ザ・テンプターズ・ファースト・アルバム (フィリップス, 1968) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

ザ・テンプターズ・ファースト・アルバム (フィリップス, 1968)

ザ・テンプターズ The Tempters - ファースト・アルバム First Album (フィリップス, 1968) :   

Recorded at Teiciku/Philips Studios,  Spring 1968 expect A1 & A5 in early 1968, A6 & B6 in Autumn 1967
Originally Released by テイチク/日本フィリップス・レコード Philips FS-8018, June 25, 1968
ディレクター=本城和治
全編曲=ザ・テンプターズ、本城和治
(Side 1)
A1. 神様お願い (作詞・作曲/松崎由治) - 2:14 *Single A-Side, Philips FS-1039, March 5, 1968, オリコン♯2
A2. サマータイム (D. Heyward, G. Gershwin、編曲・利根常昭) - 2:32
A3. ストップ・ザ・ミュージック (C.Westlike, M.Subotsky) - 3:02
A4. バディ・トールド・ミー (R. B. & M. Gibb) - 2:07
A5. 涙を笑顔に (作詞・作曲/松崎由治) - 2:18 *Single B-Side, Philips FS-1039, March 5, 1968
A6. 今日を生きよう (Album Version) (Mogol-Shapiro Julien/訳詞・なかにし礼) - 2:53 *Originally Single B-Side, Philips FS-1029, October 25, 1967
(Side 2)
B1. すてきなバレリ (Boyce-Hart) - 2:23
B2. ホリデイ (R. B. & M. Gibb) - 3:06
B3. いつも君の名を (作詞・作曲/松崎由治、編曲・利根常昭) - 2:57
B4. ブーン・ブーン (John Lee Hooker) - 2:56
B5. レディー・ジェーン (M.Jagger-K.Richards) - 3:52
B6. 忘れ得ぬ君 (作詞・作曲/松崎由治) - 2:49 *Single A-Side, Philips FS-1029, October 25, 1967, オリコン♯26
[ ザ・テンプターズ The Tempters ]
松崎由治 - leader, vocal, lead guitar
萩原健一 - vocal, harmonica
田中俊夫 - guitar, organ
高久昇 - bass
大口広司 - drums
(Original Philips "The Tempters First Album" LP Liner Cover, Gatefold Inner Cover & Side 1 Label)




 埼玉県大宮市出身の高校生たちが結成したロック・バンド、ザ・テンプターズのファースト・アルバムになる本作は10日前に発表された第3弾シングル「エメラルドの伝説 b/w 僕たちの天使」(Philips FS-1049, June 15)と並行して録音され、「エメラルドの伝説」のオリコンNo.1獲得の大ヒットとともに、半年前にデビューしていた大阪出身のザ・タイガース(デビュー・シングル「僕のマリー」は1967年2月、ファースト・アルバム『ザ・タイガース・オン・ステージ』は1967年11月)と並び、バンドをグループ・サウンズ第二世代(第一世代はザ・スパイダース、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、寺尾聰在籍のザ・サヴェージ、加瀬邦彦のザ・ワイルドワンズ)としてトップ・グループに押し上げた日本の'60年代ロックの名盤です。総合的なヒット実績はタイガースにおよびませんでしたが、テンプターズの強みはほぼ全シングル、アルバムの楽曲をリーダーの松崎由治が作詞・作曲を手がけ、またバンド自身のアレンジ、演奏で勝負していたことでした。本作もストリングス・アレンジを加えられた曲は第2弾シングル「神様お願い b/w 涙を笑顔に」のB面曲「涙を笑顔に」と、アルバム書き下ろしのB2「いつも君の名を」の2曲だけですが、どちらも松崎由治のオリジナル曲です。タイガースのほとんどの楽曲がメンバーの意に反してグループ・サウンズ・ブームの仕掛人すぎやまこういちの作・編曲のみのレパートリーでスタジオ録音され、メンバーのオリジナル曲どころかシングル、アルバムの演奏さえもスタジオ・ミュージシャン(主に渡辺プロの先輩バンド、元アウトキャストのメンバー)を代役にして強引に制作された(なのでタイガースのアルバムは、スタジオ・ミュージシャンによるシングル、スタジオ盤と、タイガース自身の演奏によるライヴ盤が交互に出されることになりました)のに対して、テンプターズのシングル、アルバムは松崎由治のオリジナル曲をバンド自身の編曲・演奏でリリースするのが日本フィリップスの担当ディレクター(プロデューサー)、本城和治氏の方針でした。

