モップスの最強デビュー・シングル | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

ザ・モップス - 朝まで待てない (ビクター, 1967)
ザ・モップス - 朝まで待てない (Single A-Side, ビクター, 1967.11.5) (作詞・阿久悠/作編曲・村井邦彦) - 3:07 :   


ザ・モップス - ブラインド・バード (Single B-Side, ビクター, 1967.11.5) (作詞・阿久悠/作編曲・村井邦彦) - 2:56 :  

 グループ・サウンズ時代の日本のロックにあってもこのシングルAB面はもっとも強力なカップリングで、AB面両面が良いデビュー・シングルとしてはザ・ゴールデン・カップスの「いとしのジザベル c/w 陽はまた昇る」1967.6、ザ・テンプターズの「忘れ得ぬ君 c/w 今日を生きよう」1967.10、ザ・ダイナマイトの「トンネル天国 c/w 恋はもうたくさん」1967.11、ジャックスの「からっぽの世界 c/w いい娘だね」1968.3、ザ・ヤンガーズの「マイ・ラブ・マイ・ラブ c/w 離したくない」1968.9、可愛らしい所ではアダムスの「旧約聖書 c/w ギリシャの丘」1968.9ら鮮烈なデビュー・シングルを放ったバンド群にあっても、突出して英米ロックの水準に迫ったものでしょう。また、おそらくグループ・サウンズ時代の多くのバンドがライヴてはレコード音源より扇情的なサウンドを出していたと思われる中、ライヴに匹敵する演奏をレコードに刻めたのは、シングル、アルバムとも当時のザ・モップスくらいだったかもしれないと思われます。

 日本初の「サイケデリック・サウンド」を標榜してデビューしたザ・モップスは1968年にビクター・レコードに1枚、1970年から1974年に東芝レコード(五人編成から四人編成になった東芝移籍後は「ザ」抜きの「モップス」に改名)から7枚のアルバムをリリースした、グループ・サウンズと'70年代ロックの橋渡しとなった数少ないバンドでした。ビクターからのファースト・アルバム『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』(1968年4月、のちの1976年に『ザ・モップス デビューアルバム あの日の若者』として再発売)は、真っ向からサイケデリック・ロックを標榜した大胆なタイトルと相まって1980年代後半以降世界中の'60年代サイケデリック・ロック・マニアの探求盤となり、一時は海外のオークション・サイトで30万円前後の稀少盤として血眼になって探され、音楽的リーダーの星勝(ギター、ヴォーカル)監修の決定版リマスターCDが2014年にリリースされた現在でも10万円前後で取引されています。阿久悠作詞、村井邦彦作編曲の強烈なデビュー・シングル「朝まで待てない c/w ブラインド・バード」はAB面とも『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』に収録されましたが、このデビュー・アルバムは1989年の初CD化以来再三再リリースされるも、「ブラインド・バード」だけは歌詞(差別用語)問題による自主規制によって未収録になっていました。この曲を求めて筆者は中古盤シングルを買いましたが(ジャケットの端が切れているのは、おそらく元の所有者が内側に名前を記していたからと思われます)、同曲は海外でのモップスの評価を決定づけた人気曲でもあり、日本盤CD未収録のために海外の'60年代サイケデリック・ロックのコンピレーション・アルバムに目玉曲として収録されることになりました。ようやく日本盤CDでも「ブラインド・バード」が収録されるようになったのは、星勝監修によるアルバム未収録シングルをボーナス・トラックとしたビクター~東芝までのモップス全アルバムのリマスター盤が実現した2014年版でのことで、これでようやく『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』は本来の収録曲12曲全編+ビクター時代のアルバム未収録シングル「お前のすべてを c/w 熱くなれない」を併せて聴けるようになりました。アルバム先行シングル第2弾「ベラよ急げ c/w 消えない想い」(AB面とも『サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン』収録)と併せて引いておきましょう。
ザ・モップス - ベラよ急げ (Single A-Side, ビクター, 1968.3.5) (作詞・阿久悠/作曲・大野克夫/編曲・モップス) - 2:33 :  

ザ・モップス - お前のすべてを (Single A-Side, ビクター, 1968.8.5) (作詞・阿久悠/作編曲・村井邦彦) - 1:56 :  

