八木重吉の晩年詩稿(3)・[ 欠題詩群 ]を読む | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

八木没後の遺族、昭和2年(1927年)
登美子夫人(22歳、1905-1999、享年94歳)、
長女桃子(4歳半、1923-1937、享年14歳)、
長男陽二(2歳半、1925-1940、享年15歳)、
登美子の母イト、
八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~
昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)
婚約申し込みの時の見合い写真、
大正10年(1921年)、23歳
婚約式、大正11年(1922年1月)、
八木23歳、登美子夫人16歳、
後列左から島田慶治(登美子兄)、
媒酌人・内藤卯三郎、八木藤三郎(重吉父)
 東京府南多摩郡(現在の東京都町田市)出身の無教会派キリスト教徒、中学校の英語教師だった詩人・八木重吉(1898-1927)には八木自身の編纂による大正14年(1925年)8月刊の第一詩集『秋の瞳』(全117篇)、没後4か月後の昭和3年(1928年)2月刊の第二詩集『貧しき信徒』(全103篇)の2冊の詩集があり、没後から膨大な未発表詩稿があると知られていましたが、その全貌が明らかになったのは、八木没後55年の昭和57年(1982年)にようやく刊行された『八木重吉全集』全三巻(筑摩書房刊)に収録・公開された、大正10年(1921年)~大正15年(1926年、翌昭和2年の没年にはすでに八木は筆も執れない病状でした)の詩作期間6年間に残された、確認されただけでも約70冊・2,800篇もの未発表手稿詩集でした。八木が公刊詩集2冊に収録した詩篇220篇はその0.8割にも満たなかったということです。さらに紛失・破棄された詩篇があったとすれば八木生涯の創作詩篇はほぼ3,000篇はあったと推定され、6年間に渡って年間約1,000篇もの詩作があったと考えられます。これは生前には10篇にも満たない詩篇しか発表せず、没後に1,800篇近い遺稿詩篇が明らかになった19世紀アメリカの女性詩人、エミリー・ディキンスン(1830-1886)を連想させられ、ディキンスンの詩は19世紀の英米の英語詩からはあまりに異端な、破格な文体と発想のために没後50年あまり正当に認められなかったのですが、譬喩詩、短詩、信仰詩など八木重吉とディキンスンの類縁性は比較文学の俎上に乗せてもいいものです。もっとも八木の亡くなった1927年にはまだディキンスンの詩の評価は進んでおらず、学生時代から19世紀英米のロマン派詩に傾倒していた八木もディキンスンはせいぜい名前と数篇の代表詩しか知らなかったと思われます。

 エミリー・ディキンスンとの比較はまた別の課題になりますが、ディキンスンの詩を日本に置き換えれば、いわば明治20年代にすでに『秋の瞳』や『貧しき信徒』が書かれていたようなもので、その点では八木の詩は八木自身が傾倒した北村透谷(1868-1894)の明治20年代詩篇、島崎藤村の『若菜集』以降の明治詩、石川啄木や高村光太郎による口語詩、さらに室生犀星、萩原朔太郎、佐藤春夫、八木がもっとも愛読した山村暮鳥らの大正詩の成果を踏まえたものでした。八木は一見超然として見えながら時代の言語水準には極めて意識的であり(それは八木より10歳以上年少の世代の抒情詩人、伊東静雄や中原中也、立原道造も同様で、これら優れた詩人は一見自己流に見えながら明治詩~大正詩~昭和詩の言語水準の変遷を明確に意識していました)、八木が本格的な詩作に入った大正10年のノートには、その半数以上が現在では顧みられない詩人を含む、大正10年時点で入手できる、明治~大正の第一線、または現役の詩人・詩集のリストが記載されています。そのリストでとりわけ注目されるのは筆頭に山村暮鳥(1884-1924)が上げられ、エッセイ集を含む全既刊単行本が記されていることで(他に日夏耿之介に、著作名を記さず「全集予約すべし」とありますが、実際には日夏の全集は没後刊行のものしかないので、当時19世紀英米ロマン派詩研究の第一人者だった日夏の学問的著作を指していたと思われます)、本格的な詩作の初期段階から八木が山村暮鳥の詩にもっとも強く惹かれ、暮鳥に学びながら、しかし暮鳥の模倣には陥らないように慎重だったことを示します。八木重吉の夫人・登美子の回想録『琴はしずかに』に証言されているように、八木は学生時代に北村透谷未亡人を訪ねて透谷の回想を聞くほど透谷に傾倒し、また八木を訪ねてくる若手詩人には「山村暮鳥さんの詩はいいですね」と語るのが常だったと言います。北村透谷、山村暮鳥とも生業はキリスト教伝道師だった詩人でした。暮鳥が大正13年(1924年)12月に逝去した時、八木重吉は同年秋から着手していた第一詩集『秋の瞳』の編纂中で、暮鳥が病床で完成、逝去時には印刷が進んでいた遺稿詩集『雲』が逝去翌月の大正14年(1925年)1月に刊行されると八木はすぐ購入し入念に繙読していたと証言がありますから、暮鳥の逝去・『雲』刊行をはさんで編纂された大正14年8月刊の『秋の瞳』は暮鳥への追慕とともに、意図的に暮鳥からの影響を避けた詩集とも見られます。