 もっともタイガースもヴェテラン・ロッカーの内田裕也氏にスカウトされ、内田氏が実質的にマネージャーを務めていたレコード・デビュー前は本格的なビート・グループを目指しており、いち早くザ・フーの「My Generation」をライヴ・レパートリーにするほど意欲的なバンドでしたが、渡辺プロが本腰を入れて売り出すと内田氏はスタッフから外されてしまい、タイガース専門の社宅が用意され盛大なプロモーションと殺人的なスケジュールを組まされていたため(タイガースの移動のために新幹線が臨時運行するほどでした)、タイガースのシングル、アルバムなのにレコーディング・スケジュールよりも営業が優先されるという過酷な環境を強いられていたのです。タイガースは出来上がったバック・トラックにヴォーカル入れと多少の本人たちの演奏を録音し、ライヴ用のリハーサルで新曲・カヴァー曲を練習するのがせいぜいでした。それを思えばオリジナル・アルバム7作中ライヴ盤3作(うち1作はLP2枚組、さらにカセットテープのみリリースのライヴ盤1作)で聴けるタイガース自身の演奏は十分実力派バンドと拮抗したものでした。ただしタイガースが自作曲中心でシングルやスタジオ・アルバムを制作できても、テンプターズの松崎由治ほど作詞・作曲の才能を発揮できるメンバーがいたかは、歴史上の「たら・れば」の話になってしまいます。

 本作も、テンプターズを見出した先輩スパイダースのデビュー・アルバムのように自作オリジナル曲中心で制作するか、当時の慣習でカヴァー曲(当時は欧米の最新ロックを演奏できるかでバンドの実力が判断されました)とオリジナル曲を半々にするか検討されたそうですが、平均年齢18歳(松崎、田中、高久が19歳、萩原、大口が17歳)のバンドの実力を示し、これから聴くファンの要望を満たすにはカヴァー曲を演奏した方が良かろうと、当時人気のストーンズ、ビージーズ、モンキーズらの曲を、スタンダード曲「サマータイム」、モダン・ブルースの「ブーン・ブーン」らとともに採り上げたそうです。松崎由治のオリジナル曲は全12曲中4曲になりましたが、セカンド・アルバム『5-1=0/ザ・テンプターズの世界』(Philips FS-8038, March 5, 1969)では全13曲中松崎由治のオリジナル曲が10曲、ポップス作曲家の村井邦彦のシングル用提供曲が3曲(「エメラルドの伝説」「純愛」「涙のあとに微笑を」)と、村井邦彦提供曲もテンプターズ自身による演奏とあって実質的に全曲オリジナル曲のアルバムを達成します。これはタイガースのサード・アルバムで、昭和43年(1968年)7月にリリースされ記録的な大ヒットとなったザ・フォーク・クルセダーズの『紀元貮阡年』(続いて9月にジャックスの『ジャックスの世界』が発表されました)に刺激されて制作され、1968年11月にリリースされたコンセプト・アルバム『ヒューマン・ルネッサンス』への回答でもありましたが、タイガースのスタジオ盤中最高傑作とされる同作もメンバー自身のオリジナル曲は全12曲中2曲にとどまり、全曲ディレクター(プロデューサー)のすぎやまこういちが指揮し、すぎやまこういち作曲5曲・村井邦彦作曲5曲(山上路夫作詞5曲・なかにし礼作詞5曲)とすぎやまこういち主導のアルバムでした。もっともテンプターズの全盛期は全14曲中13曲がブルース・ロック系カヴァーを占めるサード・アルバムのライヴ盤『ザ・テンプターズ・オン・ステージ』(Philips FS-8046, July 25, 1969)までで、バンドの人気の下降を懸念したプロダクションの方針から第4作『ザ・テンプターズ・イン・メンフィス』(Philips FX-8002, December 20, 1969)は単身渡米した萩原健一がアメリカ人スタジオ・ミュージシャンをバックにした萩原のソロ・アルバム(松崎由治のオリジナル曲は1曲のみ)になりました。1967年夏に渡米してモンタレー・ポップ・フェスティヴァルを観ていた萩原は、1969年の渡米でウッドストック・ロック・フェスティヴァルを観てくることになり、また同作は日本人アーティストがメンフィス録音した初のアルバムになりましたが、結果的に沢田研二とそのバック・バンド化させた渡辺プロのタイガース売り出し方針と同じ道をたどることになり、テンプターズのアイデンティティ自体を瓦解に導いてしまいます。翌1970年にはグループ・サウンズのブーム衰退で人気の急降下したテンプターズは12月に解散、翌月解散記念アルバム『ザ・テンプターズ・アンコール』(Philips FS-8125, January 25, 1971)を残します。しかし解散アルバムでも全12曲中ポップス作曲家提供のシングル曲4曲を除けば松崎由治のオリジナル曲7曲、松崎と先輩かまやつひろしの共作が1曲と、松崎由治はテンプターズの解散末期までかまやつひろし(スパイダース)、井上忠夫(大輔、ブルー・コメッツ)、加瀬邦彦(ワイルドワンズ)ら7、8歳年長のビート・グループ第一世代らと並び、ジャックスの早川義夫すら一目置く、'60年代の日本のロック・シーンでは抜群のバンド・リーダー、バンド内ソングライター、ギタリスト、ヴォーカリスト(テンプターズの半数の曲は松崎自身がリード・ヴォーカルをとっています)、アレンジャーでした。

