翼ある蛇(vii)~ヘンリー・ダーガー、魯迅、ロレンスへのオード | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

Henry Darger's Drawing for "In the Realms of the Unreal".

ヘンリー・ダーガー(Henry Darger, 1892-1973)
魯迅(Lǔ Xùn or Lu Hsün, 1881-1936)
D・H・ロレンス(David Herbert Lawrence, 1885-1930)
Henry Darger's Room & Books

Darger's grave at All Saints Cemetery
The American Folk Art Museum in New York City, which named a study center after Darger.
A portrait from the Chicago Daily News from May 9, 1911: a five-year-old murder victim, named Elsie Paroubek.
Darger's Novel, "In The Realms of the Unreal".

翼ある蛇 (vii)
ヘンリー・ダーガー、魯迅、ロレンスに

まず世界から「愛」という言葉を失くす
愛という文字を削りとる
慈愛、博愛、友愛、恋愛、性愛、夫婦愛、親子愛、それら無数に
愛で結ばれる言葉、
愛燐、愛情、愛用、愛好、愛想、愛称、愛着、愛人または愛犬、愛猫、愛国心など
これも無数に愛から始まる言葉
それらを削りとると、
ようやくぼくが見ている世界が見えてくる
ダーガーが描いた世界が見えてくる

ぼく、ダーガーは19歳のとき、一切の感傷もなしに
『非現実の世界で』を書き始めた
「非現実」(Unreal)、それは大気の精(Aerial)の目にしか見えない
神の遍在を失った世界
すなわち宙に浮いたぼくの転倒した現実(Air-real)だ
ぼくには母もない、妹もない
父も一切の肉親も類縁もない
ただの物体としてここにある
風が吹けば裏返るような
裸足で焼けた砂を歩むような
うつろな世界で生きている、だから
ぼくは共感を求めない
理想も感動も共有しない
ぼくは根なし草、食いつめた者が流れつくミシシッピ川の上流、シカゴの
下町に生きる知恵遅れの病院掃除夫だ

「世界の豚殺し
機具製作者 小麥の山
鐵道賭博 全國の貨物のハンドラ
嵐の シャガレの聲 ガンガン聲の
二つの肩のどでっかい都會(マチ)
彼等はお前の不行状を俺に告げるそして俺は彼等を信ずる
俺はお前のガスランプの下の化粧した女共が若い百姓たちをコイコイやってゐるのを見た
そして彼等はお前をやくざ者として俺に告げる俺は答へる
そうだ それはホントだ 俺は人を殺してまた自由に殺しにゆける人殺しを見た」
(カール・サンドバーグ, 1878-1967、『シカゴ詩集』1916、草野心平訳)

そうだ、それは本当だ、ぼくは聖書と童話絵本しか読まないから
神にそむく背徳の文書など読まないが
この街では人を殺した者がまた自由になりまた自由に人を殺しに行ける
まるで旧約聖書のような街、
突然ぼくは気づいた、この神話の街では
ぼくは神話の記述者になるしかないと、だからぼくは
定められた職務以外の一切の人との
交わりを断つ、その切断面から
ひとすじの血が流れる
ぼくが人であることを切り離した時の
へその緒を断ち切ったときの
永遠に経血を迎えない両性具有者の血
ぼくは乳児、ぼくは老女、ぼくは保存された死体
救いを求めないひとりきりの秘密の愉悦に
羽毛のように埋もれた無名の不明者。

ご在天なる父なる主の過不足のないご加護に
護られた空白にして真空
誰にも相手にされず
誰をも相手にしない
平穏を与えられた福の上にも福なる
加福をいただいた者、だった。
愛少なき者はますます愛を失い
愛多き者はますます愛を得るが
愛なきぼくにはどちらも関係がない
rêve(夢)という語はliebe(愛)に似ているようで
まるで似ていない
ぼくは生涯配偶者も子供も持たない
ぼくきりで終わる無精卵のような存在であることを
誇りとも屈辱とも苦痛ともしない
薄弱な精神体
主を誉めよ、主を誉めよ
一切人目を気にしないぼくは
いくらでも見苦しく生きる