 というのは、八木の病床詩集『貧しき信徒』や、同詩集に採択されなかった晩年詩篇は、すでに暮鳥との類似や影響を意に介さない、暮鳥詩集『第三稜玻璃』(大正4年=1915年)、『風は草木にささやいた』(大正7年=1918年)、『梢の巣にて』(大正10年=1921年)、そして『雲』との類似・影響を隠さない詩篇が散見されるからです。暮鳥は詩集ごとに作風を変える詩人として大正時代には節操のない詩人と目され、昭和4年(1929年)の日夏耿之介『明治大正詩史』に至っては「暮鳥死して天才と持ち上げる声もあるが一介の駄詩人に過ぎぬ」と一蹴されているほどですが、金子光晴(1995-1975)や草野心平(1903-1988)ら若い世代の詩人にとっては「『聖三稜玻璃』を聖書のように読んだ」(金子光晴)と証言されています。しかし暮鳥の作風の変遷は文体・発想まで一変する激しいもので、初期の同人誌仲間だった室生犀星、萩原朔太郎ですら匙を投げたほどでした。にもかかわらず一見ばらばらな暮鳥の詩、また八木の詩に一貫性が感じられるのは、それが真摯な詩人による心からの叫びとして、キリスト教信徒以外にも訴求力を持ち得ているからです。さらに、無教会派キリスト教信徒の八木にとっては、キリストへの信仰と家族愛、自然への感受性、闘病はひとつながりのものでした。以前に八木の手稿詩集を、テーマ別に、

●a)闘病下の信仰告白詩
●b)日常・自然嘱目の心境詩
●c)家庭生活・妻子への愛の詩
●d)闘病生活の心境詩

 --と分けたように、手稿詩集にまとめられずばらばらに詩篇ごとに残された「[ 欠題詩群 ]」もテーマ別に分けてみることにします。なお詩篇ごとの数字は、『八木重吉全集』にまとめられた際の推定執筆順番号です。この分類の結果、

●a)闘病下の信仰告白詩……12篇
●b)日常・自然嘱目の心境詩……9篇
●c)家庭生活・妻子への愛の詩……2篇
●d)闘病生活の心境詩……6篇

 --となったのは、また「a)闘病下の信仰告白詩」「b)日常・自然嘱目の心境詩」とも類案詩が多いのは、病状悪化による創作力の低下とともに、これらがすでに八木の精一杯の詩作であったことを感じさせます。

 [ 欠題詩群 ]
 (推定・大正十五年二月以降)

●a)闘病下の信仰告白詩……12篇

 1. 〇

イエス様 イエス様 イエスサマ イエスサマ
エスサマ キリストイエス イエスサマ
イエスサマ イエスサマ イエスサマ
イエスサマ イエスサマ イエスサマ
イエスサマ イエスサマ イエスサマ
イエス様 イエス様 イエス様
イエスサマ イエスサマ イエスサマ

 2. 〇

空しいものだ
要するにむなしいものだ
基督の眼から見ぬことができぬなら
私にとって何もかもつまらぬ

 3. 頌 栄

イエスさま
イエスさま
イエスさま

 6. 奇 蹟

癩病の男が
基督のとこへ来て拝んでゐる
旦那
おめえ様が癒してやってくれべいと思やあ
わしの病気やすぐ癒りまさあ
旦那 なほしておくんなせい
拝むから 旦那 癒してやっておかんなせい
基督は悲しい顔をなさった
そして その男のからだにさわって
よし さあ潔くなれ
とお言ひになると
見てるまに癩病が癒った
 (「大正詩人」大正15年5月)
 (『貧しき信徒』「奇蹟」初稿)

 9. 基 督

病める者を
お救ひにならうと来られた基督であった
病むわたしをも
きっと救って下さいます
こう信じて手を合わせます

 16. イ エ ス

イエスの名を呼びつめよう
入る息 出る息ごとに呼びつづけよう
怒どほりがわいたら
イエスの名で溶かそう
弱くなったら
イエスの名でもりあがって強くならう
きたなくなったら
イエスの名できれいにならう
死のかげをみたら
イエスを呼んで生きかへらう