 テンプターズは1965年(昭和40年)、大宮市の高校生の田中俊夫、高久昇らが結成し、間もなく松崎由治が加わり1966年3月には市内のダンスホール「大蔵」の専属バンドになり、セミプロ活動を始めました。当初バンドにはオルガン兼女性ヴォーカリストがいたそうですが、女性ヴォーカリストの体調不良の際に出演して、バンドのインストルメンタル演奏にブーイングを浴びた時に大蔵のアルバイト店員から飛び入り参加したのが当時15歳の萩原健一で、そのまま正式メンバーになりました。半年間「大蔵」の箱バンを勤めたテンプターズは同年10月には当時のディスコの名店、中川三郎ディスコティク東京恵比寿店のオーディションを受けて合格、同店専属バンドとして活動し、セミプロ時代から注目されるようになります。当初はほとんどのレパートリーがビートルズとストーンズ、アニマルズの曲だったといいます。そのうちメンバー2人が辞め、弟分のバンド(のちのゴダイゴのギタリスト、浅野克己も在籍していました)から萩原の友人のドラマー、大口広司を加えて全盛期メンバー5人(以後解散までメンバー・チェンジなし)の揃ったテンプターズは新宿店や有楽町店にも出演する人気バンドとなり、1967年4月にはスパイダースのリーダー、田辺昭知にスカウトされ、翌月には正式に田辺昭和が社長を務める渡辺プロ~堀プロ系列のスパイダクション(スパイダースの独立プロ)と契約、6月からはテレビ出演、8月には日劇ウェスタン・カーニバルに出演し、タイガースに次ぐ若手最有力バンドとして期待をかけられるようになります。そして満を持して発売されたのが、1967年(昭和42年)10月のデビュー・シングル「忘れ得ぬ君 b/w 今日を生きよう」の実質両A面シングルでした。A面は松崎由治作詞作曲のオリジナル曲でストーンズの「黒くぬれ!(Paint it, Black)」のリフから独自の曲に仕上げたもの、B面「今日を生きよう」はアメリカのフォーク・ロック・バンド、グラス・ルーツの大ヒット曲(全米最高位8位、原曲はイタリアのシンガー、モゴールの曲を英語カヴァーしたイギリスのバンド、ザ・ロークス)の日本語カヴァーですが、なかにし礼の優れた訳詞とともに萩原の訴求力のあるヴォーカル(アルバム・テイクはさらにヴォーカルを録り直しています)、松崎のリード・ギターを中心としたテンプターズの優れたアレンジでグラス・ルーツを越えるヴァージョン、ほとんどテンプターズのオリジナル曲と言っていいものになりました。グラス・ルーツのヴァージョン、ザ・ロークスのヴァージョンと聴き較べればインパクトの差は一目瞭然で、またテンプターズのライヴ・ヴァージョンではあ然とするほどの速いテンポで演奏されています。
◎Grass Roots - Let's Live For Today (Dunhill, May 1967) :  

