八木重吉遺稿詩集『貧しき信徒』昭和3年(18)・手稿小詩集「野火」(後半51篇) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~
昭和2年(1927年)10月26日没(享年29歳)
大正13(1924)年5月25日、長女桃子満1歳誕生日に。
重吉26歳、妻とみ子19歳
 今回は全102篇を収める手稿小詩集「野火」(大正15年1月4日編)から、前回ご紹介した前半51編に続く、後半51篇をご紹介します。大正15年(1926年)1月4日編とは八木自身が手稿詩集に記載した日付ですが、必ずしも収録詩篇が「大正14年11月22日編」と記載のある前手稿詩集「晩秋」から大正15年1月4日までの6週間に創作されたとは断定できず、「晩秋」以前に創作された詩篇や、「大正15年1月4日編」以降に書かれて後から「野火」に編入された詩篇が混在している可能性もあります。また詩篇が創作順に並べられているかも断定できず、今回の後半51篇で全編を読んでも年末・正月について言及した詩篇はありません。また信仰詩篇はあちこちに散見されますが、クリスマスについても触れていません。八木はこれらの年中行事に無関心であったか、詩の材にするのは意図的に避けたものと思われます。

 八木の手稿詩集は発表の意図でまとめられたものではなく、また「野火」の前後の手稿詩集は、先に「詩・赤い寝衣」(大正14年11月3日・収録詩篇43篇、生前発表詩5篇・『貧しき信徒』初稿6篇)、「晩秋」(大正14年11月22日編・収録詩篇67篇、生前発表詩3篇・『貧しき信徒』収録詩篇初稿3篇)、この「野火」(大正15年1月4日編・収録詩篇102篇、生前発表詩7篇・『貧しき信徒』収録詩篇初稿7篇)の後には「鬼」(大正15年1月22日編・収録詩篇40篇、生前発表詩2篇・『貧しき信徒』収録詩篇初稿2篇)、「赤い花」(大正15年2月7日編・収録詩篇54篇、生前発表詩5篇・『貧しき信徒』収録詩篇初稿3篇)と大正14年(1925年)11月4日~大正15年(1926年)2月7日の3か月間に306篇を手稿詩集6冊にまとめています。「赤い花」の次の手稿詩集は「信仰詩篇」(大正15年2月27日編・収録詩篇115篇、生前発表詩9篇・『貧しき信徒』収録詩篇初稿9篇)ですが、これは内容からも、3月に結核発症第二期の診断が下されことを予期してまとめられたか、診断以降に急遽まとめられ日付自体が診察時にくり上げられた可能性があります。「信仰詩篇」以降八木の手稿は病床での「ノオトA」(大正15年3月11日)~「ノオトE」(昭和元年12月)だけになり、昭和元年12月は大正15年12月の改元直後ですから、同じ1926年です。

 八木の病状の推移をおさらいしておくと、大正14年(1925年)の年末から大正15年(1926年)初頭まで、この冬に体調不良を覚え始めた八木(勤務先の中学校の校舎が冷える、と洩らしていたといいます)は、大正15年1月には風邪で体調を崩し、2月には発熱から寝こんでしまいます。その風邪の受診から結核の疑いが持たれ、3月には結核第二期の発症が判明します。5月に八木は入院しますが回復は思わしくなく、7月からは学校長のはからいで通常勤務と同じ有給休職が認められ(この年は金融恐慌から未曾有の就職難で、大学卒業生の就職率30%以下だったそうですから、八木がいかに勤務先の中学校で信望が篤く、将来を嘱望されていたかがわかります)茅ヶ崎の自宅療養に入りますが、10月には発熱が止まらず病状が重篤化し絶対安静の状態になり、12月の昭和改元を挟んで1年間の重篤後、昭和2年(1927年)10月に逝去します。病床ですでに筆を執ることもままならなかった八木は逝去半年前の昭和2年4月~5月に登美子(1905-1999)夫人とともに公刊第二詩集『貧しき信徒』の編纂・推敲を行い、装丁まで指定しますが詩集本文全編の決定稿までは至らず、詩集『貧しき信徒』が上梓されたのは公刊第一詩集『秋の瞳』同様、又従兄弟の加藤武雄によって八木逝去4か月後の昭和3年(1928年)2月になりました。

