八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~
(手稿小詩集「ことば(大正14年6月7日)」より〈あかんぼもよびな〉直筆稿)
これまで八木重吉の第二詩集にして、晩年の病床で編まれ、刊行は八木逝去4か月後になった遺稿詩集『貧しき信徒』の成立過程を見てきましたが、逝去半年前に病床で一応の編纂が終えられ、八木自身による装丁デザインも添えられた第二詩集『貧しき信徒』は生前発表詩篇を中心に編纂されており、発表の分布は、
・大正14年(1925年)4月~12月=62篇
・大正15年(1926年)1月~3月=28篇
・大正15年3月~昭和2年(1927年)の病床ノオトより=11篇(3月分6篇・12月分5篇)
・年代不詳(推定・発表誌書き下ろし)=2篇
――となり、全103篇中90篇が生前に各種の詩誌・新聞雑誌に発表されていたのが判明しました。八木重吉の2冊の詩集『秋の瞳』『貧しき信徒』は生原稿が現存せず、これは当時の慣習として生原稿そのものが印刷所に入稿され、組版後処分されたものと推定されます。同様の事態は戦後の昭和27年(1952年)に刊行された『中原中也全集』でも起こっており、清書原稿の複写を作成せず生原稿そのものに印刷指定を朱書きして入稿用原稿にされたため、生原稿の大半が破棄されるという事態を招きました。昭和13年(1938年)の『宮澤賢治全集』のように遺族が生原稿を保存して別に印刷入稿用原稿を作成し、生原稿が残っている方が例外的なので、八木重吉の場合はかえって没後55年の昭和57年(1982年)まで未発表だった多くの手稿小詩集に生原稿が現存し、生前発表詩篇や詩集刊行詩篇は生原稿が失われ、印刷された詩集、詩誌しか現存していないのです。うち詩集『秋の瞳』は八木自身の生前刊行なので、生原稿が失われていても、多少見られる明らかな誤植以外は八木が定めた決定稿として良いものですが、没後刊行詩集の『貧しき信徒』は装丁まで八木の指定通りとされますが、病状の悪化する逝去半年前にまとめられているために、本文や詩篇配列が必ずしも十分な推敲を経ていないのが、初めて手稿小詩集まで網羅収録した『八木重吉全集』(筑摩書房、昭和57年=1982年、全3巻)以前の八木没後の刊本、『八木重吉詩集』(山雅房・昭和17年=1942年7月刊)、『八木重吉詩集』(創元社・昭和23年=1948年3月刊)、『信仰詩集 神を呼ぼう』(新教出版社・昭和25年=1950年3月刊)、さらに増補改訂を経て834篇を集成した『定本 八木重吉詩集』(彌生書房・昭和33年=1958年4月刊)、同書刊行直後にさらに未発表詩篇(小詩集11冊)が発見され、360篇を収録した『<新資料 八木重吉詩稿> 花と空と祈り』(彌生書房・昭和34年=1959年12月刊)までで判明しています。
第二詩集『貧しき信徒』はほぼ9割が詩誌・雑誌既発表詩篇から成り、また八木が重篤の病状で編纂されたため、発表誌からの切り抜きに語句の修正を加えた原稿、清書原稿、さらに詩誌発表前の原稿とその修正稿が混在していたと考えられ、『八木重吉詩集』(山雅房・昭和17年=1942年7月刊)の段階で『貧しき信徒』期の詩篇は『貧しき信徒』とは異なる原稿から起こされており、戦後の『八木重吉詩集』(創元社・昭和23年=1948年3月刊)でもそれが踏襲されている詩篇と詩集『貧しき信徒』による定稿が混在しています。それは『信仰詩集 神を呼ぼう』(新教出版社・昭和25年=1950年3月刊)でも同様であり、『定本 八木重吉詩集』(彌生書房・昭和33年=1958年4月刊)では『貧しき信徒』の収録詩篇はほとんど詩集掲載型・雑誌発表型・手稿小詩集型など複数のヴァリアントがあるために、カッコや棒線、傍点によってヴァリアントを示す形で収録されています。『<新資料 八木重吉詩稿> 花と空と祈り』(彌生書房・昭和34年=1959年12月刊)は生原稿がそのまま発見されたため生原稿をそのまま底本としていますが、これは手稿小詩集からの選詩集のためヴァリアントの問題は含まないにせよ、八木自身が公刊を前提に編んだ詩集ではありません。