◎The Rokes - Let's Live For Today (Piangi Con Me aka Cry with Me) (RCA Victor, 1967)

◎ザ・テンプターズ - 今日を生きよう (Single Version, 1967.10) :  

◎ザ・テンプターズ - 今日を生きよう (Live at 武道館, 1968.9.25) :  

 またテンプターズは萩原健一、松崎由治と声質まで双子のようにそっくりな二人のリード・ヴォーカリストのいるバンドでした。ザ・カーズのベン・オールとリック・オケイセックよりも似ているほどで、松崎がリード・ヴォーカルの曲では萩原はブルース・ハープを吹いています。デビュー・シングル「忘れ得ぬ君 b/w 今日を生きよう」も「忘れ得ぬ君」は松崎、「今日を生きよう」は萩原のリード・ヴォーカルでした。セカンド・シングル「神様お願い b/w 涙を笑顔に」はA面が萩原、B面が松崎のリード・ヴォーカルですが、初めてテンプターズを聴くほとんどのリスナーには聴き分けられないのではないでしょうか。本作で言えばA1、A3、A6、B1、B5が萩原のリード・ヴォーカル、A2、A5、B2、B4、B6が松崎のリード・ヴォーカルで、B3は萩原・松崎のツイン・ヴォーカル、A4は萩原に次ぐ人気のあったドラマーの大口広司が歌っています。バンド創設メンバーの高久昇は鋭いウィットに富んだキャラクターで、サイド・ギターとオルガンを兼任する田中俊夫はとぼけた天然ボケという、メンバーのキャラクターも万遍なく身長差まで絵になる(アルバム・ジャケットをご覧ください)アイドル性のあったバンドだったのが、内川清一郎監督のテンプターズ唯一の主演映画『涙のあとに微笑を』(東宝, 1969.3)で堪能できます。母子家庭の孤独な少年・萩原が学生バンド仲間テンプターズとともに友情を確かめあう他愛ない青春映画ですが、昭和40年代半ばの雰囲気が横溢し、のちの名優・萩原健一初の主演映画というだけでも記念すべき、愛らしいアイドル映画です。本作に戻ると、テンプターズは松崎のリード・ギター、田中・高久・大口の緩急のついたリズム・セクションによって非常に演奏力、オリジナリティも高く(自己流ながら萩原のブルース・ハープもバンドのカラーに色を添えています)、そこに松崎・萩原の青くさく若々しい声質と表現力豊かなリード・ヴォーカルが決定的な魅力となっています。ジョン・リー・フッカーのブルース曲「ブーン・ブーン」をアニマルズやスパイダースとも違う粘りのあるアレンジとファズ・ギターで演奏し、松崎の英語詞オリジナル曲「いつも君の名を」はガレージ・ロックからブルース・ロック~サイケデリック・ロックの過渡的な楽曲として本作の中でも際立った実験性を感じさせます。A面をA1とA6を萩原が歌う名曲で一巡し、B6を松崎が歌うデビュー曲「忘れ得ぬ君」で締めるのは、アナログLP時代のアーティストならではの入念な構成力を感じさせます。

 本作はガレージ・ロック=ビート・グループからブルース・ロックを経由してサイケデリック・ロックにいたる英米ロックの風潮をテンプターズ独自のオリジナリティによってまったく同時代に実現しており、次作『5-1=0/ザ・テンプターズの世界』とともに日本の'60年代ロックの達成点として、同じフィリップスの本城和治氏が手がけたスパイダース、ザ・ジャガーズ、ザ・カービーツと並んでテンプターズがグループ・サウンズの理想型と言えるバンドだったのを示してあまりあるアルバムです。むしろ本作は先入観のない欧米の'60年代ロック・マニアの間から先に再評価が始まったほどなのです。