八木重吉・明治31年(1898年)2月9日生~
この八木重吉詩集の読解はあまりに書誌面の紹介に拘泥しているように見えるかもしれません。しかし八木のように生前あまりに詩人として世にでていた期間の短かく、自作解説や詩論を残さなかった詩人は、判明している作詩年表、発表形態を調べる以外に八木自身の創作過程と詩作意識を知る手段はないのです。逝去半年前に病床で編集され、出版は没後4か月後になった八木重吉の第二詩集『貧しき信徒』は生前発表詩篇を中心に編纂されており、
・大正14年(1925年)4月~12月=62篇
・大正15年(1926年)1月~3月=28篇
・大正15年3月~昭和2年(1927年)の病床ノオトより=11篇(3月分6篇・12月分5篇)
・年代不詳(発表誌書き下ろし?)=2篇
――となり、全103篇中90篇が生前に各種の詩誌・新聞雑誌に発表されていたのが判明しました。その90篇は前回に初出誌単位の編年順に、初出誌での発表型に復原して掲載しました。詩集『貧しき信徒』収録詩編の制作時期は第一詩集『秋の瞳』編纂完了後に始まり、晩年2年間の八木重吉の手稿は小詩集(病床ノオト)32冊分に及び、これに1~32と番号を振ると、小詩集25、26は未整理分で、32は生前発表された詩篇中小詩集に出典がないもので、総数では確認されただけでも1,215篇(小詩集17は全編重複により除外)に上ります。以上を再度一覧にしてみましょう。
[ 詩集『貧しき信徒』収録詩篇初出小詩集一覧 ]
1○詩稿 桐の疏林(大正14年4月19日編)詩48篇、生前発表詩4篇、『貧しき信徒』初稿1篇初出
2○詩稿 赤つちの土手(大正14年4月21日編)詩39篇、『貧しき信徒』初稿なし
3○春のみづ(大正14年4月29日編)詩8篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』初稿なし
4○詩稿 赤いしどめ(大正14年5月7日編)詩32篇、生前発表詩1篇、『貧しき信徒』初稿2篇初出
5○詩稿 ことば(大正14年6月7日)詩67篇、生前発表詩9篇、『貧しき信徒』初稿7篇初出
6○詩稿 松かぜ(大正14年6月9日)詩18篇、『貧しき信徒』初稿なし
7○詩稿 論理は熔ける(大正14年6月12日)詩37篇、『貧しき信徒』初稿なし
8○詩稿 美しき世界(大正14年8月24日篇、「此の集には愛着の詩篇多し、重吉」と記載)詩43篇、生前発表詩10篇、『貧しき信徒』初稿11篇初出
9○詩・うたを歌わう(大正14年8月26日)詩27篇、生前発表詩1篇、『貧しき信徒』初稿7篇初出
10○詩・ひびいてゆこう(大正14年9月3日編)詩21篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』初稿3篇初出
11○詩・花をかついで歌をうたわう(大正14年9月12日編、「愛着の詩篇よ」と記載)詩34篇、生前発表詩6篇、『貧しき信徒』初稿8篇初出
12○詩・母の瞳(大正14年9月17日編)詩24篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』初稿5篇初出
13○詩・木と ものの音(大正14年9月21日編)詩24篇、生前発表詩1篇、『貧しき信徒』初稿1篇初出
14○詩・よい日(大正14年月日)詩41篇、生前発表詩2篇、『貧しき信徒』初稿なし
15○詩・しづかな朝(大正14年10月8日編)詩40篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』初稿2篇初出
