三木露風「夏の日のたそがれ」ほか(詩集『廃園』明治42年/1909年より) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

三木露風・明治22年(1889年)6月23日生~
昭和39年(1964年)12月29日没

 夏の日のたそがれ
 三木露風

落日の光、森の彼方にあふれ、
むらがれる緑の色、心を刺す。

見よ、何者のおほいなる力が、
(わが)たましひを脅かし、我肉を挑む。

風はあざやかに汽車の過ぎゆくあとに流れ、
淫蕩なる夏の黄昏の鐘、
あゝその響かゞやき燃ゆる如し………
落日の前にたゞよふ雲あり、
美しき刹那あり、
あゝ生きたる刹那よ、
ほゝゑみ焼かるゝ刹那よ、
自由に滅ばむとする美なる一瞬時よ。

 去りゆく五月の詩
 三木露風

われは見る
廃園の奥、
折ふしの音なき花の散りかひ。
風のあゆみ、
静かなる午後の光に、
去りゆく優しき五月のうしろかげを。

空の色やはらかに青みわたり
夢深き樹(き)には啼(な)く、空しき鳥。

あゝいま、園のうち
「追憶(おもひで)」は頭(かうべ)を垂れ、
かくてまたひそやかに涙すれども
かの「時」こそは
哀しきにほひのあとを過ぎて
甘きこゝろをゆすり\/
はやもわが楽しき住家(すみか)
(おく)を出でゆく。

去りてゆく五月。
われは見る、汝(いまし)のうしろかげを。
地を匍(は)へるちひさき虫のひかり
うち群(む)るゝ蜜蜂のものうき唄
その光り、その唄の黄金色なし
日に咽(むせ)び夢みるなか…………
あゝ、そが中に、去りゆく
美しき五月よ。

またもわが廃園の奥、
(こけ)(ふ)れる池水の上、
その上に散り落つる鬱紺(うこん)の花、
わびしげに鬱紺の花、沈黙の層をつくり
日にうかびたゞよふほとり………

色青くきらめける蜻蛉(せいれい)ひとつ、
その瞳、ひたとたゞひたと瞻視(みつ)む。

あゝ去りゆく五月よ、
われは見る汝(いまし)のうしろかげを。

今ははや色青き蜻蛉の瞳。
鬱紺の花。
「時」はゆく、真昼の水辺(すいへん)よりして――

 静かなる六月の夜
 三木露風

静かなる六月の夜(よ)
風軽くあゆみ去れば
しらじらと野は明るみ、月出(い)ず。

風は今地平より
ちからなく嘯(うそぶ)きはじめ、
(こうし)のこゑ、いと、眠げに、遠くよりつたひきる。

暑き日の午後をおくり
色赤き、黄昏の日没をおくり
今ははや甘き睡(ねむり)
(き)の梢、小鳥の群、憩ひ沈む。

われら、その小径(こみち)に添ひて
影くらく層(かさ)なれる林を過ぎ
かをりよき刈麦(かりむぎ)の中を出でて
ひそかに彼(か)の日(ひ)記憶のあとをあゆみぬ……

歓楽(よろこび)消え、失はれし夢のあとを
哀れに結べるふたつのたなごゝろ、
われは知る、しなやかなる君が小指(をゆび)
悲しき顫(ふる)へと、たゞその戦(わな)なきとを。

夜。青ざめて二人はあゆむ
あまき小鳥のねむりの樹かげを、
かをりよき刈麦の畑(はた)の小径を。

記憶はいま無言をもて
わがこゝろの前に語る、
空しき「愛」と、されどまた「追憶」とを――あゝ、静かなる「追憶」とを。
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(以上3篇初出・明治42年/1909年7月「文庫」、詩集『廃園』より)

