ドイツ・サイレント映画史(21)『喜びなき街』(ドイツ, 1925) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

『喜びなき街』(監=G・W・パプスト、ドイツ, 1925)
『喜びなき街』Die freudlose Gasse (監=G・W・パプスト、Sofar-Film'25.5.18)*151min, B&W, Silent; 日本公開昭和3年(1928年)9月(70分版) :   

*Original 151min Version :  

 ワイマール時代(1918年~1933年)のドイツ映画を年代順に追ってきて本作を観ると、いきなり質感の違いに愕然とします。前回ご紹介したフリードリヒ・W・ムルナウ監督作『最後の人』(1924年12月公開)も画期的な映像革新では突出した作品でしたし、後のサウンド・トーキー映画の技法も左右した影響力を持った傑作でしたが、『最後の人』自体はサイレント映画としての極限的到達を感じせるものでした。『喜びなき街』では、後述の理由もあって手放しにとは言いませんが、もう映画はサウンドさえ入れば音声映画(トーキー)と変わりがない感触の映画になっています。本作はデンマーク映画界のスター女優アスタ・ニールセン(1881-1972)、スウェーデン映画界でマウリス・スティッツレル監督作品の主演女優を勤めていたグレタ・ガルボ(1900-1995)を対照的な運命をたどる二人の主演ヒロインに迎え、ポスト表現主義のスタイルとして芸術一般に広がっていた新即物主義の映画としてオーストリア=ハンガリー帝国ウィーン出身の監督G・W・パプスト(1885-1967)が手がけたもので、パプストは演劇畑でのキャリアが長かったので映画監督は'23年に長編第1作『財宝』、'24年に第2作と映画監督としては遅れて映画界入りし、その分表現主義には染まらずリアリズム演劇の革新から映画を発想していたので、演劇の伝統の長い北欧映画との親近性はベルリン中心のドイツ映画界よりも強かったと思われます。演劇出身だけにデビュー作から上映時にはオリジナル音楽を指定していた先進性もあり、ウィーンは美術や演劇のみならずベルリンより遥かに進んだ音楽都市でしたから、パプストは'23年のデビュー作からシェーンベルク門下生に委託した無調性12音技法ライトモチーフ音楽を採用していたのがオーケストラ総譜に残されており、監督デビューは遅くても芸術的素養は十分に蓄積されていた点で新しいドイツ映画の潮流に貢献しました。第3作『喜びなき街』で初の国際的ヒットをものしたパプストは'29年の第8、9作『パンドラの箱』『淪落の女の日記』のサイレント最後の2作の頃には巨匠と目されており、またサイレント時代に業績を残した監督としては'31年のトーキー第1作~3作の三部作『西部戦線一九一八年』『三文オペラ』『炭坑』、'33年の『ドン・キホーテ』『上から下まで』とトーキー時代にも成功し、第二次世界大戦の本格的開戦戦の前にはフランス映画界にも招かれた有数の監督のひとりでしたが、第二次大戦中に亡命しなかったのでナチス政権成立後の'33年以降の製作環境は抑圧されたものになり(同じ芸術的前衛として弾圧されながら亡命しなかった作曲家にはやはりシェーンベルク門下のアントン・ウェーベルンがいます)、大戦後はドイツでの製作環境の逼迫からイタリアに渡り老境の健康悪化で引退する1956年まで作品を残した、波乱に富むキャリアをたどった監督でした。



