グルジア映画の鬼才セルゲイ・パラジャーノフ(3) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

 この『ざくろの色』がソヴィエト政府からパラジャーノフが弾圧されて映画製作の禁止に追いこまれるきっかけになるとともに、思想犯としてくり返し冤罪逮捕、投獄、強制労働に課せられていた時期にヨーロッパの映画人の間で現存する最高のソヴィエト映画監督と絶大な評価を受ける呼び水になり、ゴダールやロッセリーニ、フェリーニを筆頭とする映画監督たちの抗議運動によってようやく露骨な弾圧からは逃れられるようになった(それでも映画製作復帰までにはペレストロイカまで待たなければなりませんでしたが)メルクマール的作品とされており、現存欧米諸国ではパラジャーノフの最高の作品にして「映画史上もっとも偉大な映画」のリストに加えられている作品です。『火の馬』から遺作『アシク・ケリブ』までの4作をパラジャーノフ映画の真髄と見ると、オリジナリティとスタイルの徹底、完成度、インパクトなど総合的には本作がパラジャーノフを代表する1本になるのは揺るぎそうにありません。しかし相互影響はパラジャーノフに関してはないと思いますが、アンディ・ウォーホル(1928-1987)の『チェルシー・ガールズ』'66(アメリカ)やウォーホル作品の影響はあると考えられるヴェルナー・シュレーター(1945-2010)の『アイカ・カタパ』'69や『マリア・マリブランの死』'71(西ドイツ)はアンダーグラウンド映画ですが直接間接に'70年代の欧米映画に大きな影響力があり、ウォーホル作品やシュレーター作品は裕に『ざくろの色』に匹敵すると思えます。ウォーホルはマルチ・アーティストの優れた余技とも言えますがシュレーターは完全にインディペンデントの映画監督の巨匠で、最初の2長編『アイカ・カタパ』と『マリア・マリブランの死』は製作時期も『ざくろの色』と重なる上にテーマや技法も酷似しています。ウォーホルはフェティシズムのポップアート・アーティストですがシュレーターはゲイ映画なので対象は異なるとは言え非常に異様な審美的感覚で映画を作っており、主人公の男性詩人を女優が演じる『ざくろの色』もトランスジェンダー的な究極のフォルマリズム映画なので審美性の表現の点でこの三者はほとんど同じ技法にたどり着いています。ウォーホルに稀薄(というか感覚や表現が植物的)でパラジャーノフとシュレーターに共通するのは禁欲的な官能性と呪術的宗教性で、それ自体はアモラルなものではありませんがあまりに徹底しているために日常的感覚には破壊的な作用をおよぼす陶酔性の過剰があり、アモラルで頽廃すれすれのものになっています。これらはいずれも日本劇場未公開作品なので、参考のため視聴リンクを引いておきましょう。
◎アンディ・ウォホール『チェルシー・ガールズ』Chelsea Girls (Andy Warhol's Factory'66) : (Full Movie)*210min, B/W :  

◎ヴェルナー・シュレーター『アイカ・カタパ』Eika Katappa (Werner Schroeter Production'69) : (Extracts)*144min, Color :  

◎ヴェルナー・シュレーター『マリア・マリブランの死』Der Tod der Maria Malibran (Werner Schroeter Production-ZDF'71) : (Full Movie)*104min, Color :  

 もし『ざくろの色』とパラジャーノフ映画にご興味お持ちの方がいらしてシュレーター作品未見でしたら、ぜひ『マリア・マリブランの死』なりともご覧になっていただければと切に思いますが、比較はあとに回して、『ざくろの色』は'71年の(助監督セルゲイ・ユトケーヴィッチの再編集による)一般公開版こそ残っているものの、もともと『サヤト・ノヴァ』というタイトルで'69年に完成試写されるも映画省からの批判で一部の短期上映に終わり回収されたパラジャーノフ自身による完成版は失われているので、現在では残存フィルムと一般公開版からパラジャーノフ版をほぼ復原して、江湖に定着したタイトル『ざくろの色』に改めた復原版の2種類が公開・映像ソフト化されています。ただし復原版も完全な'69年版の復原ではなく一般公開版(ユトケーヴィッチ編集版)を生かしてあるそうで、いわば折衷版なのですが現在ではこの一般公開版より10分長い復原版=折衷版を標準とするようですし、活人画的映像の連続する作品ですのであらすじ上でも観較べてもほとんど印象は変わりません。ユトケーヴィッチ編集版の方が台詞や字幕挿入が少し多いかな、と思う程度ですが、復原版でもフィルムの欠損部分は編集版からの台詞や字幕で補ってあるらしいので、復原版では無言のショットが増えたかなというくらいです。それにパラジャーノフの没後、つい近年まで絶大な評価を受けて語り継がれていたのは一般公開の編集版なので、復原版といっても実はそれほど変わっておらず、ユトケーヴィッチは『火の馬』でも助監督だった人ですから当局に駄目出しをくらった『サヤト・ノヴァ』を『ざくろの色』と改題し問題のありそうな箇所は直しました、と改訂したふりをして大していじっていなかったとも取れるので、台詞や字幕挿入はいかにも「改訂しました」という目くらましではないかと思えます。実物はリンクでご覧になれますので、日本公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。

