グルジア映画の鬼才セルゲイ・パラジャーノフ(5) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。


『アシク・ケリブ』Ashiki Keribi (共同監督=ダヴィッド・アバシーゼ、Kartuli Pilmi Tbilissi, Georgia-Azerbaycan'88)*74min, Color : 日本公開平成3年6月15日 : (Full Movie, Russian Voice Over, No Subtitle) :  

 本作はロシア文学の父プーシュキン(1799-1837)の愛弟子の詩人、ミハイル・レールモントフ(1814-1841)の同名短編小説の映画化で、共同監督にダヴィッド・アバシーゼ、前作も脚本は監督本人ではなくラジャ・ギガシヴィリが手がけていましたが、本作も脚本はギーヤ・バドリッゼと脚本家を立てており、パラジャーノフ作品のような様式性の高い映画で『火の馬』『ざくろの色』がパラジャーノフ自身の脚本だったのを思うと脚本家の役割はどのようなものだったかを考えさせられます。タイトルの「アシク」はアルメニア語での吟遊詩人ですから「吟遊詩人ケリブ」とする方がわかりやすく、欧米諸国では原題のまま公開している国と『吟遊詩人ケリブ』としている国がさまざまで、また本作は近世アルメニアが舞台で主人公の放浪の旅はグルジアにおよぶので台詞はアルメニア語とグルジア語が混じるため、ソヴィエトでは全編に標準ロシア語のナレーション(ヴォイスオーヴァー)をかぶせた版も流布しており、かえって国外公開版の方がナレーションなしのオリジナル版(もっともロシア語圏外の観客にはアルメニア語もグルジア語も標準ロシア語も区別がつきませんが)で観られている、という作品です。アルメニアは中近東にもっとも近い地域であり、本作もイスラム圏色の強い風土性が描かれた作品となっており、これはペレストロイカ以降でないとソヴィエト映画では実現できなかった企画でしょう。本作もタブロー形式にシークエンスは21の断章に分割されており、「愛している、愛していない」「婚約の儀式」「詩人の苦悩」「青いチャペルでの誓い」「金を稼ぐための旅」「わずらわしい道連れ」「馬で行く者は友人ではない」「詩人の死を嘆くひとびと」「善良なひとびと」「隊商の道」「詩人の擁護者」「アリズとヴァリ」「ナディル将軍の領地」「隊商宿(ハーレム)」「ナディル将軍の復讐」「好戦的なスルタン」「汚された修道院」「唯一の神」「アシクの祈り」「白馬の聖者」「花嫁の父への挨拶」と細かいものですが、映像文体は『スラム砦の伝説』よりもかなり自由になっています。まず『ざくろの色』以来のフィックス・ショットに固執しなくなり、『火の馬』ほど大胆ではありませんが適度に移動ショットを交えるようになりました。また1ショットでのピント変化は前作にも見られましたが、本作ではかなり大胆に用いられており、'80年代の映画としてはやや時代ずれしているのではないかと感じる映像にもなっています。主人公の吟遊詩人がいかにもイスラム風のサルタンのハーレムに招待されるシーンではサルタンの愛人の女たちがイスラム衣装で全員マシンガンを持ち、サルタンが気勢を上げるごとに天井に向けて空砲を一斉にぶっ放すというポップ・アート的なコミカルな演出があり、これもエキストラ女優たちの演技といいあからさまなダビング音声のわざとらしいマシンガンの一斉射撃音といい、ゴダールの『カラビニエ』'63の頃ならともかく'80年代後半の映画でこのセンスはまずいんじゃないかと思えます。しかし大真面目な『ざくろの色』と較べると本作のパラジャーノフは自己パロディすら交える余裕を感じさせるので、本作はユーモラスなメルヘン時代劇映画として観るのがもっとも真っ当な見方で、こうした志向は第一長編『アンドリエーシ』以来、適度な(と言えるかどうかはちょっと疑問もありますが)ユーモア感では第二長編『村一番の若者』や第三長編『ウクライナのラプソディー』までに見られて『石の上の花』『火の馬』『ざくろの色』『スラム砦の伝説』ではあえて排除されていたもので、『火の馬』以降の作品ではハッピーエンドに終わる作品は本作だけです。60代前半ですがパラジャーノフには老境の意識があり、本作はエンドマークのあとに'86年に亡くなった「アンドレイ・タルコフスキイに捧げる」と献辞が出ます。このあと'89年から製作開始された自伝的作品『告白』はごく一部の撮影まででパラジャーノフの逝去によって未完になっていますから『アシク・ケリブ』に遺作の意識はなかったでしょうが、演出センスの当否はともかくとして本作は老境の作者のとぼけた時代メルヘンの語り口を楽しむ作品とすれば技巧やギャグのセンスの古さも味になってくるので、『告白』が未完(未完成作品としてまとめるほども進まず、パラジャーノフについてのドキュメンタリーで断片が観られる程度のようです)に終わったのは残念ですがほのぼのとするメルヘン作品『アシク・ケリブ』が遺作になったのもこれはこれで良しと思えるので、出来不出来とは別に遺作らしい遺作というのもあり、そうした遺作に本来言葉はいらないものです。本作も日本初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。