 兵庫県生まれの詩人・三木露風(1889-1964)は早熟な詩人で、私家版の習作詩集『夏姫』を刊行したのは岡山県の中学在学時の明治38年(1905年)7月、まだ16歳の頃でした。同年8月に上京した露風は商業学校を転々としながら河井醉茗の「文庫」の投稿者だった北原白秋、吉井勇らと交友し、明治40年(1907年)には早稲田大学の学生らと「早稲田文学会」を結成、9月から早稲田文学に入学します。当時の同大学は裕福な家庭の文学少年崩れの子息の集まりだったようです。「早稲田文学会」は明治41年(1908年)1月刊の蒲原有明詩集『有明集』を旧世代の象徴主義詩集として攻撃し、私生活の精神的危機で鬱状態にあった蒲原有明(1876-1952)を引退に追いこんだほどで、また口語自由詩運動を盛んに提唱していましたが、明治42年(1909年)9月に刊行された三木露風の初めての公刊第一詩集『廃園』は弱冠20歳の学生詩人にして同時に主要詩誌の巻頭を飾る大プッシュを受け、一躍露風を、同年3月に第一詩集『邪宗門』を刊行していた北原白秋と並ぶ新進人気詩人の座を確立し、「白露時代」と呼ばれるほど白秋・露風を詩壇の二大勢力とするほどの支持を得ました。露風は翌明治43年(1910年)には慶応大学に入学し直し、11月に第二詩集『寂しき曙橋』を刊行、大正2年(1913年)には旧「文庫」同人・「早稲田文学会」同人を総合した「未来社」の主宰となり9月に第三詩集『白き手の狩人』刊行、この詩集から同年にまとめられた当時の慶応大学教授・永井荷風の訳詩集『珊瑚集』からの影響が目立ち始めます。大正3年(1914年)に結婚した露風は翌大正4年(1915年)5月に第四詩集『幻の田園』刊行後夏に北海道のトラピスト修道院を取材し、11月に宗教詩に傾いた第五詩集『良心』を刊行、大正6年(1917年)夏には再びトラピスト修道院を訪問しますが、この年2月に第一詩集『月に吠える』を刊行した白秋門下の新進詩人・萩原朔太郎(1886-1942)が詩論「三木露風一派の詩を追放せよ」(「文章世界」5月号)を発表し、露風と露風一派の詩を陳腐で安易で古臭い象徴詩もどきと攻撃したのが同じ年で、トラピスト修道院取材・訪問以降から宗教への傾倒や奇行・妄言(この頃から三木露風は自分を近い将来、日本初のノーベル文学賞を受賞する詩人と自称するようになります)が目立つようになっていた露風は、大正9年(1920年)にはトラピスト修道院講師として赴任、この年の詩集『生と恋』(10月)、『蘆間の幻影』(11月)と大正11年(1922年)の信仰詩集『信仰の曙』を最後にほとんど信仰生活に陰棲し、以降も信仰エッセイ集・信仰詩集の刊行はありましたが詩人としては引退も同然のまま、昭和39年(1964年)12月に東京都三鷹市の自宅近所で郵便局への所用の途中タクシーに跳ねられ、1週間後に逝去しました。享年満75歳でした。

 ライヴァル・北原白秋(1885-1942)の詩集系列が明治42年(1909年)3月の第一詩集『邪宗門』、明治44年(1911年)6月の第二詩集『思い出』、大正2年(1913年)7月の第三詩集『東京景物詩及其他』、大正3年(1914年)9月の第四詩集『真珠抄』、12月の第五詩集『白金之独楽』、以降は多くの歌集(また長歌、句集)・童謡集を挟んで大正12年(1923年)6月の第六詩集『水墨集』、昭和4年(1929年)8月の第七詩集『海豹と雲』、昭和15年(1940年)10月の第八詩集『新頌』と多彩な変遷を経たのとは対照的に、露風の詩は荷風訳詩集『珊瑚集』からの影響が見られ始めた時期、カトリック信仰への傾倒(これは露風の詩友たちには明らかな精神病の発症と見られていました)の前後からの信仰詩をとっても同じようなもので、空疎さにおいては白秋の第一詩集『邪宗門』と同じようなものです。日夏耿之介(1890-1971)は上下巻計1000ページ以上、別冊年表・索引150ページあまりの大著『明治大正詩史』(新潮社・上巻昭和4年/1929年1月、下巻昭和4年11月)ではっきりと露風の詩の貧弱さ、詩想の通俗性を指摘し、大正3年(1914年)10月刊行の詩集『道程』もほとんど話題にならず昭和期になっても孤立していた高村光太郎(1883-1956)を民衆派詩人と限定しながらも、露風と比較し「詩心の高さ、雄渾さは露風などとは比較にならぬ」と断定しています。初めて晩年の遺稿詩篇がまとめられた石川啄木(1886-1912)の逝去翌年刊行の『啄木遺稿』(大正2年/1913年)はベストセラーになりましたが、啄木の晩年作品、高村光太郎の明治末~大正期の詩作品が広く白秋や露風以上のものと認められるようになったのは昭和期の詩人たちからで、それがはっきり読者に浸透したのは大東亜戦争・太平洋戦争敗戦後のことでした。萩原朔太郎の「三木露風一派の詩を追放せよ」は激越な調子のために、露風が影響を受けた明治詩人たちへの批判とも拡大解釈され、萩原が尊敬していた島崎藤村や薄田泣菫、蒲原有明らへの批判とも受け取られましたが、萩原は明治詩人たちを尊敬し、師事していた北原白秋や白秋門下生の盟友・室生犀星や自分こそが正統的な日本の詩の後継者と自負していたので、現在では「白露時代」と称された白秋と露風の詩壇の割拠時代は明治42年~大正4、5年頃までと見なされています。白秋が過剰な語彙と修辞で感覚的な拡張を行い一時代を築いたのに対して、露風の詩は明治新体詩を平易・簡略化し、そのつたない表現が若々しさとして受け入れられたものでした。そうした意味では、現代詩はなお白秋的であるか、露風的であるかに二分されるとも言えます。しかし今日『邪宗門』の無内容さが読むに耐えないように、『廃園』の無内容さもとてもこれが一世を風靡した文学作品とは思えないようなものです。「夏の日のたそがれ」「去りゆく五月の詩」「静かなる六月の夜」は詩集『廃園』刊行直前に詩誌「文庫」の巻頭を飾った詩集中の最新作ですが(詩集では「静かなる六月の夜」「去りゆく五月の詩」「夏の日のたそがれ」の順で並べられています)、この3篇は無作為に組み換えれば同じ1篇の詩からのヴァリエーションに過ぎないような、気分と情調だけの詩です。しかも修辞や語彙も単調なので、20歳の詩人の作品としても習作段階の作品としてしか読めません。むしろ詩集『廃園』では、明治41年(1908年)作の次のような他愛ない短詩の方にまだしも好ましい面白みがあります。

