境界線上のジャック・イーラム、または推しについて | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。



William Scott "Jack" Elam (1920-2003)
境界線上のジャック・イーラム
または 推しについて

ぼくには 多くの 感覚的欠落がある それはぼくの 精神的
疾患や 発達障害のせいかもしれないが たとえば
イヤフォンを装着できない イヤフォンをつけている人を見ると
おそろしくて ちかづけない イヤフォンで音楽を聴くひとは
音楽を聴いているのかも しれないが 大気を振動させては
消えていく 音楽ではなく 骨振動を耳骨 頭骨で
享受している その時 両耳は削がれて ただの耳骨に
なるので それはぼくには音楽を聴くというより 一種の
拘束・閉鎖環境における 拷問実験を 連想させる

同じくぼくは 「推し」という言葉と それが意味する
感覚が理解 できない 意味だけならば 一応わかる 推しとは
メディアの違いこそあれ 集団的パフォーマンスや 物語的創作物に 出演 登場するパフォーマーや
キャラクターたちの 特定のひとりを ひいきすることだ
しかし 倉橋由美子さんが 『偏愛文学館』で ジュリアン・
グリーンの 名作『モイラ』を愛読書に上げ 的確に鑑賞し 「わたしは
この小説は好きですが、モイラのような女は嫌いです」と
結んだように パフォーマンスや物語 それらを構成する
パフォーマーやキャラクターは 全体としてとらえたときに
機能するものであり たとえば『源氏物語』や『平家物語』
さらに『ハムレット』や『マクベス』また『戦争と平和』や
『悪霊』の 特定のキャラクターひとりをとって 推すも推さないも
あるまい 光源氏はマザコンでロリコン マクベス夫人は嫌な
女だが またトルストイやドストエフスキーの神のごとき眼に
とらえられた人物たちは ことごとく底知れず 食えない
キャラクターばかりだが それらが不朽の名作なのは
うたがえない 特定のだれかひとりをとって 推すも推さないも
ない もしそれをするなら 人体をばらばらにして

肋骨は好き 骨盤は嫌い 膵臓や肝臓は嫌い 顎骨は好き
十二小腸は嫌い 前立腺は嫌い 胸腺は嫌い
前髪は好き 鼻筋は好き 太腿は好きと 腑分けしていけば
きりがないが 全体として存在するものを 部分に切り分け
そのひとつだけを美点として 執着し ほめそやすようなものだ
というのは あまりにも誇張しすぎとしても
キャサリン・ヘップバーンの演じたような女が 身近にいれば
いつも騒々しく わずらわしいだけだ また
ベティ・デイヴィスは嫌な女 でなければめんどくさい女
ばかりしか 演じてこなかった またヘンリー・フォンダや
ケイリー・グラントほど プリテンシャスか 尊大な役ばかりしか
演じなかった ハリウッド・スターはあるまい
しかし キャサリン・ヘップバーンそして ベティ・デイヴィス
またヘンリー・フォンダ ケイリー・グラントの出演した
映画は すべて おもしろい 嫌な女 また嫌な男たちほど
観ていておもしろいものはない これをも推し とするならば

推しとは 何を指すのだろう かれらはすべてうさんくさい
うさんくさいゆえに 素晴らしい映画の ホリゾントとなって
精彩をはなっている ましてや大根役者の典型のような
タイロン・パワー グレゴリー・ペック そして にちゃにちゃと
煙草を噛む 不快感の塊のような悪役役者 あの素晴らしい
ジャック・イーラムを観ると ぼくは釘づけになる ジャック・イーラムがというより
『狙われた幌馬車』や『無頼の谷』『遠い国』
『キッスで殺せ!』『リオ・ロボ』など 素晴らしい西部劇(あの忌まわしい
『真昼の決闘』や『OK牧場の決闘』にも イーラムは出ているが)や
アクション映画のなかで いつも喉に刺さった小骨のように
卑猥で邪悪な イーラムが素晴らしい 非対称な顔つきで

いつもどちらかの肩が上がり もう片腕はぶらぶらさせて
女と食い物と金に汚く いつも親分の統率がとれず 仲間の足を
ひっぱっては まっ先に保安官や警備隊員のライフルで射殺される
強盗団や馬泥棒の三下 その役を演じるだけのために
生まれてきたようなジャック・イーラム ぼくのガキの頃の遊び仲間には
西部劇のチンピラのようなやつがいっぱいいたが
イーラムほどの天然の凄みと 三下ぽさを漂わせた
やつはさすがにいなかった 昔のハリウッド俳優は
道具方から 悪人面で 馬に乗れるというだけで
西部劇の役者になった 強面が たくさんいたが そのひとり
馬の骨のような輝かしいジャック・イーラム
このイーラムに対する思いが いわゆる推しと
同じものだろうか あれほど

観るだけで 嫌な気分をつのらせる 有象無象の俳優たちが
ブラウン管の奥で スクリーンの上で また液晶の表面で いかに
不愉快 かつ傲慢に 引きこむか 推すも推さないも関係ない
もんどりうつ映像で 五感を揺さぶるか 卑小で無神経なぼくにも
わかる ぼくの全身に 五臓六腑に 決して
誰の推しにもならない 陰鬱で卑猥な かれらの存在が
愛着の臨界点ではなく 愛憎の 境界線上において
生の理不尽と 二律背反の 稲妻となって ほとばしる

それを 理屈では
うまく書けない 伝えられないので
仕方なくぼくは 行分けで
これを書いた