吉岡実「僧侶」(詩集『僧侶』昭和33年/1958年11月刊より) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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吉岡実・大正8年(1919年)生~平成2年(1990年)没
詩集『僧侶』書肆ユリイカ
昭和33年(1958年)11月2日刊

 僧 侶
 吉岡 実

 1

四人の僧侶
庭園をそぞろ歩き
ときに黒い布を巻きあげる
棒の形
憎しみもなしに
若い女を叩く
こうもりが叫ぶまで
一人は食事をつくる
一人は罪人を探しにゆく
一人は自潰
一人は女に殺される

 2

四人の僧侶
めいめいの務めにはげむ
聖人形をおろし
磔に牝牛を掲げ
一人が一人の頭髪を剃り
死んだ一人が祈祷し
他の一人が棺をつくるとき
深夜の人里から押しよせる分娩の洪水
四人がいっせいに立ちあがる
不具の四つのアンブレラ
美しい壁と天井張り
そこに穴があらわれ
雨がふりだす

 3

四人の僧侶
夕べの食卓につく
手のながい一人がフォークを配る
いぼのある一人の手が酒を注ぐ
他の二人は手を見せず
今日の猫と
未来の女にさわりながら
同時に両方のボデーを具えた
毛深い像を二人の手が造り上げる
肉は骨を緊めるもの
肉は血に晒されるもの
二人は飽食のため肥り
二人は創造のためやせほそり

 4

四人の僧侶
朝の苦行に出かける
一人は森へ鳥の姿でかりうどを迎えにゆく
一人は川へ魚の姿で女中の股をのぞきにゆく
一人は街から馬の姿で殺戮の器具を積んでくる
一人は死んでいるので鐘をうつ
四人一緒にかつて哄笑しない

 5

四人の僧侶
畑で種子を撒く
中の一人が誤って
子供の臍に蕪を供える
驚愕した陶器の顔の母親の口が
赭い泥の太陽を沈めた
非常に高いブランコに乗り
三人が合唱している
死んだ一人は
巣のからすの深い咽喉の中で声を出す

 6

四人の僧侶
井戸のまわりにかがむ
洗濯物は山羊の陰嚢
洗いきれぬ月経帯
三人がかりでしぼりだす
気球の大きさのシーツ
死んだ一人がかついで干しにゆく
雨のなかの塔の上に

 7

四人の僧侶
一人は寺院の由来と四人の来歴を書く
一人は世界の花の女王達の生活を書く
一人は猿と斧と戦車の歴史を書く
一人は死んでいるので
他の者にかくれて
三人の記録をつぎつぎに焚く

 8

四人の僧侶
一人は枯木の地に千人のかくし児を産んだ
一人は塩と月のない海に千人のかくし児を死なせた
一人は蛇とぶどうの絡まる秤の上で
死せる者千人の足生ける者千人の眼の衡量の等しいのに驚く
一人は死んでいてなお病気
石塀の向うで咳をする

 9

四人の僧侶
固い胸当のとりでを出る
生涯収穫がないので
世界より一段高い所で
首をつり共に嗤う
されば
四人の骨は冬の木の太さのまま
縄のきれる時代まで死んでいる

(書肆ユリイカ「ユリイカ」昭和32年/1957年4月号発表・詩集『僧侶』書肆ユリイカ、昭和33年/1958年11月2日刊収録)

