指揮者シェルヘン、灼熱の『運命』リハーサル! | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

Hermann Scherchen (1891.6.21-1966.6.12)
Hermann Scherchen conducts Orchestra Della Radio Televisione Della Svizzera Italiana - Beethoven No.5 Symphony (Radio Orchestra rehearsal, Italy, Lugano, February 1965) :  

Recorded in February 24 - 26, 1965
Reissued by Memories Reverence MR2412/2417, 6CD"Ludwig van Beethoven - Orchestra Della Radio Televisione Della Svizzera Italiana, Hermann Scherchen - Complete Symphonies / Symphony No. 5 Rehearsal", 6CD, Japan, 2017

 昔ドナルド・キーン氏の音楽エッセイ集を読んでおお、と思ったのは、クラシック音楽しか聴かないキーン氏は熱心な音楽愛好家ながら、ラジオやテレビ放送も聴かなければレコードも聴かない、コンサートでの生演奏でしか音楽を聴かないと宣言していらっしゃることでした。キーン氏(1922-2019)の生年を考えればLP開発は1948年、キーン氏の学生時代にはまだレコードはSP盤しかなく、片面3分台の細切れ収録ではピアノ小品ならともかく、協奏曲や交響曲などは5枚組~10枚組(アルバム、という呼称はそれが源泉です)に渡って楽譜を追いながら聴くしかなかった時代です。のちにLPが「High-Fi」を謳ったのはSPレコード時代は音質的にも限界があったからで、歌謡曲やジャズなど音域レンジの狭い音楽ならばまだしも、クラシック音楽である以上はコンサートでの生演奏こそが本物の音楽体験というキーン氏の感覚もひとつの見識でしょう。やはり日本で教鞭を執ったラファエル・フォン・ケーベル(1848-1923)の『ケーベル博士随筆集』(岩波文庫)にも同様の意見があって、ケーベル博士の時代にはラジオすらまだ試験段階、レコードも蠟菅レコードの時代ですから電波放送、レコードとも音楽媒体としてはまったく未発達でした。その上ケーベル博士は日本人のオーケストラの演奏する西洋クラシック音楽を頑として認めませんでしたから、交響曲なども譜面をめくりながら自分でピアノを弾きつつ頭の中でオーケストラ演奏を再現して楽しんでいる、と書いています。最近ではセルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)という頑固一徹のカリスマ指揮者もいました。LPレコード時代の大指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)やレナード・バーンスタイン(1918-1990)は次々とベストセラー・レコードをリリースしましたが、同世代のチェリビダッケは「音楽はライヴならではのもの」とレコード録音を頑として拒み、ようやくレーザー・ディスク開発後の最晩年に高音質のコンサート映像収録が可能になってからわずかな公式ライヴ映像を残したきり(没後にはライヴ盤ががんがん出ましたが)で、かえってチェリビダッケ生前はヨーロッパ各地でのラジオ放送音源がラジオ用ハーフ・オフィシャルCDとして輸入盤店のクラシック音楽コーナーの隠れたロングセラーになっていました。筆者もコツコツとチェリビダッケのラジオ音源CDを集めましたが、なるほど正規のメジャー・レコード会社での発売では聴けないような解釈でベルリオーズやプロコフィエフなどを聴くと、カラヤンやバーンスタインをしのぐチェリビダッケのマニア人気がわかるような気がしました。