[ 解説 ]('71年助監督セルゲイ・ユトケーヴィッチ再編集版日本劇場公開時) 18世紀のアルメニアの詩人サヤト・ノヴァの生涯にオマージュを捧げた八章の美しい映像詩編。伝記ではなく、その時代の人々の情熱や感情を台詞のほとんどない映像言語で描いている。静物画のような題名がしめす通り、絵画的な美しさを放ち、また神秘的で謎めいた儀式性と様式美の面でタルコフスキーの「鏡」と並び称される作品である。監督は、「火の馬」「アシク・ケリブ」「スラム砦の伝説」のセルゲイ・パラジャーノフ。また、ゴダールはこの作品から多大な映画的信仰を与えられ、後年「パッション(1982)」を撮ったと伝えられている。
[ 解説 ]('69年オリジナル・アルメニア版復原版自主公開時) 宮廷詩人、サヤト・ノヴァの生涯を描いたセルゲイ・パラジャーノフの代表作。当初、製作された作品がソ連当局の検閲を受け、セルゲイ・ユトケーヴィチの再編集により公開された作品。サヤト・ノヴァの詩的世界を台詞なしの美しいイメージ映像で描く。【スタッフ&キャスト】監督・原案:セルゲイ・パラジャーノフ 撮影:スレン・シャフバジャン 美術:ステパン・アンドラニキャン 音楽:ティグラン・マンスーリャン 助監督:R・ヤムカリャン 出演:ソフィコ・チアウレリ/メルコプ・アレクアン/ヴィレン・ガレスタイン
[ あらすじ ] 18世紀アルメニアの詩人サヤト・ノヴァの生涯にオマージュを捧げた美しい映像詩。サヤト・ノヴァの生涯を全8章に分けて追い、愛と才に溢れた詩人の生涯を宮廷や修道院を舞台に描く。そこに映し出される人々の情熱や感情を、台詞のほとんどない映像言語で描いている。それは豊かな詩であり、舞踏であり、そして全編動く絵画である。絢爛な美術品のような美しさを放ち、また神秘的で謎めいた儀式性と様式美に彩られている。「第1章・詩人の幼年時代」雷雨に濡れた膨大な書物を干して乾かす日常の風景。幼いサヤト・ノヴァ(メルコプ・アレクヤン)の、書物への愛の芽生え。「第2章・詩人の青年時代」宮廷詩人となったサヤト・ノヴァ(ソフィコ・チアウレリ)は王妃(ソフィコ・チアウレリ)と恋をする。彼は琴の才に秀で、愛の詩を捧げる。『第3章・王の館』王は狩りに出かけ、神に祈りが捧げられる。王妃との悲恋は、詩人を死の予感で満たす。『第4章・修道院』詩人(ヴィレン・ガレスタイン)は修道院に幽閉された。そこにあるのは婚礼の喜び、宴の聖歌、そしてカザロス大司教の崩御の悲しみ。『第5章・詩人の夢』夢になかに全ての過去がある。幼い詩人、両親、王妃がいる。『第6章・詩人の老年時代』彼の眼差しは涙に閉ざされ、理性は熱に浮かされた。心傷つき、彼は寺院を去る。『第7章・死の天使との出会い』死神が詩人(G・ゲゲチコリ)の胸を血で汚す、それともそれはざくろの汁か。『第8章・詩人の死』詩人は死に、彼方へと続く一本の道を手探りで進む。だが肉体が滅びても、その詩才は不滅なのだ。

