶井基次郎、小熊秀雄の指摘通りハッタリめいてもったいぶった文体)には警戒心を抱いていました。寄らば大樹の陰と言わんばかりに、ランボーやヴァレリー紹介と文芸時評で名を上げたのちの小林秀雄の著作は、総論的な『私小説論』以降には、『ドストエフスキイの生活』、日本の古典中世文学を論じた『無常といふ事』(戦時下ではそれが精一杯とも擁護できますが)、敗戦後の(「悲しみが疾走する」のキラー・フレーズで話題を呼んだ)『モオツァルト』、弟テオ宛ての書簡集からたどった評伝『ゴッホの手紙』、主にフランス印象派絵画を論じた『近代絵画』、未完のベルクソン論の『感想』(没後刊行)、そして晩年の大著『本居宣長』と、刊行されるたびに文学的な事件となり古典的名著と目されながら、ほとんど現代文学を論じた著作はありません。現代文学については依頼に応じて片方なる言及しかありません、それでも『金閣寺』刊行時の三島由紀夫との対談で、『金閣寺』について「(本来の)小説はここ(『金閣寺』の結末)から始まるんじゃないか」とナイフの一閃のような批評眼を披露して三島を絶句させた辺りには現役批評家としての重みを感じさせ(小林は三島を横光利一型の実験小説家と見なしていましたが、横光同様三島もまた晩年10年間に極端な国粋主義者となったことまで小林の三島観は的中することになりました)、主著は古典研究、折々の発言は鋭利というのが、常に時流の文学思潮に適度な距離を置いて寄り添い、かつ的確で時には辛辣な批評を表し、温厚で明晰な表現を心がけた盟友の河上徹太郎や中村光夫とは位置を分けるカリスマ性がありました。
 小林秀雄の独創は、芸術作品をその芸術的仕上がりではなく、創作家の精神の運動として捉えて辿るという着想にありました。小林がランボー、ヴァレリー、ジッドら象徴主義の系譜にあるフランス文学、またドストエフスキーやトルストイら帝政時代のロシア文学、志賀直哉や芥川龍之介、宇野浩二や、同時代作家としては横光利一、富永太郎、中原中也から学んだのはそうした「『精神の運動』としての文学」という概念で、今日にいたるまでの日本で、小林秀雄以降のほとんどの批評家(文学のみならず音楽批評、美術批評まで)が直接間接に小林の影響下にあるのは端的に言ってその点です。小林の批評は日本的風土においてフロイディズムとマルキシズムの融合から批評をより抽象化することになりました。フランスの戦後批評家ロラン・バルト(1915~1980)の『零度のエクリチュール』が刊行されたのは1953年(昭和28年)、日本に同書が紹介されたのはその10年後でしたが、文学作品をその思想や社会的主張ではなく「エクリチュール(書法)」において捉える、という視点からフランス革命成立前後の17世紀以降のフランス文学を歴史的段階に分けて解明したバルトの同書が日本では欧米諸国ほど反響を呼ばなかったのは、小林秀雄がバルトとは異なるやり方で、バルトに先んじて「精神の運動」において創作家を解明する、という方法を確立していたからとも思えます。それは昭和5年(1930年)発表の横光利一の実験的短篇小説「機械」を、発表直後の「『機械』論」で「『機械』は世人の語彙にはない言葉で書かれた倫理書だ。」と、モダニズム文学としての実験的達成という世評を一蹴して断言した時点ですでに小林が獲得していた視座でした。

