ステファヌ・マラルメ『イジチュールまたはエルベノンの狂気』1870年 | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

ステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842-1898)

 フランス19世紀の詩人、ステファヌ・マラルメ(1842-1898)は10代から詩作を始め、19歳の時に読んだシャルル・ボードレール(1821-1867)の詩集『悪の華』(発禁初版1857年、改訂増補公刊版1861)に決定的な影響を受けた人でしたが、生涯を高校の英語教師として過ごし、晩年に編纂して没後翌年の1899年に刊行された『詩集』全47篇が唯一詩集になりました。一方でマラルメは全詩集に収録しなかった多くの初期習作を残しており、それらは遺族の手によって1920年に『折々の詩』として刊行されます。またマラルメは最晩年にタイポグラフィーによる図形詩のかたちを取った長篇詩『骰子一擲(サイコロの一振り)』を入稿直前までほぼ完成させており、これは『折々の詩』に先立って1914年に刊行されました。もっとも刊行が遅れたのは1867年頃(マラルメ25歳)に着手され1870年頃(マラルメ27、8歳)に未完のまま残されていた、マラルメ自身は短篇小説、詩論、散文詩集いずれの性格を持つものとして創作していた『イジチュールまたはエルベノンの狂気 (IGITUR ou La Folie d'Elbehnon )』で、マラルメ没後27年を経た1925年にようやく公刊されました。「序詞」「梗概」に続いて七つの章(全五章と補遺または別案二章)に分かれていますが、未定稿かつ未完のために内容に多くの不統一があり、たとえば「梗概」は全編の要約として書かれていますが、そこでは全編が四つの断章として構想されています。

 もとよりフランス語など読めない筆者はこれも平凡社の『世界名詩集大成4・フランス篇III』(昭和34年/1959年刊)で全訳された平井啓之氏の訳『イジチュール或いはエルベノンの錯乱』で愛読してきました。それより先に秋山澄夫氏の本邦初訳が昭和25年(1950年)にあり、秋山氏は二度の改訳を経て昭和50年(1975年)・思潮社刊の『イジチュールまたはエルベノンの狂気』を決定稿としています。筆者は先立ってご紹介したアントナン・アルトーの散文詩集『神経の秤』を、本邦初訳の清水徹氏訳とその後の別の訳者による新訳と比較して、清水氏の訳文の方に軍配を上げましたが、マラルメのこの『イジチュール』の場合は平井啓之氏の訳、秋山澄夫氏による再々訳のどちらも手ごわいもので、詩論(詩作とは何か)にして短篇小説かつ散文詩、しかも未定稿で未完という性格を念頭に置く必要があります。先に平井啓之氏の訳文で「序詞」を見てみましょう。

 序 詞
 古事学び

 先祖の呼気が蠟燭を吹き消そうとのぞむとき、(おそらくその蠟燭のおかげで魔法書の文字は今に遺ったのであるが)--彼は「未だ!」と言う。
 彼自身も結局は、物音が消え果ててしまうであろうとき、彼が光に呼気を吹きかけることによって闇を生じることができるというだけの事実から、何かある重大な物事(星辰の消滅か、偶然の滅尽か?)の証拠を引き出すことであろう--
 それから--彼は絶対にしたがって語ったはずなのだから--不死を否定する、その絶対は外界に存在することであろう--時間を越えてかがやく、月だ。そこで彼は正面の幕をもたげるだろう。

 まったくの小児である、イジチュールは、自分の宿題(義務)を先祖たちに読みきかせる。
(平井啓之訳)

 他方、秋山澄夫氏の訳ではこの「序詞」は「緒言」と、「古事学び」は「古い習作」と訳されています。秋山氏の訳を引きましょう。

 緒 言
 古い習作

 先祖たちの息が蠟燭を(そのお蔭で多分呪文の文字も生きながらえているのだが)吹き消すことを望む時--彼は言う《まだ!》
 ついには彼自身が、物音が消え去る時、焔に息を吹きかけることによって闇を現出させ得るという単純な事実から、なにものか偉大なものの(天体のではなく?偶然は廃棄されて?)証を引出すであろう。
 ついで--不死を否定する絶対に基づいて彼が語る時、絶対は外部に--月に存在するであろう、時間の上方に。彼は目の前のカーテンを揚げる。

 イジチュールは、ほんの子供とはいえ、先祖たちへの義務を読みとる。
(秋山澄夫訳)

 この短い前書き(「序詞」「緒言」)だけでも、平井氏と秋山氏の訳文はまったく異なる印象を受けるものですが、マラルメにとって「書く」ということは先人たちの逝去に逆らって「魔法書」「呪文」を受け継ぐことであり、それは月の灯りの白に闇(黒い文字の暗喩)を刻みこむ作業であることが宣言されています。『イジチュール』全体が真夜中を舞台にした想像力の考察、ランプの灯りの下の白に黒い文字を綴っていく「詩作」自体をテーマにした、詩論・短篇小説・散文詩の混交体であることは冒頭から述べられているのです。そうした発送を伝える際に、「しまうであろうとき」「~ことができるというだけの」「することであろう」と副詞節の迂遠が惜しまれますが、意味の明瞭さ、構文の焦点では平井氏の訳に分があるように思われます。

 この七つの章(全五章と補遺または別案二章)に分かれた『イジチュール』のうち、散文詩としてもっとも完成度が高いのは第一章「真夜中」(平井啓之訳)、「真夜」(秋山澄夫訳)ですが、その前に置かれた、平井啓之訳では「梗概」、秋山澄夫訳では「要旨」とされた全編の要約文の訳を引いてみます。ここからマラルメが最晩年まで考察していた「骰子一擲(サイコロの一振り)」(無限の偶然に対する絶対的想像力の暗喩)のテーマが前述したテーマに合流します。先に秋山氏の訳文から上げましょう。