 接吻の後に
 三木露風

「眠りたまふや」。
「否」といふ。

皐月(さつき)
花さく、
日なかごろ。

調べの草に、
日の下に、
「眼(め)閉ぢ死なむ」と
君こたふ。

 また三木露風は山田耕作が昭和2年(1927年)に曲をつけて人口に膾炙した、あの「赤とんぼ」(大正10年/1921年作)の作詞者です。「赤とんば」は教科書類では第3連「十五でねえやは 嫁に行き/お里のたよりも 絶えはてた」が省略されてしまうのですが、ペンタトニック(五音)音階を用いた山田耕作の作曲が冴えており、この曲(ホ長調)のペンタトニック音階は移動ドのドレミソラドが用いられており、「夕やけ小やけの あかとんぼ」は移動ドのメロディーではソドドレミソドラソ・ラドドレミとなり、「あかとんぼ」の部分が通常の日本語アクセントを反行した「ラド・ドレミ」と一瞬「ラド」で部分転調したと錯覚するようなアクセントになっており、この素晴らしい作曲に恵まれたことによって創作童謡の金字塔的と呼べる、不朽の名曲になっています。また露風門下生からはいずれも夭逝・早逝した北村初雄(1987-1922)、竹内勝太郎(1894-1935)ら立派な業績を残した詩人もおり、露風がいなくても世に出た才能だったでしょうが、短い生涯を早くから詩人としてデビューしたのには露風が触媒となった働きがあります。

 白露時代は、白秋と露風の影響力が衰えたのちに詩壇のボスとなった川路柳虹(1888-1959)によって長く牛耳られることになりますが、詩人としての柳虹は白秋や露風よりもはるかに貧弱な存在でした。明治40年年代~大正初期は日本の詩の過渡期としてぽっかりと空いた空白に白秋と露風がいたと言うべきで、この時期本当に実質を備えた詩人は第一線から引退しつつもひそかに旧作の改訂と新作創作を続けていた蒲原有明、明治44年(1912年)に26歳で夭逝した石川啄木、彫刻家の余技の詩と見なされていた高村光太郎、生前詩集の刊行を見ずに早く筆を折り事故死した三富朽葉(1889-1917・遺稿全集『三富朽葉詩集』は大正15年/1926年刊)、詩集刊行するも白秋派・露風派のいずれにも依らず生涯異端的存在だった山村暮鳥(1884-1924、詩集『三人の處女』大正2年/1913年、『聖三稜玻璃』大正4年/1915年)ら、また多くの優れた俳人や歌人の作品にこそ後世にあっても風化しない本質的な詩の探究があったと見られます。白秋も後年の短歌や歌謡詩・童謡詩にあってこそ全人格を尽くした詩の達成があったと考えられるので、そこに白秋の長い詩歴に較べて志半ばで座礁した露風の不幸があったと思われます。

(旧記事を手直しし、再掲載しました。)