16○詩・日をゆびさしたい(大正14年10月18日編)詩34篇、生前発表詩7篇、『貧しき信徒』初稿6篇初出
17○雨の日(大正14年10月編、自薦詩集、推定約20篇・現存10篇、既出小詩集と重複)
18○詩・赤い寝衣(大正14年11月3日)詩43篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』初稿6篇初出
19○晩秋(大正14年11月22日編)詩67篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』初稿3篇初出
20○野火(大正15年1月4日編)詩102篇、生前発表詩7篇、『貧しき信徒』初稿7篇初出
21○麗日(大正15年1月12日編)詩32篇、生前発表詩6篇、『貧しき信徒』初稿4篇初出
22○鬼(大正15年1月22日編)詩40編、生前発表詩2篇、『貧しき信徒』初稿2篇初出
23○赤い花(大正15年2月7日編)詩54篇、生前発表詩5篇、『貧しき信徒』初稿3篇初出
24○信仰詩篇(大正15年2月27日編)詩115篇、生前発表詩9篇、『貧しき信徒』初稿9篇初出
25○[欠題詩群](大正15年2月以後作)詩29篇、生前発表詩3篇、『貧しき信徒』初稿3篇初出
26○[断片詩稿](推定大正14年作)詩15篇、『貧しき信徒』初稿なし
27○ノオトA(大正15年3月11日)詩117篇、生前発表詩6編、『貧しき信徒』初稿6篇初出
28○ノオトB(大正15年5月4日)詩19篇、『貧しき信徒』初稿なし
29○ノオトC(大正15年5月)詩5篇、『貧しき信徒』初稿なし
30○ノオトD(大正15年6月)詩24篇、『貧しき信徒』初稿なし
31○ノオトE(昭和元年12月)詩29篇、生前発表詩2篇、『貧しき信徒』初稿5篇初出
32○歿後発表詩篇(原稿散佚分)詩38篇、『貧しき信徒』初稿なし
●貧しき信徒(昭和3年=1928年2月20日野菊社刊)詩集初出詩篇2篇
――ここでまず俎上に上がるのが八木重吉が第一詩集『秋の瞳』後に生前に詩誌・雑誌類に発表した119篇の詩編のうち、第二詩集『貧しき信徒』には選出しなかった29篇でしょう(大正14年7月17日「読売新聞」発表の4篇は唯一第一詩集『秋の瞳』刊行前月ですが、これは新潮社が出版広告を出した際に広告を兼ねて掲載されたものでしょう)。執筆時期を示すために初出小詩集を併記しました。八木重吉は大正15年(1926年)3月に結核を発症、5月には休職して入院し、退院後の7月からは自宅療養に入りますが、10月には重篤化により絶対安静状態となり、翌昭和2年(1927年)10月に逝去しています。逝去までの1年半は29歳の生涯の最晩年だったのを念頭に置かれてください。またこれらの生前発表の詩集未収録詩篇で「初出不詳」としているのは小詩集に初型がないもので、発表誌書き下ろしとも推定される詩篇です。
[『貧しき信徒』未収録生前発表詩29篇 ]
●大正14年7月17日「読売新聞」4篇
いきどほり
わたしの
いきどほりを
殺したくなつた
(小詩集「桐の疏林」初出)
かけす
かけす が
とんだ、
わりに
ちひさな もんだ
かけすは
くぬ木ばやしが すきなのか、な
(初出不詳)
路
消ゆるものの
よろしさよ
桐の 疏林に きゆるひとすぢに
ゆるぎもせぬこのみち
(初出不詳)
丘
ぬくい 丘で
かへるがなくのを きいてる
いくらかんがへても
かなしいことがない
(初出不詳)
●大正14年8月「文章倶楽部」9篇
椿
つばきの花が
ぢべたへおちてる、
あんまり