『八木重吉全集』では『貧しき信徒』はなるべく初版詩集型を生かして、送り仮名や助詞の省略・補填など複数のヴァリアントのうちもっとも妥当な本文を採用していますが、八木重吉の詩のように文法的な破格も含んだ極端な短詩型詩人の場合には、結局詩人自身にしか何を決定稿としたかわからないのです。第一詩集『秋の瞳』が全編未発表詩篇で、大正13年(1924年)秋から大正14年(1925年)春まで半年以上をかけて全編清書原稿を揃えて成立した(もっとも清書生原稿は失われていますが)とほぼ断定できる場合と違って、『貧しき信徒』は結核重篤に陥って逝去する半年前までに編纂されていたとはいえ編纂過程としては第一稿の段階で中絶した詩集と考えられ、健康上可能であり生前刊行がかなったのであればさらに詩集本文の推敲や詩篇配列に見直しがあったと思われるだけに、八木自身に公刊詩集第二作という意図はあっても現行の『貧しき信徒』は実質的に未完詩集の段階で没後刊行されたと言えるものです。
そこで八木自身が生前に決定稿と見なした詩篇は、詩集『貧しき信徒』よりも、生前に詩誌・雑誌に掲載され、詩集『貧しき信徒』には採録されなかった29篇の詩集未収録・生前発表詩篇ということになります。八木は第一詩集『秋の瞳』(大正14年=1925年8月刊)の編纂完了時(大正14年3月)の手稿小詩集からは『貧しき信徒』には一篇も採らなかったので、『貧しき信徒』収録詩篇は大正14年4月以降の手稿小詩集収録詩篇から始まっています。そこで、『貧しき信徒』には未収録ながら大正14年4月以降に創作・詩誌雑誌発表された詩篇は、多くは『貧しき信徒』収録詩篇との題材重複や類案作品として割愛されながらも、八木重吉としては個別に独立した詩篇として発表型がそのまま定稿と見なされた作品群とする見解も成り立つものです。またこれらは生前発表されただけはある完成度が認められるもので、30篇弱の小詩集として詩集『貧しき信徒』の補遺詩篇に当たる読み応えを十分に備えたものです。八木重吉が新進詩人として詩作発表を行っていたのは生前わずかに大正14年(1925年)7月~昭和2年(1927年)10月の逝去(実質的には病状重篤化までの昭和2年5月)までの2年に満たない期間でした。その2年弱で八木重吉が創作した詩篇は約1,500篇、遺稿となった第二詩集『貧しき信徒』に収録されたのは103篇、『貧しき信徒』未収録の生前発表詩篇は29篇にすぎません。分量の上でも『貧しき信徒』収録篇数の1/3弱に当たるこれらの詩集未収録生前発表詩篇は詩篇には採択されなかったことで、かえって『貧しき信徒』を凝縮した独立性の高い補遺詩群とも読めるものになっているのです。また「初出不詳」となっている詩篇は手稿小詩集に初案のない書き下ろし発表詩篇と見られるもので、その比率でも全103篇中に年代不詳、発表誌書き下ろしと推定される2篇を含むに過ぎない『貧しき信徒』より直接読者を念頭に置いた、独立性の高い詩篇として書かれた詩篇と解釈される詩篇を多く含むのです。
八木重吉詩集『貧しき信徒』
昭和3年(1928年)2月20日・野菊社刊
[『貧しき信徒』未収録生前発表詩29篇 ]
●大正14年7月17日「読売新聞」4篇
いきどほり
わたしの
いきどほりを
殺したくなつた
(小詩集「桐の疏林」初出)
かけす
かけす が
とんだ、
わりに
ちひさな もんだ
かけすは
くぬ木ばやしが すきなのか、な
(初出不詳)
路
消ゆるものの
よろしさよ
桐の 疏林に きゆるひとすぢに
ゆるぎもせぬこのみち
(初出不詳)
丘
ぬくい 丘で
かへるがなくのを きいてる
いくらかんがへても
かなしいことがない
(初出不詳)
●大正14年8月「文章倶楽部」9篇、同月第一詩集『秋の瞳』刊行
椿
つばきの花が
ぢべたへおちてる、
あんまり
おほきい木ではないが
だいぶ まだ 紅いものがのこつてる
じつにいい木だ
こんな木はすきだ
(初出不詳)
心
死のうかと おもふ
そのかんがへが
ひよいと のくと
じつに
もつたいない こころが
そこのところにすわつてた
(小詩集「春のみづ」初出)