 クラシック音楽の指揮者は強大な権力を手にしたカリスマ変人奇人狂人目録のようなもので、チェリビダッケと並んで輸入盤店のクラシック音楽コーナーの隠れたベストセラーになっていたのが、何を隠そうマーラーやシェーンベルク、フルトヴェングラーの直弟子の指揮者兼作曲家、ヘルマン・シェルヘン(1891-1966)です。やはりマーラーやフルトヴェングラーの直弟子シャルル・ミンシュ(1891-1968)と並び、シェルヘンはLPレコード開発とアメリカのオーディオ・ブームの波に乗って、レコード会社の依頼があれば片っ端からレコーディングしました。ただしミンシュと違うのは、オリジナル楽譜を尊重しつつも緩急つけた演奏と系統的なレコーディングで大手RCAレコーズから信頼のおけるリリースを続け、一流指揮者の地位を築いたミンシュに対して、新興のウェストミンスター・レコーズから続々とリリースされたシェルヘンの指揮作品は場当たり的な作曲家選択、作曲家ならではのLPレコードの収録時間に合わせた独断的な短縮または水増しアレンジでリスナーをすっかり煙に巻いたことです。勝手に楽譜を改作してしまう作曲家出身指揮者として、シェルヘンは悪名高いマッド・サイエンティスト的存在でした。シェルヘン再評価が高まったのはカラヤン、バーンスタインらが晩年を迎え、クラウディオ・アバドのような優等生的指揮者がクラシック音楽界のトップに立った'80年代半ば以降のことです。アバドらの世代の平坦な演奏がクラシック音楽界の水準になった時代に次々と発掘されたシェルヘンの廃盤アルバム、未発表アルバムは聴くまで予想もつかない内容、激烈な演奏でクラシック音楽の古典的ヘヴィ・メタル的な人気を物好きなリスナーの間に博すことになりました。

 シェルヘンは多くのラジオ放送用録音も残しており、むしろシェルヘンの指向はラジオ放送用音源で一貫性のある作曲家選択、先見性のある楽曲選択が表れていることも明らかになりました。バッハ、ベートーヴェン、ヴェルディからプロコフィエフ、シェーンベルク、バルトーク、さらにカリンニコフの第一交響曲初演を含むボックスセット『Homage a Hermann Scherchen, Volume 1』(SACEM, 5CD, 1996)はタワーレコードの輸入盤クラシックCD部門No.1になりましたが、同時期にイタリア盤が出回ったのが『Hermann Scherchen with Orchestra Della Radio Televisione Della Svizzera Italiana - Beethoven No.5 Symphony Rehearsal』です。シェルヘンは亡くなる前年の1965年、イタリアとスイスのラジオ局専属オーケストラでベートーヴェンの交響曲全9曲をラジオ放送用に録音していますが、交響曲第五番「運命」はリハーサル・テイクも残されており、爆裂するしどろもどろなオーケストラにところどころシェルヘンの怒鳴り声が重なる、凄絶なリハーサルの模様が収録されています。自分が怒鳴ればオーケストラもついてくる、といわんばかりのガミガミ親父、シェルヘンの指揮ぶりを捉えた貴重なドキュメントで、2017年にはイタリア・プレスの日本盤オリジナルで『鬼才シェルヘン+ルガノ放送菅/灼熱のベートーヴェン : 交響曲全集』としてめでたく日本発売されました。6枚組CDのうち5枚にベートーヴェン交響曲全9曲が収められ、6枚目に『交響曲「運命」リハーサル』が収められています。シェルヘン怒鳴りまくりのリハーサル・ドキュメントがいちばん聴き物なのがこのベートーヴェン交響曲全集の異常さを物語っていますが、シェルヘン最晩年のヘヴィ・メタル・ベートーヴェンが聴けるとんでもないボックスセットです。ケーベル博士もドナルド・キーン氏も、シェルヘンのベートーヴェンなど聴こうものなら唾棄以外の何物でもなかったでしょう。聴きようによっては、シェルヘンの『運命』リハーサルはベートーヴェンに乗せたガミガミ親父のラップ、ヒップホップにすら聴こえます。シェルヘンにとっては現代音楽まで続く正統西洋クラシック音楽が音楽のすべてだったでしょうが、表現性の過剰がシェルヘンの音楽をクラシック音楽からはみ出したもの、ほとんどクラウトロックの発生を予見するものにしています。寺内タケシ&バニーズの『レッツゴー運命』(King, 1967)をもしのぐシェルヘンの『「運命」リハーサル』を、ぜひお聴きください。