 一方、のち短篇集『機械』に集成された「機械」路線の横光利一の実験的作品について、梶井基次郎は横光からもっとも賞讚されていた詩人の北川冬彦(1900~1990)や三好達治宛ての書簡(梶井と北川、三好の三人は代わるがわる下宿を同居するほどの学友でした)で、「機械」を頂点とする横光利一の実験的短篇について「横光氏を格闘ライターとして注目している」と実作者らしい独自の視点で新作短篇の発表ごとに感想を送っています。梶井基次郎は30歳の昭和6年(1931年)5月に初の創作集『檸檬』(全18篇)を刊行したのち、翌昭和7年(1932年)3月に結核の悪化で逝去しますが、没後2周年の昭和9年(1934年)3月には早くも習作、批評、未発表遺稿、さらに書簡・日記を含む全2巻の『梶井基次郎全集』が刊行され、当時の文学青年の必読書になりました。完成作品が短篇20篇しかない梶井基次郎の全集が今日まで増補をくり返し読まれ続けているのは、書簡や日記に文学の未来を占う慧眼が溢れているからです。小林秀雄が「機械」について「世人の語彙にはない言葉で書かれた倫理書」と断言し、以降横光利一についての論及は辞めてしまったのに対し、横光の描く閉鎖環境における心理の綾を「格闘ライター」として注目する梶井基次郎の着眼点は動的に横光利一の作家的手腕に注目しており、ほとんど同一作家の同一作品について語ったものとは思えないほどです。ロラン・バルトの「エクリチュール」論に小林秀雄の批評は包括・吸収されてしまうかもしれませんが、梶井基次郎の文学観は「エクリチュール」を超越して、もっと実践的な創作活動の追跡に向かいます。小林の作品論・作家論が静止した断言に向かうのに対し、梶井の想像力は動的な可能性に向かうのです。晩年の梶井は三好、北川らへの書簡や日記で『資本論』の小説化という途轍もない構想を披露していました。梶井の衣鉢を継いだ作家としては、川端康成に見出だされ、ハンセン氏病の隔離病棟にあってフローベールとドストエフスキーから学んで一大社会小説の執筆を構想していた北条民雄(1914~1937)が上げられます。梶井を結核で、北条民雄をハンセン氏病で失った日本文学は大東亜戦争翼賛に向かいます。

 そんな時勢で『ドストエフスキイの生活』や『無常といふ事』を書いた小林秀雄は、あえて帝政ロシア文学や日本の古典中世文学を批評対象に選ぶことで、現代日本文学から目を反らし、よく孤塁を守ったと言えるでしょう。筆者が梶井基次郎や北条民雄贔屓で、小林秀雄に馴染めないのはここまでで露骨に自白してしまったと思います。昭和31年(1956年)刊の普及版『小林秀雄全集』全8巻は大学生時代に古書店で買って以来幾度となく繙読しており、『ドストエフスキイの生活』を読むのはこれが初めてではありませんが、読めば読むほど同書は熱意も想像力も欠いた評伝という印象が強いのです。そうした書物が読者にとって推進力を持たないのは言うまでもありません。小林秀雄は各種のドストエフスキー評伝、文献を摘録し、淡々と出生から逝去までのドストエフスキーの自己形成や作品と生涯を追っていますが、多くの卓見(『未成年』が「未成年」を描いた小説でなければならなかった意義など)を含みながら、その筆致は証言~推定~断言の積み重ねで、累積的にドストエフスキー作品の創作の揺らぎを捉えていく印象は稀薄です。ここにあるのは詰め将棋のようなドストエフスキー像で、今日ほとんど文学的価値を失ったドストエフスキーの模作『死霊』の作家、埴谷雄高(1909~1997)が涌いて出たそのオリジンのように固定化した「ドストエフスキー」のクリシェ(決まりきったようにくり返される愛憎、貧困、長談義、陰謀、裏切り、暴力、犯罪、葛藤、救済などなど。これはウラジミール・ナボコフが『ロシア文学講義』でもっとも痛烈に批判した、ドストエフスキー作品の決定的弱点です)を拾い上げる作業のように索漠としています。ドストエフスキー自体は小林秀雄の評伝を超越したインスピレーションに満ちた作家でしょう。でなければすでに今日の読者には読まれていません。しかし小林秀雄の評伝は、いわば小林がドストエフスキー作品の読書体験を逐一葬り去るように遺跡化した書物です。それが不毛な埴谷雄高の『死霊』のようなドストエフスキーの模作を生んだのです。

 それでなかなか『ドストエフスキイの生活』を読み通せず、あちこちの章を拾い読みしては元に戻るをくり返しているのが現状ですが、小林秀雄という文学者の流儀としてはこれほど心血の注がれた、全力を注入した力作評伝はないでしょう。しかし小林秀雄の描いたドストエフスキー像は、あまりに小林の理解の範疇に型どりされた作家像でありすぎる印象は否めません、ドストエフスキー入門としても評伝としても、小林秀雄は自前の文学観からこぼれおちる部分は捨て、小林自身が理解するドストエフスキー像しか提示しません。ナボコフの辛辣なドストエフスキー批判はドストエフスキーの限界を突きつつ、それゆえのドストエフスキー作品の特質を改めて解明したものでした。いったい可能性を欠いたどんな文学に魅力があるでしょうか。「歴史について」と名銘った序文から始まる『ドストエフスキイの生活』は改めてその事を考えさせられます。