[ 解説 ] 吟遊詩人と富豪の娘の恋物語を耽美的に描く映像絵巻。「火の馬」のセルゲイ・パラジャーノフ監督のこれが遺作となった。共同監督はダヴィッド・アバシーゼ。ミハイル・レールモントフの原作を基に脚本はギーヤ・バドリッゼ、撮影はアルベルト・ヤブリヤン、音楽をジャヴァンシル・クリエフが担当。出演はユーリー・ムゴヤン、ヴェロニカ・メトニッゼほか。
[ あらすじ ] 心優しき吟遊詩人、アシク・ケリブ(ユーリー・ムゴヤン)は、領主の娘マグリ・メヘル(ヴェロニカ・メトニッゼ)と恋に落ちる。しかし彼女の父が結婚を許さなかったため、詩人は身を立てることを誓い、旅に出る。幾多の苦難を乗り越えながら冒険を続ける彼の前にある時、白馬に乗った聖人が現れ、故郷で待つ恋人の身に危機が迫っていることを告げる。詩人は一日に千里を走る聖人の白馬を駆って舞い戻り、恋人を抱き止める。

 ――本作はポスターの主人公俳優の強烈な風貌、パラジャーノフ作品に特徴的な赤の色彩効果がインパクト抜群なのでどれだけすごい映画かと期待させられますし、ヴィジュアル効果だけで十分満足できる映画でもあります。ただスタイルの徹底で言えば『ざくろの色』が本作よりはるかに強い作品ですし、『ざくろの色』はスタイルの徹底によってエキゾチシズムの中で完結してしまった観があり、パラジャーノフと同時期に酷似したスタイルを打ち出していたアンディ・ウォホールの『チェルシー・ガールズ』'66やヴェルナー・シュレーターの『アイカ・カタパ』'69、『マリア・マリブランの死』'71(タルコフスキイの映画論集を読むとタルコフスキイはこれらの作品も観ていたようですが、パラジャーノフは知らなかったと思われます)が強い様式化によって開けた感覚の映画を作り出したのとは逆の、非常に閉ざされた内容を感じさせる映画になってもいました。現在パラジャーノフの不朽の傑作と見なされているのは『ざくろの色』ですが、これはヨーロッパ文化圏のロシア地方文化に対するエキゾチシズム的憧憬が背景にある評価としか思えません。アンダーグラウンド映画のウォホール作品やシュレーター作品が映画の可能性を切り開いたようには『ざくろの色』は可能性を秘めた作品ではなく、ポテンシャルは高いとしても1作きりで完結しており到達点ではあっても『ざくろの色』から生まれてくる映画の可能性は考えられない、と思われるのです。『スラム砦の伝説』『アシク・ケリブ』が『火の馬』のテーマを『ざくろの色』の手法で行って、どちらも映画の完成度は『火の馬』『ざくろの色』より崩れているのも究極の耽美性を極めた『ざくろの色』自体に発展の余地のない作品だからで、より開放的な部分は『火の馬』から引き継いだドラマ性を伴った地方文化への着目にあり、『スラム砦の伝説』も『アシク・ケリブ』も皮肉な見方をすれば『ざくろの色』のポテンシャルを保てなかったのが作品に映画らしい生き生きとした感動を取り戻させた、とも言えます。

 本作『アシク・ケリブ』では『火の馬』以来の悲劇性もやめてハッピーエンドのメルヘン作品に仕上げてあり、ここでのエキゾチシズムや審美性・耽美性は自己パロディすれすれになっているどころかそのものずばりのとぼけたはぐらかしにもなっています。そういう意味では従来のパラジャーノフ作品を期待した観客を煙にまくような映画ですが、パラジャーノフは寡作なだけに1作ごとに断絶があって『スラム砦の伝説』が『火の馬』に近い悲劇作品とすれば本作は登場人物が人間というより舞台装置に近いようにフォルマリズムを極めた『ざくろの色』に近く、『ざくろの色』がたまたま悲劇的生涯を送った宮廷詩人の肖像だったように本作はたまたまメルヘン化された吟遊詩人の恋愛成就譚にすぎない、と言えるものです。しかしパラジャーノフ作品はまだまだ観返すと印象ががらりと代わって見える気にさせるので、筆者は『ざくろの色』に対して否定的な見方から抜け出せませんが『ざくろの色』をパラジャーノフの核心的作品とするとまだ観るたびに変わってくる可能性もある。たとえばタルコフスキイ作品を観直したあとで、といった具合に他の同時代のソヴィエト映画監督の作品を観て改めて気づくこともあるかもしれません。またパラジャーノフ作品については十分に鑑賞力があったかという自信も心もとなく、この感想文をお読みいただいた方が実際の作品を観られるように試聴リンクを一通りつけておいたのはそうした意味もあります。パラジャーノフ作品に限らず、星印採点など躊躇されるゆえんです。