 パプスト作品が高い評価を得ているのは'25年の『喜びなき街』から'33年の『上から下まで』(ドイツ語版とフランス語版の2ヴァージョンが作られ、フランス語版はジャン・ギャバン主演でしたからギャバンの人気が上がった後での日本公開も好評で、キネマ旬報ベストテンにランクされました)の間ですが、パプストのような国際的に活動し、屈曲に富んだ経歴をたどった監督こそ、フリッツ・ラング(1890-1976)のように全キャリアを展望した作品集成の映像ソフト全集と詳細な作品解説を含む評伝が望まれます。キャストを並べたポスターからもうかがえるように本作は国際キャストを配した大作であり、レストア版DVDで観られる通りオリジナルは151分と2時間半におよぶ大規模な映画ですが、本作で注目されてハリウッドに招かれたグレタ・ガルボが全米で大ブレイクした『肉体と悪魔』'27の封切りに次いで前年に用意されていた63分の再編集版『The Joyless Street』がアメリカ公開されて大ヒットしたので、日本初公開は80分ヴァージョンだったようですが、ホームヴィデオ時代にリリースされた日本版映像ソフトはアメリカ版の63分版になっていました。本作が英語圏でよく観られているのは63分の'27年の再編集アメリカ公開版なので、現在はYouTubeで完全版を視聴できますが、全貌を示すレストア版の151分版をじっくり観るには高価で入手しづらい輸入映像ソフトに頼らねばなりません。おそらくヨーロッパ諸国でも日本公開版同様に千差万別の短縮版が公開されてきたと思われ、また二人のヒロインでは本来アスタ・ニールセンがガルボより格上にクレジットされていたように、151分版を観ると本作は非常に平行プロットの多い、巨視的に'20年代半ばのウィーン社会を描いた大都会映画を意図したものなのが感じられ、複数の境遇の異なる人物たちの平行するドラマから大都市全体の時代相を描き出す指向は'20年代のモダニズム文学でも国際的に見られた方向でした。そうした面から見ると、本作は部分において成功し、全体にはまだ十分には意図を実現なし得なかった映画と見られます。再編集アメリカ版はオリジナル全長版の2/5(40パーセント)と本当に短縮版なのですが、グレタ・ガルボをヒロインとした部分のみに絞ってアスタ・ニールセンをヒロインとする平行プロットは割愛・再編集すると、サイレント時代の小品メロドラマとしてはごく標準的な63分のそれなりにまとまりの良く首尾一貫した無駄のない完成度の高い小品にもなってしまうのはガルボとニールセン双方の平行プロットがそれぞれ独立性の高い構成の映画なのを証してしまっていて、アスタ・ニールセンがヒロインの破滅的メロドラマやヴェルナー・クラウスがリンチ処刑されるにいたる市民暴動劇は映画全体のスケールを広げているとはいえ、ガルボのパートと有機的に結びつく必然を持たないことでもあります。アメリカ編集版でニールセンのパートの平行プロット、不況下ウィーンの一触即発を託したクラウスのパートのプロットが割愛されたのは、頽廃した大都市での二人のヒロインの対照劇にしてもガルボ映画としての再編集としてはサブ・プロットを加えるのはあまり効果的でなく、嫉妬から情痴殺人を犯す娼婦のヒロインという破滅的なニールセンの役柄自体が扇情的すぎアメリカ版では割愛された理由でしょうし、強欲な肉屋のヴェルナー・クラウスが庶民の憎悪の的になりリンチ処刑される平行プロットがアメリカ版では割愛されたのもガルボ中心の短縮からは不要でもあれば、あまりにアナーキズム的で勧善懲悪の域を越えていると判断されたからでしょう。アメリカ編集版よりは20分長かったらしい日本公開版はどの程度原型を留めていたかわかりませんが、初公開時のキネマ旬報近着外国映画紹介ではあるいはプロモート資料に依るものか、ドイツ版オリジナル全長版のプロットを伝えたものが掲載されています。
[ 解説 ] ヒューゴー・ベタウァー氏作の小説からウィリー・ハース氏が脚色したものをG・W・パブスト氏が監督したもので「裏町の怪老窟」等出演のヴェルナー・クラウス氏、アスタ・ニールセン嬢及び新進のスウェーデン女優グレタ・ガルボ嬢が競演し、ヘンリー・スチュアート氏、グレゴリー・クマラ氏、アグネス・エステルハツィ伯爵夫人、アイナル・ハンソン氏、タマラ嬢、ロバート・ガリソン氏等助演者の顔振れは素晴らしいオール・スター・キャストである。無声。
[ あらすじ ] 大戦に敗れたドイツ・オーストリアの国々が悲惨な運命の試練に喘いでいた頃、小巴里と誇ったウィーンの都も今は蒼ざめていた。貧富二階級に分れてしまって、貧者の窮乏は極まった。肉屋(ヴェルナー・クラウス)には連日長い列ができているが、強欲な店主は富裕層に高額で売りつけるため、貧乏人には肉を売らない。その列の中にグレーテ(グレタ・ガルボ)とマリア(アスタ・ニールセン)という二人の美しい娘の姿があった。グレーテはタイピストとして働きながら、官吏を退職した父(ヤロ・フユルト)と幼い妹(ローニ・ネスト)を養っていたが、上司のセクハラに耐え切れず会社を辞めてしまった。父は退職金を相場につぎ込み一山当てようとしたが、株の大暴落によって全財産を失った。一家は自宅を下宿屋とし、米国士官デーヴィー(アイナル・ハンソン)に部屋を貸すが、妹が彼の部屋から缶詰を盗んだとことが発覚し、結局デーヴィーは部屋を出ていく。生活に窮したグレーテには、高級サロンで身を売るしか残される道はなかった。一方マリアにはエゴン(ヘンリー・スチュアート)という恋人がいたが、不実な彼には他にも複数人の恋人がいた。エゴンに金を貢いでいた彼女は、ついに高級サロンに身売りする決心をする。彼女がパトロンと風評の悪いホテルへ行った夜、隣室でエゴンが他の女と密会しているのを見てしまう。エゴンが帰った後、嫉妬で逆上したマリアは、相手の女を殺した上に、犯人はエゴンだと証言する。しかし我に返ったマリアが自首したため、エゴンの冤罪は晴れた。グレーテが初めてサロンに出た夜、たまたま居合わせたデーヴィーに身持ちの悪い女と誤解されてしまう。危うく魔の手に陥るすんでのところで誤解がとけて彼女はデーヴィーによって救い出された。ついに貧しい民衆は蜂起し、金持ちが集う高級サロンを襲った。混乱の中、貧しい女達を弄んでいた金持ちの肉屋の主人は血みどろの死体となっていた。