おほきい木ではないが
だいぶ まだ 紅いものがのこつてる
じつにいい木だ
こんな木はすきだ
(初出不詳)
心
死のうかと おもふ
そのかんがへが
ひよいと のくと
じつに
もつたいない こころが
そこのところにすわつてた
(小詩集「春のみづ」初出)
筍
もうさう藪の
たけのこは
すこし くろくて
うんこのやうだ
ちつちやくて
生きてるやうだ
(小詩集「春のみづ」初出)
春
ふきでてきた
と いひたいな
あをいものが
あつちにも
こつちにもではじめた
なにか かう
まごまごしてゐてはならぬ
といふふうな かんがへになる
(初出不詳)
顔
悲しみを
しきものにして
しじゆう 坐つてると
かなしみのないやうな
いいかほになつてくる
わたしのかほが
(小詩集「春のみづ」初出)
絶望
絶望のうへへすわつて
うそをいつたり
憎くらしくおもうたりしてると
嘘や
にくらしさが
むくむくと うごきだして
ひかつたやうなかほをしてくる
(小詩集「春のみづ」初出)
雲
いちばんいい
わたしの かんがへと
あの 雲と
おんなじくらゐすきだ
(小詩集「桐の疏林」初出)
断章
ときたま
そんなら
なにが いいんだ
とかんがへてみな
たいていは
もつたいなくなつてくるよ
(小詩集「桐の疏林」初出)
春
あつさりと
うまく
春のけしきを描きたいな
ひよい ひよい と
ふでを
かるくながして
しまひに
きたない童(コドモ)を
まんなかへたたせるんだ
(小詩集「春のみづ」初出)
●大正14年9月「文章倶楽部」2篇
原つぱ
ずゐぶん
ひろい 原つぱだ
いつぽんのみちを
むしやうに あるいてゆくと
こころが
うつくしくなつて
ひとりごとをいふのがうれしくなる
(小詩集「ことば」初出)
松林
ほそい
松が たんとはえた
ぬくい まつばやしをゆくと
きもちが
きれいになつてしまつて
よろよろとよろけてみたりして
すこし
ひとりでふざけたくなつた
(小詩集「ことば」初出)
●大正14年11月「詩之家」3篇
栗
あかるい、日のなかにすわつて
栗の木をみてゐると
栗の実でももいで
もつてゐたいやうな気がしてくる
(小詩集「しづかな朝」初出)
よい日
よい日
あかるい日
こゝろをてのひらへもち
こゝろをみてゐたい
(小詩集「よい日」初出)
山
あかるい日
山をみてゐると
こゝろが かがやいてきて
なにかものをもつて
じつと立つてゐたいやうな気がしてくる
(小詩集「よい日」初出)
●大正14年12月「近代詩歌」2篇
竹を切る
こどものころは
ものを切るのがおもしろい
よく ひかげにすわつて
竹をきりこまざいてゐた
(小詩集「よい日」初出)
とんぼ
ゆふぐれ
岡稲(おかぼ)はふさぶさとしげつてゐる
とんぼがひかつてる
おかぼのうへにうかんでる
(小詩集「ひびいてゆこう」初出)
●大正15年3月「詩之家」7篇、同月結核発症判明
冬
あすこの松林のとこに
お婆さんがねんねこ袢襦を着て
くもつて寒い寒いのに
赤い頭布の赤ん坊を負ぶつてゐるのがうすく見える
ほら 始終ゆすつてゐるだらう
あれにひき込まれそうにわくわく耐らなくなつてきた
(小詩集「鬼」初出)
朝
門松の古いのを庭隅へほつておいたら
雀がたくさんはいりこんでゐる
ひどい霜で奴等弱つてゐるな
(小詩集「赤い花」初出)
冬
真つ赤な子供が
どこかで素裸で哭いてゐる
そつと哭いてゐるがとても寄りつけない
(小詩集「赤い花」初出)
冬
外へ出てゐたが
明るいのがさびしくなり
家へはいつて来た
(小詩集「赤い花」初出)
冬
朝から昼
それから晩と
うつつてゆく冬の気持ちは
つい気づかずにしまふ位かすかではあるが
