フィル・パールマン三部作(1) ザ・ビート・オブ・ジ・アース (Radish, 1967) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

ザ・ビート・オブ・ジ・アース The Beat of the Earth (Radish, 1967)
ザ・ビート・オブ・ジ・アース The Beat of the Earth (Radish, 1967) :  

Released by Radish Records Radish ‎AS-0001, Orange County, California, 1967 (Private Press, 500 Copy Only)
Recording Engendered by Joe Sidore
Produced by Phil Pearlman
(Side 1)
A1. Beat of the Earth - This Record is Artistic Statement (Side 1) - 21:30
(Side 2)
B1. Beat of the Earth - This Record is Artistic Statement (Side 2) - 20:52
[ The Beat of the Earth ]
Phil Pearlman, Bill Phillips, J.R. Nichols, Karen Darby, Morgan Chapman, Ron Collins, Sherry Phillips
(Original Radish "The Beat of the Earth" LP Liner Cover & Side 1 Label)
 ロック史上もっとも謎めいたミュージシャン。アメリカ西海岸で1967年から1976年までにアルバムごとに異なる名義で3枚の自主制作盤を発表しただけ(のちの1994年にパールマン作品を手がけた著名エンジニアのジョー・サイドアの手によってファースト・アルバムの別テイクが1枚発表されますが)のフィル・パールマンは、生年月日も不詳なら現在の消息すら不明、存命か故人かも判明していない、徹底的にアンダーグラウンドにして究極のサイケデリック・ロック、そしてオルタナティヴ・ロックの始祖と言うべき存在です。パールマンの最初のアルバムとなったザ・ビート・オブ・ジ・アース名義の本作は、限定500枚きりの自主制作盤で1967年にリリースされ、'80年代以降あまりの稀少さ、曲名表記すらなく「This Record is an Artistic Statement (このレコードはアーティストによる主張)」とだけレーベルに印刷されただけのLP各面1曲(両面42分で全1曲)の大胆な内容、メンバーや活動実態も謎とコレクターズ・アイテム化していた伝説のアルバムでしたが、LP起こしの海賊盤でなくようやくマスターテープから録音エンジニアのジョー(ジム)・サイドア、メンバーのカレン・ダービー公認で復刻専門レーベルStoned Circle社から正規盤リマスターCD化がされたのはつい先日、2016年になります。ザ・ビート・オブ・ジ・アースの中心人物フィル・パールマン(生没?年不詳)はイスラム教徒に改宗し、1994年に本作のセッションからザ・ビート・オブ・ジ・アース名義のアルバム『Our Standard Three Minute Tune』(Radish A.S. 0001½, 1994)をやはり自主制作盤LPのみでリリース(未CD化)したあと隠遁しており、『Our Standard~』もアルバム・タイトル曲がAB面各20分の構成で1967年録音の『ザ・ビート・オブ・ジ・アース』制作時のアウトテイク(または リミックス版)であり、サイドアが録音エンジニアを手がけメンバーも本作と同一です。本作の正規リマスターCD化にもパールマンは消息不明のため関わっていませんが、研究家の調査では『ザ・ビート・オブ・ジ・アース』に先立ってパールマンはフィル&ザ・フレイクス名義のサーフ・インストのシングルを1964年に、インディーのB級映画『Dirty Feet』のサントラを1965年に手がけていることが解明され、またパールマン以外のメンバー総入れ替えでさらに2作の自主制作LP、1970年の『ジ・エレクトロニック・ホール (The Electronic Hole)』(エンジニアのサイドアの手を借りた完全なパールマン一人の多重録音アルバム)、1976年の『リラティヴリィ・クリーン・リヴァース (Relatively Clean Rivers)』(無名メンバーばかりのサイケデリック・カントリー・アルバム)がリリースされていたのが判明しています。いずれも『ザ・ビート・オブ・ジ・アース』の発展作と見るべきアルバムですが両作ともマスターテープが発見されていない、またフィル・パールマンが消息不明のためコピーライト不明の海賊盤でしかCD化されておらず、パールマン関係の最新ニュースとしては2006年にFBIが白人イスラム教テロリストとして指名手配した当時28歳の青年がパールマンの長男だったのが話題になり、研究家が父パールマンの消息とマスターテープを探していた時にFBIはパールマンの息子を追っていた、とリマスターCDの解説でも触れられています。Stoned Circle社はようやくエンジニアのサイドア経由で本作のマスターテープを探し当て、録音エンジニアのジム・サイドアとメンバー中本作当時のパールマンの恋人でもあったカレン・ダービーの所在をつきとめ正規発売の許可とインタビューを取りつけたので、これまでLP起こしの海賊盤だけではわからなかった本作(また『ジ・エレクトロニック・ホール』『リラティヴィヴィティ・クリーン・リヴァース』と続く三部作)の背景が、主役のパールマンは消息不明なままながら、ようやくアルバム制作の裏事情が明らかにされました。
 