 吉岡 実(よしおか みのる)は大正8年(1919年)東京生まれの詩人。十代から詩作を始めていましたが同人誌参加・詩作発表はせず、昭和16年(1941年)~昭和20年(1945年)年には軍隊生活を送りました。満州への応召に際して、初めて詩歌集『昏睡季節』(昭和15年/1940年)、私家版詩集『液体』(昭和16年/1941年)を上梓します。戦後、出版社勤務のかたわら詩集『静物』(昭和30年/1955年)、『僧侶』(昭和33年/1958年・H氏賞)を刊行。詩集『僧侶』の反響によって詩誌「ユリイカ」に寄っていた戦後世代のシュルレアリスム指向の詩人たちとの交流が始まり、昭和34年(1959年)には清岡卓行、飯島耕一、大岡信らと詩誌「鰐」を創刊します。以後、詩集に『紡錘形』(昭和37年/1962年)、『吉岡実詩集』(昭和42年/1967年)、『静かな家』(昭和43年/1968年) 、『神秘的な時代の詩』(昭和49年/1974年)、『サフラン摘み』(昭和51年/1976年・高見順賞)、『夏の宴』(昭和54年/1979年)、『ポール・クレーの食卓』(昭和55年/1980年)、『薬玉』(昭和58年/1983年・藤村記念歴程賞)、『ムーンドロップ』(昭和63年/1988年) があり、また歌集『魚藍』 (昭和34年/1959年)、随想集『 「死児」という絵』(昭和55年/1980年)、評伝『土方巽領』(昭和62年/1987年)、戦時中の日記 『うまやはし日記』(平成2年/1990年)を刊行し、書籍の装幀も多く手がけました。平成2年(1990年)5月没、享年71歳。没後の全詩集『吉岡実全詩集』(平成3年/1991年)は柄谷行人・浅田彰ら編の『必読書150』(太田出版・2002年)の「日本文学50」(小説35作・詩歌4冊・批評11篇)に斎藤茂吉『赤光』、萩原朔太郎『月に吠える』、『田村隆一詩集』(これらの選択には疑問がありますが)とともに選出され、吉岡実と同世代の、田村隆一に代表される鮎川信夫、北村太郎、黒田三郎らの「荒地」派の詩人たちと戦後日本の現代詩を二分する詩人と目されています。まだ10代~20歳前後だった吉岡実の初期詩篇は、 同世代の「荒地」派の詩人たち同様、戦前のモダニズム~シュルレアリズム詩の影響の強いものでした。 没後にこの春に初の『左川ちか全集』が刊行されたばかり(しかも通販サイト、書店売り上げで「詩の本」部門ベストセラー1位の大反響を呼んでいます)の左川ちか(1911-1936)、また戦後にも大きな存在感を誇った滝口修造(1903-1979)の詩を上げてみましょう。

 死の髭
 左川ちか
 
料理人が青空を握る。四本の指跡がついて、
――次第に鶏が血をながす。ここでも太陽はつぶれてゐる。
たづねてくる青服の空の看守。
日光が駆け脚でゆくのを聞く。
彼らは生命よりながい夢を牢獄の中で守つてゐる。
刺繍の裏のやうな外の世界に触れるために一匹の蛾になつて窓に突きあたる。
死の長い巻髭が一日だけしめつけるのをやめるならば私らは奇蹟の上で跳びあがる。
 
死は私の殻を脱ぐ。
(昭和7年/1932年3月「文學(厚生閣書店版)」、昭和11年/1936年11月刊『左川ちか詩集』収録)

 妖精の距離
 瀧口修造

うつくしい歯は樹がくれに歌つた
形のいい耳は雲間にあつた
玉虫色の爪は水にまじつた
抜きすてた小石
すべてが足跡のやうに
そよ風さへ
傾いた椅子の中に失はれた
麦畑の中の扉の発狂
空気のラビリンス
そこには一枚のカードもない
そこには一つのコップもない
慾望の楽器のやうに
ひとすじの奇妙な線で貫かれてゐた
それは辛うじて小鳥の表情に似てゐた
それは死の浮標のやうに
春の風に棲まるだらう
それは辛うじて小鳥の均衡に似てゐた
(昭和12年/1937年12月刊『妖精の距離』書き下ろし)

 ご覧の通り吉岡実が10代の頃のモダニズム詩の手法は「僧侶」にも反映されています。特に死のイメージの頻出する『左川ちか詩集』は吉岡実自身が愛読した詩集と認めています。詩集表題作の詩篇「僧侶」を含む戦後の第2詩集『僧侶』は刊行すぐ、日本現代詩の古典と認められ、以降吉岡実の詩は発表ごとに事件とされ、晩年まで日本の現代詩に絶大な影響を誇った詩人になりました。一見発想やイメージの喩法ではモダニズム~シュルレアリスム風でいて、吉岡実の詩に横溢しているのは諧謔への想像力であり、時代を先取りし、かつ時代を超越したブラックユーモアの感覚です。「僧侶」一篇からもその本質は伝わると思います。

(旧記事を手直しし、再掲載しました)