 要 旨
 四つの断片

1 真夜
2 階段
3 さいころ投げ
4 舎利の上での睡眠、蠟燭が消された後で

 おおよそ次のごとし。
〈真夜〉を告げる時計の音--さいころを投擲すべき真夜。イジチュールは階段を降り、人間精神から、事物の深奥へと、すなわち彼がまさにかくある絶対へと赴く。墓--舎利(感情なく、精神なき)中和状態。彼は予言を唱え、しぐさをする。無頓着。階段でひゅーっと口笛の音。《あなたがたはまちがっている》至極無感動。無限はあなたがたが拒否した偶然から生じる。数学者たるあなたがたは縡(こと)切れた--我れは絶対を投影されて。〈無限〉において終末しなくてはならなかった。簡単に言葉と身振り。わが生涯を説明するため、我れがあなた方に言うことといえば、あなたがたからはなにひとつ残りはしまい。--無限はついに、それに悩んだ一族から脱出する、--老いたる空間--偶然はなく。一族が偶然を否定するのは道理であった、--一族の生活--無限が絶対であるためには。このことは、〈絶対〉に配するに〈無限〉をもってする組合せのなかに生ずるはずであった。必要なことは--〈イデ〉を抽出すること。有用な〈狂気〉。かくして宇宙劇の一幕を演じ終わる。もはや時間も、ただ一つになったことばとしぐさの果ての、一息のみが残っていた、--燭を吹き消す、それによってこそ一切があったところの存在の極を。証。
 (すべてそのことを掘りさげること)
(秋山澄夫訳)

 訳文自体が通常の日本語構文から大きく逸脱しているために非常に難解な印象を受けますが、マラルメの唯一の『詩集』は『イジチュール』創作時からの詩篇を決定版全詩集として採録しており、それ以前の詩作は習作とされています。マラルメは詩人仲間への書簡で『イジチュール』を「完成までに20年かかる」と洩らしており、実際にほぼ20年後の1898年の逝去直前に決定稿が編まれた『マラルメ詩集』全47篇、さらに遺稿長篇詩『骰子一擲(サイコロの一振り)』は『イジチュール』で構想された発想の実現と言えるものです。この『イジチュール』の要約構想文も平井啓之訳の方が日本語としてこなれ、意味がくみ取りやすいので、平井氏の訳も載せておきましょう。

 梗 概
 四つの断章

1、真夜中
2、階段
3、骰子の投擲
4、蠟燭が吹き消された後、遺骸の上での眠り

 大要は次の如くである--
 真夜中の刻が鳴る--骰子が投ぜられないではならない〈真夜中〉。イジチュールは階段を降り、人間精神から、事物の奥底にまで到る、彼自身に他ならぬま《絶対》そのものとして。墓窟--中性的(感情も、精神もない)遺骨。彼は予言を唱え、仕事をする。階段には次のような音がする。「君は誤っている」いささかも情を動かさぬ。無限は偶然から生ずるが、諸君はその偶然を否定した。諸君、海賊上がりの数学者たち--ぼくは絶対の投企された姿だ。〈無限〉として有終の美を告げねばならない。端的に言葉と仕草で、わが生涯を諸君に説明するために、ぼくが諸君に告げることに関して、諸君からは何一つ残るまい--〈無限〉は終に家系の手を脱れてしまう、わが家系は〈無限〉について苦しんできたのだが、--昔ながらの空間--偶然はない。彼が〈絶対〉となり了(おお)せるために、--彼の生涯が--偶然を否定したことは正しかった。このことは〈絶対〉に対峙する〈無限〉の組合せのなかに起こるべきはずであった。必然であって--〈理念〉を率き出す。無限ではなかった〈錯乱〉。そこでは宇宙的な行為の一つが果たされたのだ。もはや何ひとつ残るものはなく、言葉と仕事が結びついた果ての、呼気のみが残った--それによって一切が存在した、生存の蠟燭を吹き消せ。証明。
 (すべてこれらを深く究めること)
(平井啓之訳)

 ここでマラルメが、ポーやボードレールの影響下に、ポーやボードレールにとっては修辞的問題、感覚の定着であったものを一気に想像力と想像主体の関係の次元に導いたのは西洋文化圏では画期的なもので、それは東洋文化圏の文学にあっても無意識下の操作を前景化する働きをも含んだものでした。マラルメとは無関係にカフカに現れ、マラルメとカフカ、さらにジェイムズ・ジョイスからバタイユ、アルトー、ベケット、ブランショらに流れこみ、実像主義~構造主義、ポスト・モダニズム思潮の基礎となったのは文学史の定評通りでしょう。『イジチュール』が果たしたのは、マラルメ全詩集が平行して実現していたテーマの理論的裏づけでした。マラルメの『イジチュール』やアルトーの『神経の秤』を、直接間接、影響であれ偶然であれ、踏まえた次元にあるのが19世紀末以降の現代の詩です。アルトーの『神経の秤』とともに、『イジチュール』は強烈な対決意識と自己認識、決意と覚悟を鼓舞する詩集です。確かに一見難解で取りつくシマのない代物ですが、これらを知らずに詩を語るのは無免許で自動車運転するよりも、何の用意もなしに登山するよりも無謀です。崖から落ちてしまう前に、識らねばならないことは確かにあります。