 八木重吉の夫人・旧姓島田とみ子(登美子)は大正3年(1904年)出生届ながら実際は大正4年(1905年)生まれ、八木から家庭教師を受けていた頃から恋愛関係になり、大正11年(1922年)7月に18歳で八木に嫁ぎました。登美子夫人は平成11年(1999年)に逝去、享年95歳と長命でしたが、八木との遺児・長女桃子は大正12年(1923年)5月19日生まれ、八木逝去時には4歳5か月、八木没後11年目の昭和12年(1937年)12月29日に女子中学校2年生の満14歳5か月で結核性肺炎のため夭逝します。また長男陽二は大正14年(1925年)1月1日生まれ、八木逝去時には満2歳10か月で、八木没後14年目の昭和15年(1940年)7月9日、旧制中学校4年生の満15歳7か月でやはり結核性肺炎のため夭逝しています。未亡人となった登美子夫人は病院事務員として働き、昭和19年(1944年)から4児の寡夫となっていた歌人・吉野秀雄(1902-1967)家で吉野家の子息・子女の養育に当たり、戦後の昭和22年(1947年)に吉野秀雄と再婚します。吉野秀雄は八木重吉と八木の遺稿を守り抜いてきた登美子夫人を敬愛し、登美子夫人を継母とする4児とともに吉野家の家業として八木の遺稿整理を勤め、八木没後30年を経た昭和33年(1958年)に『定本八木重吉詩集』(彌生書房刊)をまとめました。『定本八木重吉詩集』の編輯後記末尾に吉野秀雄自身がそのいきさつを書いています。

「最後に秀雄の私事的感慨を一言することにしたい。わたしは生前の重吉もその詩業も知らなかったが、昭和一九年、前の家内に死なれ、四児をかかえて生活に苦悩していた頃、因縁をもってとみ子に助けられ、昭和二二年にこれと互いに再婚した。そしてとみ子の養育した子らが成長してここにこの『定本』の編輯に携わったことは、いささかその恩に酬いるものとして、内心に満足を覚えている。そしてまたわたしは重吉三〇歳の早逝と、彼の酷愛した桃子・陽二の夭折をあわれと思う情に堪えられぬ一方、重吉が純粋無垢な生命を短生涯に燃焼しつくし、およそなすべきことをなしとげた幸運な人であったという感想をも否むことができない。幸いにしてこの『定本』が江湖の支持をうけ、もろもろのよき魂に沁み入り、重吉在天の霊のいやましに安らかならんことを祈る。」
 (吉野秀雄『定本八木重吉詩集』「編輯後記」より)

 吉野秀雄が八木を「幸福な人であった」と言うのは、生涯澄明な心境を失わず、読者の心を浄化する力を持った詩人であり続けた詩人としての八木への賞讃でしょう。手稿詩集「野火」成立時には八木は翌月28歳、登美子夫人は21歳(この年22歳)、長女桃子は満2歳半、長男陽二は満1歳でした。「野火」後半は桃子・陽二を詠んだ詩篇から始まります。しかしこれらの詩篇から15年後には八木がもっとも愛した二児、桃子・陽二は相次いで夭逝してしまうのです。

 野 火
 大正十五年一月四日編

 桃 子

私は毎晩 桃子を抱いて寝る
桃子は私の小いさい乳をさわりながら寝いってしまふ
きっとすこしはよごれてゐるまるい頬をみて
こんな可愛いい児がどこにあらうかとおもひながら
いつかわたしも一所にねむりにおちる

 冬

木枯しが吹く
じっと物事を我慢してゐると
自分が磨かれてゆくような気がする

 寝 顔

あんなにぐづってゐたのに
陽二はもう寝てしまった
さもさも安心したといふふうに
やさしい顔をしてゐる
こんな顔をみてゐると
心がきよらかになる

 正 義

(こども)の心がたひらかなとき
天と地のように正義につよい
なんの顧慮もなくなんの打算もなく
にこにこしながら不正を破ってしまふ

 冬

美しく
投げやりな気持ちに冬をすごすと
世の中のことに どうしても動かぬところがある

 桐

開いた窓から
大きな桐の群だちが見える

黒い実をすこし着けたのもあり
うすい冬日のあかるさの中に枝はこまかくさし交されてゐる

 霜

寂しく住むと
霜はうつくしい

 庭

霜にひどくもまれた土は
うすい陽をうけて安らかにみえる
いつか播いてみた菜が
庭すみに消えのこってゐる

 罪

そのあかるさの中にたって
からだから血をたくらせてゐれば
美しいたましいになれるだらうか

 ぬ か る み 路

ぐしやぐしやにぬかるんでゐる
歩るきにくくって仕様がない
けれど ふと子供のときのことを考へてうれしかった

 霜

地はうつくしい気持ちをはりきって耐らへてゐた
その気持を草にも花にも吐けなかった
とうとう肉をみせるようにはげしい霜をだした
 (『貧しき新党』「霜」初稿)

 冬

たくましい姿からはなれ
うすい気持にたてこもった
冬の美しさを砕くことはできぬ

 母 の 顔

冬の部屋に坐ってゐたら
何もかもつまらなくなり
阿母さんの顔がみたくなった

 赤 い 色

思ひつかれ
いまは思ふことも無き眼に
子供の絵本にぬってある
赤い色のうれしさ

 冬 日

冬の日はうすいけれど
明かるく
涙も出なくなってしまった私をいたわってくれる
 (『貧しき信徒』「冬日」初稿)