筍
もうさう藪の
たけのこは
すこし くろくて
うんこのやうだ
ちつちやくて
生きてるやうだ
(小詩集「春のみづ」初出)
春
ふきでてきた
と いひたいな
あをいものが
あつちにも
こつちにもではじめた
なにか かう
まごまごしてゐてはならぬ
といふふうな かんがへになる
(初出不詳)
顔
悲しみを
しきものにして
しじゆう 坐つてると
かなしみのないやうな
いいかほになつてくる
わたしのかほが
(小詩集「春のみづ」初出)
絶望
絶望のうへへすわつて
うそをいつたり
憎くらしくおもうたりしてると
嘘や
にくらしさが
むくむくと うごきだして
ひかつたやうなかほをしてくる
(小詩集「春のみづ」初出)
雲
いちばんいい
わたしの かんがへと
あの 雲と
おんなじくらゐすきだ
(小詩集「桐の疏林」初出)
断章
ときたま
そんなら
なにが いいんだ
とかんがへてみな
たいていは
もつたいなくなつてくるよ
(小詩集「桐の疏林」初出)
春
あつさりと
うまく
春のけしきを描きたいな
ひよい ひよい と
ふでを
かるくながして
しまひに
きたない童(コドモ)を
まんなかへたたせるんだ
(小詩集「春のみづ」初出)
●大正14年9月「文章倶楽部」2篇
原つぱ
ずゐぶん
ひろい 原つぱだ
いつぽんのみちを
むしやうに あるいてゆくと
こころが
うつくしくなつて
ひとりごとをいふのがうれしくなる
(小詩集「ことば」初出)
松林
ほそい
松が たんとはえた
ぬくい まつばやしをゆくと
きもちが
きれいになつてしまつて
よろよろとよろけてみたりして
すこし
ひとりでふざけたくなつた
(小詩集「ことば」初出)
●大正14年11月「詩之家」3篇
栗
あかるい、日のなかにすわつて
栗の木をみてゐると
栗の実でももいで
もつてゐたいやうな気がしてくる
(小詩集「しづかな朝」初出)
よい日
よい日
あかるい日
こゝろをてのひらへもち
こゝろをみてゐたい
(小詩集「よい日」初出)
山
あかるい日
山をみてゐると
こゝろが かがやいてきて
なにかものをもつて
じつと立つてゐたいやうな気がしてくる
(小詩集「よい日」初出)
●大正14年12月「近代詩歌」2篇
竹を切る
こどものころは
ものを切るのがおもしろい
よく ひかげにすわつて
竹をきりこまざいてゐた
(小詩集「よい日」初出)
とんぼ
ゆふぐれ
岡稲(おかぼ)はふさぶさとしげつてゐる
とんぼがひかつてる
おかぼのうへにうかんでる
(小詩集「ひびいてゆこう」初出)
●大正15年3月「詩之家」7篇、同月結核発症
冬
あすこの松林のとこに
お婆さんがねんねこ袢襦を着て
くもつて寒い寒いのに
赤い頭布の赤ん坊を負ぶつてゐるのがうすく見える
ほら 始終ゆすつてゐるだらう
あれにひき込まれそうにわくわく耐らなくなつてきた
(小詩集「鬼」初出)
朝
門松の古いのを庭隅へほつておいたら
雀がたくさんはいりこんでゐる
ひどい霜で奴等弱つてゐるな
(小詩集「赤い花」初出)
冬
真つ赤な子供が
どこかで素裸で哭いてゐる
そつと哭いてゐるがとても寄りつけない
(小詩集「赤い花」初出)
冬
外へ出てゐたが
明るいのがさびしくなり
家へはいつて来た
(小詩集「赤い花」初出)
冬
朝から昼
それから晩と
うつつてゆく冬の気持ちは
つい気づかずにしまふ位かすかではあるが
一度親しみをもつと忘れられない
(小詩集「麗日」初出)
冬
しづかな日に
ぼんやり庭先きの葉のない桜などみてゐたら
なんだかうつすらした凄い気持ちになつた
(小詩集「麗日」初出)
冬
桃子とふざけながら
たのしい気持でゐても
ときたま赤いような寂しさをみたとおもふ
(小詩集「鬼」初出)
●大正15年9月「詩之家」1篇、翌10月結核重篤化
暗い心
ものを考へると
暗いこころに
夢のようなものがとぼり
花のようなものがとぼり
かんがへのすえは輝いてしまう
(小詩集「日をゆびさしたい」初出)
●昭和2年5月「生誕」1篇
無題
藪田君が今日見舞に来てくれてうれしかつた
(小詩集「ノオトE」初出)
(引用詩篇の本文は筑摩書房版『八木重吉全集』に拠りました。)
(以下次回)