一度親しみをもつと忘れられない
(小詩集「麗日」初出)
冬
しづかな日に
ぼんやり庭先きの葉のない桜などみてゐたら
なんだかうつすらした凄い気持ちになつた
(小詩集「麗日」初出)
冬
桃子とふざけながら
たのしい気持でゐても
ときたま赤いような寂しさをみたとおもふ
(小詩集「鬼」初出)
●大正15年9月「詩之家」1篇、翌10月結核重篤化(12月昭和改元)
暗い心
ものを考へると
暗いこころに
夢のようなものがとぼり
花のようなものがとぼり
かんがへのすえは輝いてしまう
(小詩集「日をゆびさしたい」初出)
●昭和2年5月「生誕」1篇
無題
藪田君が今日見舞に来てくれてうれしかつた
(小詩集「ノオトE」初出)
――詩集収録型を決定稿とした場合、編年順では前回初出誌ごとに発表順に分けて掲載した詩集『貧しき信徒』収録の生前詩誌・雑誌発表作90篇が次に来ますが、それは前回をご覧いただくとして、以上の詩集未収録詩篇の次に位置するのが昭和2年春に編集を終えた第二詩集『貧しき信徒』(八木が昭和2年10月26日に逝去後、昭和3年2月20日刊)で初めて発表された13篇です。これらにも出典の小詩集を併記しました。詩集巻末にまとめられた病床での無題詩は本来表題が考えられていたと思われますが、第二詩集『貧しき信徒』は病床での編纂のために清書原稿・雑誌切り抜きに手入れした詩篇、未定稿が混在していたとされ、またそのまま印刷所への入稿原稿となったため生原稿が全編散佚しており、八木の意図通りの決定稿・詩篇配列が確認できなくなっているのも注意が必要です。
●詩集『貧しき信徒』初発表13篇
秋
こころがたかぶつてくる
わたしが花のそばへいつて咲けといへば
花がひらくとおもわれてくる
(小詩集「花をかついで歌をうたわう」初出)
光
ひかりとあそびたい
わらつたり
哭(な)いたり
つきとばしあつたりしてあそびたい
(小詩集「花をかついで歌をうたわう」初出)
桐(きり)の木
桐の木がすきか
わたしはすきだ
桐の木んとこへいこうか
(小詩集「うたを歌わう」初出)
ひかる人
私をぬぐらせてしまひ
そこのとこへひかるやうな人をたたせたい
(小詩集「しづかな朝」初出)
木
はつきりと
もう秋だなとおもふころは
色色なものが好きになつてくる
あかるい日なぞ
大きな木のそばへ行つてゐたいきがする
(小詩集「赤い寝衣」初出)
顔
どこかに
本当に気にいつた顔はないのか
その顔をすたすたつと通りぬければ
じつにいい世界があるような気がする
(小詩集「赤い花」初出)
夕焼
いま日が落ちて
赤い雲がちらばつてゐる
桃子と往還(おうかん)のところでながいこと見てゐた
(小詩集「鬼」初出)
冬の夜
皆が遊ぶやうな気持でつきあへたら
そいつが一番たのしからうとおもへたのが気にいつて
火鉢の灰を均(な)らしてみた
(小詩集「鬼」初出)
病床無題
人を殺すような詩はないか
(小詩集「ノオトE」初出)
無題
息吹き返させる詩はないか
(小詩集「ノオトE」初出)
無題
ナーニ 死ぬものかと
児(こ)の髪の毛をなぜてやつた
(小詩集「ノオトE」初出)
無題
赤いシドメのそばへ
によろによろつと
青大将を考へてみな
(小詩集「赤いしどめ」→「ノオトA」→「ノオトE」初出)
無題
夢の中の自分の顔と言ふものを始めて見た
発熱がいく日もつゞいた夜
私はキリストを念じてねむつた
一つの顔があらはれた
それはもちろん
現在私の顔でもなく
幼ない時の自分の顔でもなく
いつも心にゑがいてゐる
最も気高(けだか)い天使の顔でもなかつた
それよりももつとすぐれた顔であつた