 冬

冬の日向はぬくいが
日がかげると 冷え冷えとする
力無く椽にすわって考へてゐた

 妻

ひどい寒さにもまれきった
やさしい冬の陽が外にみなぎっている

妻は美しい横顔をみせ
しづかな障子ぎわにすらりと立ってゐる
 (すらりと→すんなり)

 赤 い 色

悔いくづれてゐると
あたりに散らばった赤いものがうれしい

 欅

ゆうべはひどい風だった
今朝はめづらしく霜がふらない
だんだん日ののきになった
ぬくい日ざしの中で
欅の白い幹のはだをみてゐた

 冬 陽

うつむいて歩るいてくると
うすい冬陽が 下駄のさきにおちてゐる
見ればずうっとどこまでも光が土にひろがってゐる
冬のおだやかな日に路をあるくのはたのしい

 落 日

日は沈みながら
雲を金いろにふち取ってゐる
なんといふ幼げな心をうたれる景色だらう

 冬 の 午 前

さっき桃子をつれて歩るいてきた
冬の道はあかるんで
石ころも子供も軽々とみえた
森のとこへいったらば
木をとほして
日がぴかーんと光ってゐた

 麦

麦は
青々と冬日のなかにみえる
朝のうちはじっと霜をかぶってゐたが
今はあかるい光をたのしんでゐる

 冬

冬は 疲れてゐる
冬は 貧しい
冬は うすうすと
美しさをもってゐて奪ふことができぬ

 葉

菜の葉は
いくら霜がふっても
平気で青々としてゐる

 炭 火

炭を
こんろへ積んで
だんだん真っ赤にするのは面白い

 枯 葉

ころころに枯れた葉を
まだくぬ木の枝はつけてゐる
風がくると 低い音をたてる

 落 日

大きく
真っ赤になっておちてゆく日をみてゐると
幼いきもちになる

 日 の 出

日の出をみると
何とも云へずすがすがしくなる

 木 枯

風は
ひゆうひゆう吹いてきて
どこかで静まってしまふ
 (『貧しき信徒』「木枯」初稿)

 冬

冬は
もののけじめが淡々しく
遠くの山をみたり
小鳥をみたりするのがおもしろい

 冬

寒むくってしようがない
ぴかーんと日が光ってゐる

 薄

薄はならんで
上を向いて風に吹かれてゐる

 桐

日はしづんでしまひ
うす暗がりに
桐の木がさびしくみえる

 冬

悲しく投げやりなきもちでゐると
ものに驚かない
冬をうつくしいとだけおもってゐる
 (『貧しき信徒』「冬」初稿)

 冬 の 日

冬の日は
空で弱々しげに光ってゐる
その光にさらされるのは楽しい

 冬 の 月

日も暮れきらぬのに
まっしろな月が井戸のうへに出てゐる

 夜

炭のおこる音をききながら
いろいろの考へが無くなってゆき
私が悪るかったとおもひつめるたひらかさ

 麦

霜柱のあひだに
うすい陽をうけて麦が青んでゐる
あんな柔い葉をしてよく生々としてゐる

 夕

日が沈むと
張りつめた気持ちがとれる
あかりが点いた
桃子は わたしのそばへ畏こまって
独りっことをいって温和しくしてゐる

 冬 の 川

日なたのちさい川は
微風のように なみうってゆく
冬に凝視められて美しい

 冬 の 陽

この 日
この 日
空から ひかり
あかるく
冬の私を 慰める

 野 火

赤い
光うらが もえ
冬の茅野をやいてゆく

 朝 飯

味噌汁のなかへ
霜にあってまっ青な菜っ葉をいれ
あったかい御飯をよそって
勿体ないとおもひながら おいしく食べた

 唐 辛 子

霜がひどくふって
唐辛子が 真っ赤になってゐる
あんまり 綺麗なので
子供がほしがって困る

 曲 馬 団

寒むい日だ
一匹の馬へ
一人の白粉をつけた
女の子が赤い着物をきてのり
ながい列をつくって
楽隊で景気をつけながら
曲馬団の広告があるいてゆく

 冬 陽

地におちた冬のくれがた近い陽は
やさしく小石をつつみ
私のゆく路をうすうすと明るませてゐる

 冬

夜ひとりで座り
ひる間みた
枯れ葉に冬陽をうけた山を胸にうかべ
いつくしみ深い顔のようにおもふてゐる

 夕

冬の夕ぐれは
空がさむそうだ
木や子供が淡々しくみえる
何をかんかへても
ぢきに あどけない物語めいてきそうだ

 悲

気まづい思ひでいっばいになり
勤めから帰ってきて
桃子をだきしめながら可愛くてたまらなかった

 祈

ゆきなれた路の
なつかしくて耐えられぬように
わたしの祈りのみちをつくりたい

(以上、手稿小詩集「野火」後半51篇)
 
(書誌・引用詩本文は筑摩書房『八木重吉全集』により、かな遣いは原文のまま、用字は現行の略字体に改めました。)
(以下次回)