高橋新吉「人魚」(詩集『空洞』昭和56年より) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

高橋新吉・明治34年(1901年)1月28日生~
昭和62年(1987年)6月5日没
詩集『空洞 -ZEN POEMS-』
昭和56年(1981年)2月15日・立風書房刊

 人魚

光を薙(な)ぎ仆(たお)
傾いた女を水に浮かべる
魚が胴体に斜めに密着する
女はうごかない
そのままの体勢で魚は泳いでいる
女は何も孕んでいるのではない
鰭と尾が伸びる
頭髪の若布(わかめ)が波にゆれて
星座を蛸にする
仮面の落日の美しさ
半島と湾(いりうみ)と島々を皮膚の下に隠している
寝台と一つの部屋しか女の視野にはない
ナポリの沖には人魚が唄っている
女は神と交尾する
永劫の歳月が流れる
猥らな歴史は人魚の羽撃きで消滅する
地殻の変動で魚の化石が発掘される
女の下半身は冷凍のマグロで
デパートの地階で売られている
土を握りつぶし
畑も家屋も街路樹もビルも
地上のものすべてを焼いて煉瓦にする
焦げた種は芽を出すことはない
女は燃えさしとなって
卵を産まなくなった
風は遠くで過去に向かって吹いている
人魚は原潜に乗り組んで上陸する
獅子にまたがる謎のスフィンクス
女は馬の背に蹲(うずくま)
恐竜は白亜紀で全滅する
人間が女から生まれるとは限らない
天気とおなじく千変万化する女
凡ゆる生物の本能を内臓に秘めている
女は映像を歪め立体化するレーザー光線
人類の生死を柔らかい指で掌握している
大陸間弾道ミサイルが地球を破壊する
鳥は煙となって飛び去った
人魚は木星の海へ旅立つ

(詩集『空洞』昭和56年=1981年より)

 本作は初出誌が判明しませんが、昭和56年(1981年)2月刊の詩集『空洞 -ZEN POEMS-』に収録され、前詩集『残像』が昭和51年(1976年)6月刊ですから昭和51年~昭和55年(1980年)の間に創作された作品でしょう。高橋新吉(1901-1987)の70代後半の作品です。高橋新吉の詩は公刊された21歳の第1詩集『ダダイスト新吉の詩集』(大正12年=1923年2月刊)からほとんど発想の変化はなく、警喩(アフォリズム)的な短詩かアミニズム的長詩に分かれるので、この「人魚」は典型的なアミニズム詩の系譜に含まれます。20歳の頃の詩の発想と80歳の詩の発想にほとんど変化がないというのは大した一貫性で、大正10年と昭和55年に60年間あまりの開きがありながら、80歳になっても20歳の頃と変わりのない情熱で詩を書けたのが高橋新吉の強みでした。それでいて「人魚」は20歳の詩人には容易に書けない柔軟性と豊かな想像力に満ちた詩です。人魚というと中国古来の伝統ではその肉には不死の力があるということになっていますし、この詩に見られる女性の神秘化はあくまで男性視点で性差別的で古い、とする見方もあるでしょう。しかし高橋新吉の発想はそういうものではなく、古代中国以来、古代西洋絵画以来の普遍的な人魚のイメージを編み上げてデパートの刺身売り場から木星の海にまで想像力を広げています。この詩の仏頂面のユーモアは大陸的に晴れ晴れとして湿っぽさのないもので、国語教科書的な日本語の美を大らかに笑い飛ばす自由さを謳歌しています。高橋新吉を慕い長命に恵まれなかった中原中也に訪れなかったのはそうした境地でした。こういう詩を読むと、高橋新吉のような遠慮会釈のない長生きも悪くないものだという気がします。