その顔が自分の顔であるといふことはおのづから分つた
顔のまわりは金色をおびた暗黒であつた
翌朝眼がさめたとき
別段熱は下つてゐなかつた
しかし不思議に私の心は平らかだつた
(小詩集「ノオトE」初出)
――さて、さらにもっとも問題になるのが小詩集31までのいずれにも属さず、遺稿を保存していた未亡人の提供によらず八木によって生前に同人詩誌の知友に託されていたとおぼしく、八木の没後に詩誌に発表されるもその後に生原稿が散佚してしまっている没後発表詩29篇です。八木は昭和2年春に『貧しき信徒』をかろうじてまとめ上げ、爾後は筆を執ることもままならなかったのは生前最後の同人詩誌への発表詩、
藪田君が今日見舞に来てくれてうれしかつた
(「無題」昭和2年5月発表)
――にもありありと現れていますが、『八木重吉全集』で発表誌単位・推定執筆年順に並べられたと思われる没後発表詩は後半になるほど未定稿の様相を顕してきます。連作詩には執筆年月が付されていますが、おそらく昭和2年初頭に詩集『貧しき信徒』の編纂をいったん終えた後に、改めて手稿からまとめ直されたものと見るべきでしょう。全集では原稿も散佚していれば生前の発表でもないこの29篇については配列の根拠を示していないので、推定執筆年月を添えますが、おそらく全集でも同様の判断のもとに発表順によらず、推定執筆年月順の配列にしたと思われます。いわばこの原稿散佚没後発表詩29篇は詩集「『貧しき信徒』以後」と言うべき痛ましい補遺になっています。これらは本来未定稿と見なすべきだった詩篇群でしょう。またこれらは原文も促音(つ)は小字、多くは表音かな遣いで書かれているのを注記しておきます。連作詩はほとんど詩の体裁をなさない、八木自身の使徒信条と言うべき信仰告白に始終しています。これらは八木重吉をキリスト教詩人・信仰詩人として論じる評者には重視されているものですが、八木の2冊の詩集『秋の瞳』『貧しき信徒』の愛読者でさえも、この歿後発表の信仰詩編から詩を読む歓びを感じるのは難しいのではないでしょうか。
[ 歿後発表詩(原稿散佚分) 29篇 ]
●昭和3年3月「生誕」1篇
不可思議
ふかしぎが
生まれたらば
ひざまづいて
おがみたい
ああ かがやいてゆく
はるのこころ
(推定大正14年4月)
●昭和3年3月「生活者」1篇
愛
愛がふってくる
愛がふってくる
うたを歌わう
(推定大正14年8月)
●昭和10年11月「エクリバン」3篇
梧桐
あを桐の みきを そっとなぜ
その しづけさを 分けてもらわうとする
(推定大正14年8月)
花火
はなびが
するどく うちあがった
おもしろい 風船も でず
もく もくと
けむだけが しろく あがった
死のいたみを
こっそりと うれしむ あき ひるさがり
(推定大正14年8月)
冬
おもへば
むしも死にたえし ふゆの夜である
(推定大正14年11月)
●昭和3年3月「生活者」連作19篇
○
命は糧よりまさると書いてある
○
私とは何だらう
私を無くした気持は楽で清々してゐる
○
一番よいものをすぐつかめば
あとは一人手にわかって来そうだ
○
ひとりでに
楽しい気持がこみあげてくる
○
ひとに褒められて嬉しいのは
きっとあとにいやな気持がのこる
そして自分が賤しくなったようなきがする
少しでもひとにかゝわらずにでてくるうれしさは
ほんのわづかでも清々して力が入ってゐる
○
概念で云ひさへしなければ
抽象も尊い
○
神を肉体があるように感じたい
そしてそのまゝ云ひたい
○
明けても暮れても神のことをおもひ
うっとりする位好きになりたい
○
私のそばに