ぼくは背徳の文書など読まないから(読んでも
わけがわからないから)
たぶん、決してロレンスも魯迅も読んだことはない。
ロレンスは生涯個人的な愛を必要としただろう
魯迅もまた社会を愚鈍な曖昧さのままにとどめる
愛の抹殺を必要とした
どちらもぼくには関わりのない概念
ぼくは個人として無、社会において無
であることが唯一の居場所だったから
ぼくはそこで腐り朽ちてでも停滞と変化のない外界を望む
施設から家出した時でさえイリノイ州の外までは出なかった
イリノイ州シカゴ、海のない町
ぼくは80年の生涯ほんものの海を知らない
童話絵本でしか知らない
海を知らない内陸部の幸福
閉ざされたことにある息のつまる幸福
だけでいい
長い陸路も海路もぼくには恐怖でしかない
中西部あたりまで、ミシシッピ川を下ることすら考えない
ヨーロッパの放浪者ロレンス、都市から都市へと
拠点を変えた魯迅の生き方は
ぼくには恐怖でしかない

神への書、神のない世界の書、『非現実の王国で』を書きながら
1922年、30歳になったぼくは、聖ジョセフ教会病院を辞め、
グラント教会病院で働き、リンカーン病院宿舎から
ドイツ移民の夫婦が営むウェブスター通り1035番地の独身者用の下宿に間借りした
孤独に耐えかねて33歳の1925年、教会に養子縁組の請願書を出した
が、貧困と知的遅延を理由に却下される
何度も請願したが通らない
養子を取れないぼくはせめて犬を飼おうと
家計を検討したが、ぼくの乏しい掃除夫の収入では
犬の餌代すらまかなえないことがわかった
その頃ぼくの『非現実の王国で』の第一部の草稿は完成した
これを童話絵本にするためにはぼくは多くの絵を描かねば
ならない。ぼくは自作のための画家となった
1932年、ぼくは同じウェブスター通り851番地アパートの3階に移り、
トイレとバス、暖炉はあるがキッチンはない
4メートル×5メートルの1.5間の部屋で
人生の残り40年をそこで過ごすことになる
ぼくは『非現実の王国で』のタイプ原稿の作成と、その
絵巻物を描きながら、57歳、1939年からは
続編『ヴィヴィアン・ガールズのシカゴにおけるさらなる冒険』を書き始める。
グランデリアン王国とその残虐なグランデリニアンは
シカゴにも侵食し、子供たちを苛み続ける
そして神の御子、ヴィヴィアン・ガールズたちは、
勇敢に戦い続ける、この果てしない戦いは
野蛮で無慈悲な小児快楽殺人王国、グランデリアン王国の
残虐なグランデリニアンの神を踏みにじる勝利か
少女十字軍、スパイにしてレジスタンス兵士、ヴィヴィアン・ガールズの勝利か、
永遠に決着がつかないかもしれない、と、ぼくは
どちらにも転がるように書いている

ぼくはそれを誰にも見せず
ぼくだけしかそれを読まないから
この営みは神しか知らない
神「ダーガーよ、お前の頭はおかしい」
ぼく「主よ、その通りです」
神「なぜお前はそれほどおかしいのか」
ぼく「ぼくはあなたの被造物なのです」
血まみれた少女たちが吊され、臓物を裂かれ、非現実の現実を体現する
発電所脇の水溝に遺棄されたルーシー・パローベックの遺体を体現する
すべてはあらゆる被造物の現実であれば
ぼくは現実、また非現実でも御心の反映でしかありません
ぼくは無、あなたの前において無でもあれば
人の世においても無、何も生み出さない
無でしかありません

だからダーガーはただただ
誰にも見せずに書き、描き続けた
埃の堆積、黴の増殖、
針先で突いた一点から吹き出る妄想に妄想を重ねた
苦しみと没我、悦楽に押しつぶされたチューブのように
それは無垢ではない、無垢は無垢であることを
必要としないから
ダーガーは40年間で拾い集めたトラック二台分ものゴミとともに生きた
自分で買うものすら選べなかった、それらが
聖書、礼拝、祈祷会、雑役、『不思議の国のアリス』『オズの魔法使い』とともに唯一のダーガーの外界との接点となって
『非現実の王国で』を作り上げた

世界から愛という文字を削りとる
能動的な愛も受動的な愛も知らない
ダーガーの前で、おそらくどんな
人生訓、処世術、思想、哲学、経済学、占星術、自己啓発も
霧消する
この世でもっとも小さく、また
もっとも巨大な虚無の孔
として、すでに墓所に眠るダーガーだが、

わたしはどんな裁きも受けます
しかしもしすでにあなたの手で
わたしの罪に十分な処罰と報いがなされていたなら
あなたの手違いで不相応に長く生かされていたなら

わたしをあまり厳しく裁かないでください

(未定稿の旧作を整理してまとめました。(半年前にも載せましたが、再掲載いたします。先週再掲載したviiiと前後してしまいましたが、あまり順序は関係ないのでご容赦ください。)