 ――この紹介は「上司のセクハラに耐え切れず」など電子データベース化された際に表現を現代風にしたと思われる箇所もありますが(ガルボを秘書に雇った男は個室のオフィスで二人きりになるといきなり襲ってきます)、ニールセンとクラウスの平行プロットも一応押さえています。他に婦人服店経営からキャバレー、娼婦斡旋にまで事業を広げる成り上がりのマダムのグライファー夫人(ヴァレスカ・ゲルト)がガルボとニールセン両方の運命を左右する夜の世界の女帝役の重要人物ですし、全長版はガルボの父が宮中顧問官の地位から没落していく過程がまず前半にありますが、短縮版ではすでに没落した時点から始まっているので、この映画が一言で言えば大不況に見舞われた大都会の倫理的荒廃を描いた意図なのはガルボの父親役のルムフォルト宮中顧問官、闇市の支配権を握る肉屋のヴェルナー・クラウス、夜の世界を仕切る女将のグライファー夫人役のヴァレスカ・ゲルトといった人物が重要ですし、顧問官をカモにした投機詐欺師の悪徳銀行家ローゼノフ(カール・エトリンガー)の法律顧問ライト博士(アレクサンダー・ムルスキー)の妻リア(タマラ・トルストイ)がグライファー夫人のナイトクラブで浮き名を流した末にラヴホテルで殺され、銀行員で夜の街ではホスト紛いの人物エゴンが容疑者として逮捕されますが、真犯人は以前エゴンの情婦で今はグライファー夫人の娼婦の一人になっていたマリア(アスタ・ニールセン)で、男への報復が動機だったというのがもう一人のヒロイン、マリアの平行プロットです。一方ガルボ演じるグレーテ編では、食いつめて職を探すがロクな職がなく、家を下宿屋にして入居者のアメリカ人青年将校と恋仲になりますが、妹が缶詰を盗んだトラブルからプライドの高い父と民間への下宿はもとより反対の上官によって青年将校は衛兵所に戻り、ついにグライファー夫人を頼らねばならなくなったヒロインはキャバレーの初日に待機中に仲間に誘われて偶然寄った青年将校にそんなアバズレ女だったのかと幻滅を露わにされます。そこにヒロインの父がヒロインの置き手紙を持って駆けつけ迎えにきて、手紙を見た将校は誤解を解いてヒロインに詫びて、一同はヒロインを連れてキャバレーを去っていくのがガルボ編のヒロインのプロットです。さらに庶民の怒りを買い続けたヴェルナー・クラウスの肉屋が庶民たちの暴動でリンチ処刑に遭う結末まであるとなると、投機詐欺師の悪徳銀行家ローゼノフ編(ガルボの父の宮廷顧問官の没落、グライファー夫人のナイトクラブを舞台にしたライト夫人リアらの富裕階級の頽廃のどちらにも係ります)とクラウス編、もう一人のヒロインのニールセン編のプロットを割愛すれば、ガルボ編のプロットに絞った再編集版では映画の2/5の63分に綺麗に収まってしまうので、全長版の2時間半版はもっと混沌とした内容に不況頽廃大都会映画の意図が盛りこみすぎなほどあって、全体がそういう映画だからこそ短縮版でも本作はリアリズム映画の感触は伝わってくるので、最初から63分のガルボ映画として作られていたら重心のこれほど低くない、明解なメロドラマ作品になっていたでしょう。また短縮編集されたアメリカ公開ヴァージョンでは、ドイツ映画の演出法が旧来の映画文体とは一新した、新しいアメリカのリアリズム映画に結果的には映像文体の面で近似したものになっているのがわかり、いち早くハリウッドに招かれていた北欧映画監督の一群も見落とせませんが、政治状況的要因が大きいにせよ、後にハリウッド映画界に移ったヨーロッパ映画人はドイツ=オーストリア出身者の比率がずば抜けて高かったのも、本作のような国際的水準の画期的傑作大作を観ると腑に落ちる気がします。

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)