石原吉郎「相対」(詩集『足利』昭和52年より) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

石原吉郎・大正4年(1915年)11月11日生~
昭和52年(1977年)11月14日没、享年62歳

 相 対
 石原吉郎

おのおのうなずきあった
それぞれのひだりへ
切先を押しあてた
おんなの胸は厚く
おとこは早く果てた
その手を取っておんなは
一と刻(とき)あとに刺したがえた
ひと刻の そのすれちがいが
そのままに
双つの世界へふたりを向かわせた

(「現代詩手帖」昭和52年/1977年8月発表・詩集『足利』昭和52年12月所収)
 
 今回は以前にもご紹介した戦後詩人・石原吉郎の短詩を再度ご紹介します。心中は元禄時代以来の日本文学の古典的テーマですが、たった10行でこれほど苛烈を極めた心中文学は空前絶後でしょう。石原吉郎(1915-1977)は静岡生まれの詩人で、外語大学でロシア語を学んだ後、受洗し宣教師になるため神学校に入学直前の昭和14年(1939年)に23歳で召集を受け、語学力を買われてハルピンに派遣されました。敗戦によってソヴィエト軍に部隊ごと捕虜にされ、スターリン死去による特赦を受けてシベリアでの強制労働から帰国したのは昭和28年暮れのことで、23歳から30歳までを軍人、さらに38歳までをシベリア抑留兵(つまり青年時代の15年間をまるまる陸軍籍)として過ごしたことになります。帰国した石原吉郎はレッド・パージ下で就職の道を断たれ(シベリア抑留兵は共産主義の洗脳を受けたと偏見にさらされていました)、翻訳のアルバイトのかたわら翌年から詩作を始め、雑誌への投稿詩が即座に特選となり、ようやく就職がかなった会社員生活のかたわら旺盛な詩作を続け、昭和38年(1963年)には帰国10年目にして48歳で第一詩集『サンチョ・パンサの帰還』を刊行し、第一線の現代詩人の地位を不動のものにしました。石原は晩年には奇行が目立ち、アルコール依存症に陥り、60代にしてますます旺盛な詩作に連れて狂言自殺をくり返すようになりましたが、石原の奇行や私生活の乱脈からノイローゼに陥った夫人の入院中の昭和52年11月、新作詩集2冊の編集を完了する間際に過度の飲酒後の入浴中に心不全で急逝しました。その死は晩年の私生活の風評や陰惨な作風とあいまって、戦後詩人たちに大きな、しかし極限状態を体験した詩人の死として、衝撃と納得を持って、甚大な反響を呼びました。

 この詩「相対」は急逝の3か月前に発表され、没後直後に刊行された遺稿詩集『足利』に収められた短詩です。石原は戦前の徴兵前にもごく寡作ながら習作期の詩作を始めていましたが、創作家として再出発が不可能なほど稀な凄惨な経歴を経て40歳から62歳の享年までに詩集7冊、歌集と句集を1冊、評論集を5冊、対談集を1冊と、日本の現代詩人としては異例なほど遅くから本格的に詩作を始めながら、青年時代からの専業文筆家ほどの著作を残した詩人でした。その全業績は単行本未収録の詩篇・エッセイ、さらに未発表書簡も含めて、没後翌年から刊行された『石原吉郎全集』全三巻(花神社刊)に収められています。
 
 この詩「相対」を書いた頃には石原吉郎はすでに私生活にも問題を抱え、若手女性詩人たちとの関係(これらは没後間もない花神社版全集では関係者への配慮により、意図的に伏せられています)による家庭内不和と深刻なアルコール依存症に陥っていたと証言があり、狂言自殺もその一環から来た奇行と思われていたようです。石原と親しかった批評家・村上一郎(1920-1975)が三島由紀夫の後追い自殺を表明し、日本刀で頸椎切断自殺を遂げたのも晩年の石原にとっては大きな衝撃だったと伝えられます。泥酔入浴中の心不全による急逝も事故か自殺か判然としない不審な死因でした。ひるがえって「相対」を読むと、心中を美的悲劇として描いてきた日本文学の古典的美意識を抜きにこの詩を読むことはできませんが、近松門左衛門の人形浄瑠璃に描かれたような悲劇は自由恋愛の禁止された時代の愛の成就を詠いあげたもので、それが古典的な心中文学のテーマとすれば、「相対」の心中は恋人同士の同意によるシチュエーションなのに、古典的な心中による愛の成就を無惨なまでに虚妄と退けています。それを支えているのは何の抒情もない平易で強靭な文体で、発想そのものも異様ならばそれをこの詩のように描くのも異様です。ここにあるのは死によって成就する愛への容赦ない否定的断言だけで、読者の胸に余情を投げかけるような猶予は一切顧慮されていません。

「相対」のような詩は石原吉郎ほどの詩人でないと書けませんが、現実がこのように見えてしまうのならばそこから先に詩は広げようもないので、石原吉郎の晩年の短詩はどれも死の向こう側から現世を見つめているような不吉さに満ちています。日本の現代詩は石原吉郎のようなものばかりではありませんが、その極北に「相対」のような詩があるのは無視できないことで、たまにはこういう詩を前に途方に暮れるのも本物の詩の効用というものです。また日本語の詩として勢を極めた蒲原有明の詩、簡素を尽くした八木重吉の短詩、澄明なまでに磨き抜かれた伊東静雄の詩、官能的な美を尽くした室生犀星の晩年詩篇と並べてみると、同じ日本語の短詩で美のみを追求した詩であっても、これほど違うものかとその懸隔に眩暈がするほどです。また蒲原有明、室生犀星、八木重吉、伊東静雄、石原吉郎の詩が本当の詩であるなら、真摯な現代詩の読者が安易な抒情を一顧だにしないのも当然でしょう。読んでいただきたい石原吉郎の短詩をあと数篇追加しておきます。

 位 置
 
しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓(たわ)
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である

 (初出・昭和36年/1961年8月「鬼」)
 
 事 実

そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすらわらいさえしている
見たものは
見たといえ
けたたましく
コップを踏みつぶし
ドアをおしあけては
足ばやに消えて行く 無数の
屈辱の背なかのうえへ
ぴったりおかれた
厚い手のひら
どこへ逃げて行くのだ
やつらが ひとりのこらず
消えてなくなっても
そこにある
そこにそうしてある
罰を忘れられた罪人のように
見ろ
足がある
手がある
そうして
うすらわらいまでしている

 (初出・昭和31年/1956年2月「文章倶楽部」)

 世界がほろびる日に
 
世界がほろびる日に
かぜをひくな
ビールスに気をつけろ
ベランダに
ふとんを干しておけ
ガスの元栓を忘れるな
電気釜は
八時に仕掛けておけ

 (初出・「ユリイカ」昭和47年/1972年7月)
 
 足 利
 
 足利の里をよぎり いちまいの傘が空をわたった 渡るべくもなく空の紺青を渡り 会釈のような影をまるく地へおとした ひとびとはかたみに足をとどめ 大路の土がそのひとところだけ まるく濡れて行くさまを ひっそりとながめつづけた

 (初出・「ユリイカ」昭和50年/1975年8月)
 
 
 
男はいった
パンをすこし と
すなわちパンは与えられた
男はいった
水をすこし と
水はそれゆえ与えられた
さらにいった
石をすこし と
石は噛まずに
のみくだされた
そのあとで男はいったのだ
風と空とをすこしづつと

(初出・「ユリイカ」昭和50年12月)

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)