 カレン・ダービーとつきあい始めた頃にはフィル・パールマンはボブ・ディラン、ビートルズ、ストーンズ、クリームやジェファーソン・エアプレインが共通のお気に入りで、ママス・アンド・パパスも好きならヴェルヴェット・アンダーグラウンドも好き(本作制作に先立って、当時まったくプロモーションされずひっそりリリースされていたヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聴いていたという貴重な証言でもあります)と最新のロック・バンドを熱心に聴いていたそうです。エコロジストを父親に持つパールマンの口癖は「Organic」だったそうで、パールマンはヒッピー・カルチャーにエコロジー的側面から共感していました。もうサーフ・サウンドの時代ではない、バンドをやりたいとパールマンがダービーに相談をもちかけ、ダービーがふと「大地の鼓動(The Beat of the Earth)みたいなサウンドがいいわね」と口にしたところ「それだ!」とパールマンは答えた、と言いますが、カレンさん本人の発言なので話半分かもしれません。パールマンはすぐさま知人友人のつてを当たり、友人のビル(本名はフィルでしたが紛らわしいので改名)とシェリーのフィリップス夫妻(兄妹?)、エレクトロニクス担当者のモーガン・チャップマン、キーボードのロン・コリンズとギタリストのJ・R・ニコルズをメンバーにし、ロサンゼルスからサン・フェルナンド・ヴァレーを通ってオレンジ・カウンティに本拠を定めました。ほとんどライヴ活動実績もないのにパールマンは予算を工面しハリウッドのスタジオを借りてアルバム制作の予定を立て、録音エンジニアに旧知のジム・サイドアと組む機会を得ます。サイドアはチャビー・チェッカーやグレン・キャンベル、スパンキー&アワ・ギャング、カウント・ファイヴの「サイコティック・リアクション」やザ・シーズの「プッシン・トゥ・ハード」、ハーパース・ビザールの「フィーリン・グルーヴィー」を手がけてきたハリウッドの意欲的俊英録音エンジニアであり、LPのAB面各20分即興演奏全1曲、というパールマンの自主制作盤ならではのアルバム構想に興味を持ち、パールマンの次のプロジェクト「ジ・エレクトロニック・ホール」にも録音エンジニアとして全面協力します。500枚限定プレスされた本作はメンバーの手売りで多少が売れただけで、パールマンは売れ残りのアルバムをレコード屋に持って行ってこっそり棚に置いてきて喜ぶ(万引きの逆の置き捨てです)、という具合でした。ルー・リードの優れたソングライティングとジョン・ケイルの明確な方法論による実験的アレンジに支えられたヴェルヴェット・アンダーグラウンドとはほど遠いこのフィル・パールマンのバンド「大地の鼓動 (The Beat of the Earth)」は、結局結成から半年間で解散し、メンバーは全員音楽以外の道に進みました。しかしこの、ラリった素人ヒッピー・ミュージシャンの脳天気な宴会実況中継みたいなLPのAB面ほぼ完全即興演奏各1曲の本作は、これだけ聴いても馬鹿みたいですが、パールマンの次作『ジ・エレクトロニック・ホール』、次々作(かつ最終作)『リラティヴリィ・クリーン・リヴァース』と三部作をなす第一作として聴くとにわかに輝きだすのです。またヴェルヴェット・アンダーグラウンドと並ぶニューヨーク・アンダーグラウンドの雄パールズ・ビフォア・スワインのインディー作品ながら国際的に25万枚以上のヒットになった『One Nation Underground』、同年の同傾向のイギリス作品、ハップサーシュ&ザ・カラード・コートやザ・デヴィアンツの各ファースト・アルバムよりはるかに徹底していて、ヴェルヴェットやパールズを始めハップサーシュやデヴィアンツを直接参照したとおぼしいアモン・デュールの『サイケデリック・アンダーグラウンド』(Metronome, 1969)は、より地獄のような即興演奏と凝った編集でジャーマン・ロック(クラウトロック)の金字塔となるも、むしろアモン・デュールのメンバーが当時存在すら知らなかったのが確実と思われる(なにしろ500枚限定のうち手売りの100枚前後しか流通しなかった)自主制作盤の本作に近い内容です。そもそもフィル・パールマンの3作はもともとどれも20年以上埋もれていた自主制作盤ですから影響も何もあったものではないのですが、誰にも知られずひそかにこういう音楽が作られていた、しかもまったく商業目的の音楽ではなかったのは、市販流通されている音楽だけが音楽ではない当たり前の事実(50年あまりを経て初めて正規に商業発売されたわけですが)に改めて気づかせられもします。ミュージシャンだったのかただの変人自称音楽家のお遊びだったのかすらわからない、本作に始まるフィル・パールマンの三部作は、あとアルバム2作(+発掘別テイク盤1作)も順次ご紹介いたします。

(旧記事を手直しし、再掲載しました)