 21. 奇 蹟

癩病やみが
イエスのまへへ跪いて
あなたが なほして下さらうと御考へになれば
私を潔くして下されますと一生懸命ねがひました
イエスは憫んで手をのべてその男につけ
よし潔くなれと申されますと
すぐに癩病がなほりました

 22. 奇 蹟

イエスが
ツロシドンの地を去り
ガラリアの海に来たときであります
人々が一人の聾で訥る者をつれてきて
手をつけてくださいとねがひました
イエスは人々をはなれ
指をその男の耳にさし入れ
またつばきをつけて其舌にさわり
エツバタと云ひました
ひらけよ といふことばであったのです
そしてすぐに耳がきこえ
舌のすぢがゆるんで正しくものがいへました

 26. 神

神をおもふて足りるこころは尊い
その他のことは小さく
しかしかへって輝しくおもへて来よう

 27. 基 督

彼は手をあげ
ひとつのとばりを掲げてくれる
私は安心して行きさへすればいいのだ

 28. 一 筋 の 心

波がひとつの川をながれてゆくように
一念に基督を呼んでゆこう

 29. 信 仰

基督は
病める者を癒したまふた
信ずるゆえに癒したまふた
私がもし癒えないなら
私の信仰がうすいのである
私はただひとすぢに基督を信仰しよう
かすかにではあるが
お前が全く信ずる時お前は癒る
こう言ってをられる基督の姿と声がきこえる
基督が私を見てゐて下さる以上
この病が一つの試みでない筈がない
基督が私を見てゐて下さる以上
この病が信仰によって癒してもらへぬ筈がない
私は一生懸命に
この病を癒して下さると信じかつ祈る
基督が癒して下さると信じないこそ罪である

●b)日常・自然嘱目の心境詩……9篇

 4. 春

雲がむくむく重なりあひ
うすく影になってゐるところもある

 5. 春

こいつは
もう小さい芽をもってゐる
季候はもうしっかりとここまで来たんだ

 11. 雪

雪がふってゐるとき
木の根元をみると
面白い小人がふざけてゐるような気がする
 (「生誕」昭和2年5月、表題「無題」)
 (『貧しき信徒』「無題(雪がふってゐるとき)」初稿)

 13. 雪

雪がふってゐるのでうす明るい
やっとの思ひで
すこしだけれどこんな風に物がわかったと思ったこと
そしてとりとめも無く嬉しかったこと
そんな事がいつかあったのではなかったらうか

 14. 雪

雪がふってゐる
さびしいから何か食べよう

 17. 草

こんな草なんか
なぜ人間は羨しいのだらう
ほかの者の云ふことなど少しも気にかけず
力いっぱい生きてゐるせいだらうか

 23. 雪

雪を見てゐると
たいていは
しんしんとまっ直ぐにふってくるが
たまに
横へいったり
上へあがったりするのもある

 24. 春

蒲団のなかで眼を醒まして
早く夜が明けるといい 早く明けるといいと思ってゐると
不図雀の声がひとこえ聞えた
そうすると急にいくつもいくつも雀が鳴き出した

 25. 春

雲は知らぬ間に消えてしまい
またいつのまにか浮んでゐる

●c)家庭生活・妻子への愛の詩……2篇

 8. 桃 子

いらいらして
桃子に拳骨をくれて
父っちやん こわいかと聞いたら
こわいと云ふ
いい父っちゃんかと聞くと
いい父っちゃんと云ふ
だらしの無い
そのくせとても敵わない考へだ

 19. 病 気

夜中に眼をさまし
桃子のかあいい顔をみて
くらあい気持ちになった

●d)闘病生活の心境詩……6篇

 7. 雀

夜が明ければいい
夜が明ければいいと思ひつめた暁方
元気のいい雀の声をきいて
うまいぞ
今日はからだの具合がいいぞとおもった

 10. 雪

いちめん雪がふってゐた
私は
雪のことを考へずに
よい天気のなかで遊ぶことばっかり考へてゐた

 12. 満 足

何んにも無くて
それで満足でなければ
ほかのことでは満足はない

 15. 病 身

からだが弱いと
ものを考へても
自分ながら痛々しいような考へかたをするが
私の気持を妨げるものは 何んにも無い

 18. 早 春

土手のところによりかかってゐた
そこいらの穏な陽をからだに吸ひとって
丈夫になってしまいたいとおもった

 20. 私

ながいこと病んでゐて
ふと非常に気分がよいので
人の見てないとこで ふざけてみた
 (「日本詩人」大正15年5月)
 (『貧しき信徒』「私」初稿)

(以上、遺稿詩稿・[ 欠題詩群 ]、全29篇)

(書誌・引用詩本文は筑摩書房『八木重吉全集』により、かな遣いは原文のまま、用字は現行の略字体に改めました。)
(以下次回)