 ――今回キネマ旬報の紹介文で読むまでゴダールの『パッション』が本作へのオマージュとは知りませんでした。活人画映画を撮る撮影クルーを描いたあの『パッション』はてっきりコメディ映画を意図したものだと思っていたのですが、ゴダールはあれを真面目にパラジャーノフに敬意をこめて作ったのかとは意外です。ちょっと素面であんなものを作っていたとは思えないので、何か大きな誤解があるような気がします。スタイルの上で『火の馬』から極端に変わった点では、本作はすべてフィックス・ショットの上にカット数も少ないこと。台詞も極端に少なく、人物名と状況を示す程度にしかありません。8つのシークエンスはぶつ切れでほとんどオムニバス構成といえるほどで、かといってシークエンス単位で短編映画をなすほどのドラマ性もなく主人公の生涯の段階を断片的に切り取っただけになっています。子どもの頃、青年時代、中年期はそれぞれ別の俳優が演じるので「第5章・詩人の夢」などで三者はいっぺんに出てきます。しかも「第2章・詩人の青年時代」で宮廷詩人になった主人公と生涯の夢の女性となる王妃はどちらも同じ女優ソフィコ・チアウレリが演じていて、チアウレリは映画全編では男女の性別問わず6役を演じています(同じ手法は断章形式とともに、ウォホール、シュレーター作品でも行われています)。そのため宮廷詩人時代のラブシーンはカメラに正面を向いた詩人役のチアウレリと王妃役のチアウレリが交互にカットされて相対しているという演出です。全編がそういう具合で、近世アルメニアの美術や小道具、衣装を再現した活人画映像による18世紀の宮廷詩人(生い立ち、王妃との恋愛から修道院に幽閉され、死を迎えるまで)の伝記なのですが、いわゆるリアリズムの劇映画の演技はなくて、人物の動作もほとんど左右対象のフィックス・ショット内での様式的な振りつけに限定されています。アンディ・ウォホールやヴェルナー・シュレーターの実験的アンダーグラウンド映画と手法はほとんど同じことを国家予算製作の歴史映画でやっています。『火の馬』でも西洋文化圏の感覚では異様な色彩感覚がカラー映画(ソヴィエト映画だからアグファカラー・フィルムでしょう)で堪能できるのが魅力でしたが(恋人マリーチカが事故死した次のシークエンス前半だけB/Wになる、という趣向もありました)、本作は近世アルメニア美術、壁画、小道具、衣装と赤を基調にした美術映画で、儀式や風習の宗教性を上回って全編が様式化されています。おそらく欧米諸国の映画人にはこのエキゾチシズムが強烈だったので、また本作のような映画製作がソヴィエトでは困難で実際弾圧すら招くようなものという事情も加味したのが本作への高い評価になったのでしょう。

 しかし本作からエキゾチシズムを除けば本質的には何が残るか疑問になるのが欧米にもロシアにも同じくらいとは言わずともそれぞれに懸隔がある日本人から観た印象で、ウォホールの『チェルシー・ガールズ』やシュレーターの『アイカ・カタパ』『マリア・マリブランの死』はエキゾチシズムの意識が意図されていない分もっとストレートに観客に訴えてくる映画になっています。『ざくろの色』のパラジャーノフは美術効果のエキゾチシズムにあまりに映画を託しすぎていて、これでは映画が動くからくり写真だった時代と変わらないではないか、とも思えてきます。観ている最中には楽しめますが、観終えると何も残らないと言っては言い過ぎですが、それに較べれば『チェルシー・ガールズ』や『アイカ・カタパ』『マリア・マリブランの死』は観る前と観たあとでは世界が変わって見える作品です。映画を観ることが観賞にとどまらず体験になるだけの力をそなえた映画だからです。『ざくろの色』はあまりの耽美性に、観客に観賞以上のものを与えてはくれない、という不満があります。『チェルシー・ガールズ』は製作費3,000ドル(!)で作られたそうですがおそらくシュレーター作品も同程度でしょう。『ざくろの色』は少なくともその数百倍の予算はかけて作られた映画でしょうが、良くも悪くも芸術映画になりきってしまっています。それだけではとても'60~'70年代ソヴィエト映画の最高水準を示す映画とは思えません。またこれを危険視した当時のソヴィエトの映画状況も過剰反応に思えるのです。