イエスがゐるように思へる時は
力づよい
○
室の中に
イエスがゐるようにおもへる
ときほど力づよい時は無い
○
私を忘れれば尚ほいい
イエスをおもふだけに
なってしまへばいい
○
神は愛である
神が愛の原理であるわけでは無い
神の手、足、その動き
神の顔、その瞳
すべてが愛である
神のことを愛といふのだ
神のすべてを讃称して愛といふのだ
神が人間を愛するから
神が愛であるのではない
神は元々愛である。
愛は神の外には完いものは無いのだ
愛は即ち神なのだ。
○
神を愛せぬ私
人を愛せぬ私
それは本当の私でないから
要らない
○
望が無くなってしまふ
夜歩いてゐたらば
月がうれしかった
いくども振り返へって見あげた
○
他のことが
皆駄目だとはっきり思ってしまふと
月を見てゐることがうれしい
子供たちの顔も可愛いい
机の上の桃の花にも心をうちこめる
○
桃はしぼみ初めても
上の枝には青い葉をつけながら
瓶にささってはり切った気持で咲いてゐる
○
神に帰へり
神をおもふ心
これを奪うものは無い
○
神をおもふて足りる
神を敬ふて足りる
それは大いなる技だ
○
女女しいと云へば足りる
分らないと云へば足りる
しかしなほ進まうとする
(一九二五―一九二六)
(推定大正14年~大正15年/昭和元年初稿、推定昭和2年整理)
●昭和3年4月「生活者」14篇
信 仰 日 記
○
神さま
あなたの御栄えのため
悩みの焔の中に世界に散りし
さまざまの信仰者の行蹟をもいつの日にか知らしめたまへ
かくて
わが弱き信仰をむちうち
われに神の力をみさせたまへ
○
ああ俺れは駄目だ
おれは世に敗けた
人の嘲けりの的だ
こう心から寒寒とおもふたとき
そしてあなたをふり仰いだとき
あなたは前よりも近くゐたまひました
○
神さま
聖霊のはたらきをたまひ
わがたましひを砕き
あたらしき芽
あたらしきたましひをおこしたまへ
○
朝より寝るまで
寝ねて夢にも
あなたの御ひかりにおつつみください
あなたの御顔をかがやかせたまへ
○
望みを此の世に失へる日
さぶしく
心いらだたしく
されど
心の底に潔きもの見ゆ
心うすくうるわし
○
神よ
神よ
ただ心おどらせたまへ
心もえあがらせたまへ
○
神よ
頭をたれ
むなしきことを思わせたまふな
ひたむきに
神を信仰し
こころ
燃えあがらせたまへ
○
われ
日に日に
此の世の
さかえを離れ
日に日に
神の国の
ただひとつの
さかえをもとめん
○
父よ
世に捨てられし者をとり
いとたかくあぐる父はほむべきかな
ひくきをあげ
たかきをくだく
神のみこころはふかきかな
○
父よ
弱きもののみをたすけ
この世のたかき者をかならず打つ
父のみはからひの深きをたたへむ
○
父よ
われを独りにあらせ
独りにて平らかならしむる者
神のみことばの外にあらず
○
父よ
ふしぎなる
聖霊のちからよ
われにあるごとく
父にあるごとく
ふしぎなるちからよ
われを
父につれゆくめぐみよ
わが魂のうちに芽ざしたる
ただひとつ
罪なき芽よ
○
父よ
火のごとく
信ぜしめよ
もえしめよ
父よ
恵みの
鞭をもてうちたまへ
父よ
父よ
みかほをかくし給ふな
父よ
父を信ぜれば足れり
○
神よ
つかれ
また
伏し
力なく
されど
神にのみすがらんと
味気なく
人にも交らず
語らず
いつの日か
いつの日かと
あきらかなる日のみまつなり
(一九二五年十二月三日―八日)
(推定大正14年12月初稿、推定昭和2年整理)
(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)
(以下次回)