 善かれ悪しかれ「星の王子様」的イメージのバンドがトップ・グループとして人気を集めたグループ・サウンズ時代に、よくまあモップスのような、アイドル性どころか甘さの微塵もないバンドがデビューできたものです。モップスは東芝移籍後はメンバーの自作曲中心のバンドになりますが、作詞家・阿久悠、のちにアルファ・レコードの創設者となる作曲・編曲家の村井邦彦(テンプターズに提供したNo.1ヒット「エメラルドの伝説」は1968年6月です)にとっても「朝まで待てない」は出世作になり、GS時代最大の作詞家だった橋本淳のメルヘン的歌詞に沿った椙山浩一(すぎやまこういち)や井上忠夫の楽曲から、なかにし礼の作詞、筒美京平や鈴木邦彦ら村井邦彦と並ぶ新世代の作曲家の台頭を告げるものでした。またリーダーでバンド最年長の鈴木ヒロミツ(1946~2007)の存在感は、圧倒的な歌唱力とともに非アイドル的なロック・シンガーとして本格的な洋楽性を感じさせるものでした。モップスは鈴木ヒロミツの弟、スズキ幹治(ドラムス、のちに浜田省吾の事務所社長兼プロデューサー、1948~)が星勝(1948~)らと組んでいた学生バンドに、マネージャーとして着いていた鈴木ヒロミツがヴォーカリストとして加わったのちプロ・デビューしたバンドで、1967年~1968年のビクター在籍時に鈴木ヒロミツは21歳~22歳、他のメンバーは17歳~19歳でしたが、大手プロダクションがメンバーを集めてデビューさせたバンドよりも自発的な学生バンド上がりならではの結束力があり、そのためほとんど唯一と言えるほど1970年代以降も生き残ることのできたバンドでした。'60年代~'70年代をまたいで8枚ものアルバムを残したバンドは、寺内タケシやジャッキー吉川とブルー・コメッツを例外とするとモップスしかいません。
 モップスは東芝移籍後の通算7作目のアルバム『モップス1969~1973』(1973年6月)でも「朝まで待てない」を再録音をしており、東芝移籍以来2ギターの5人編成から1ギターの4人編成になった分、よりソリッドなアレンジになっています。画期的だったのはデビュー・シングルのオリジナル・ヴァージョンですが、初録音から4年半後の、よりタイトかつハードな音色でテンポを上げた再録音ヴァージョンの方がかっこいい、と思われる方も多いかもしれません。
モップス - 朝まで待てない (from the album "モップス1969~1973“, liberty, 1973.6.5) - 3:03 :  

 鮮烈なデビュー曲「朝まで待てない」はグループ・サウンズを代表する異色の名曲として名高い楽曲になりましたが、B面曲「ブラインド・バード」は前述の通り、歌詞(差別用語)の問題でのちに自主規制され2014年のリマスターCDまで再発売から除外されていた伝説的な日本語サイケデリック・ロックの名曲にして、デビュー・アルバムの日本語詞曲では群を抜いてヘヴィな曲になりました。ほとんどグランド・ファンク・レイルロードやブリジッド・ピンクを始めとする'70年代のヘヴィ・ロック・バンドの演奏と言ってもおかしくないほどサイケデリック・ロックからハード・ロックへの転換点を予告した、当時の英米ロック基準でも傑出した楽曲です。後にこの曲からバンド名をとった(鈴木ヒロミツ命名)、モップスの弟バンドとして活動していたバンドがおり、1971年7月発売のオムニバス・アルバム『ロック・エイジ・コンサート』(ワーナー・パイオニア)収録の1曲しか残さず、モップス解散後に鈴木ヒロミツがプロデュースしたバンド、ハリマオとして再デビューしましたが、もし1971年時点でフルアルバムを制作していたら'70年代初頭の日本のロックのモンスター・アイテムになっていたかもしれない出来です。このバンド、ブラインド・バードもブルー・チアー、MC5直系のヘヴィ・ロックをやっていますが、意図せずして1967年~1968年の「ブラインド・バード」や「孤独の叫び」のモップスもアメリカのヘヴィ・ロック勢と同時に似たような音楽にたどり着いていました。これはフォークルやジャックス、はっぴいえんどとはまったく関係ない方向に日本のロックが進んだかもしれない可能性を示すものでもあります。
ザ・モップス - 孤独の叫び (from the album "サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン", 1968) :