三好達治詩集『測量船』昭和5年(1930年)・その5(先行詩人たちとの比較) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

三好達治<明治33年=1900年8月23日生~
昭和39年=1964年4月5日没>
昭和33年(1958年)、58歳
詩集『測量船』第一書房「今日の詩人叢書」
第二巻、昭和5年12月20日刊(外箱)
書籍本体
三好達治揮毫色紙
 三好達治の第1詩集『測量船』は、それ以後の現代詩の基礎的な発想・文体を作ったことでほとんど島崎藤村の『若菜集』(明治30年=1897年刊)以来の詩的改革と言ってよく、三好に先立つ高村光太郎、萩原朔太郎による口語自由詩の確立の業績すら過去のものにしてしまったほどの詩集になった――とはこれまでも何度となく強調してきました。ただし誤解を避けたいのは、決してそれゆえに『測量船』を日本の現代詩で最上にして唯一無二の詩集であるとは称揚できない、ということです。

 そこで今回は三好に先行する口語自由詩の詩人と、三好と近い環境にいた同世代か少し若手になる詩人たちを、『測量船』の特色には西洋詩(三好の場合はフランス近代詩)の消化があり、また散文詩の比重が高いことからまず口語自由詩、そして西洋詩の詩法の導入と散文詩の両面から『測量船』と比較することで、必ずしも『測量船』は現代詩全般の規範にはならない、という事情をたどりたいと思います。
 
 やはりまず見るべきは三好の師であった萩原朔太郎(1886-1942)でしょう。第1詩集『月に吠える』(大正6年=1917年刊)のうちでも口語自由詩に着手した初期の1篇ですが、すでに独自の発想とスタイルを持つ見事な作品です。

 殺人事件
 萩原朔太郎

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつき上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路(よつつじ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。

(大正3年=1914年9月「地上巡禮」)

 萩原は第2詩集『青猫』(大正12年=1923年刊)ではより息の長く柔軟な文体に作風が移りますが、表題作はまだ第1詩集刊行時の創作なので過渡的な作品です。それでもなお魅力的なのは、掲げたテーマにすべてを集中させる把握力の確かさゆえでしょう。

 青猫
 萩原朔太郎

この美しい都会を愛するのはよいことだ
この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ櫻の竝木
そこにも無数の雀がさへづつてゐるではないか。

ああ このおほきな都会の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を恋しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。

(大正6年=1917年4月「詩歌」)

 日本の口語自由詩の詩人でもっとも早かったグループの詩人には、海水浴中溺れた詩友・今井白揚を助けようとしてともに溺死し短い生涯を終えた悲運の詩人、三富朽葉(1889-1917)がいました。萩原より3歳年下の朽葉は萩原が大正2年(1913年)に活動を始める3年も前、また萩原が口語詩を書き始めたのは大正3年(1914年)ですから4年前に、こんな口語自由詩を発表しています。

 夕暮の時
 三富朽葉

夕暮の街が
暗い絵模様を彩る時、
人々が淡い影を引いて
舞踏するやうに過ぎて行く、
いつしらず、自分は
闇を慕うて来たかのやうに陥る、
冷たく黒い焔を燃す
冬の夜の吐息の中。

(明治43年=1910年2月「新潮」)

 一読して気づくのは発想の平凡さと、まだ行分け散文でしかないような文体の単調さですが、石川啄木(萩原と同年生まれ、1886-1912)がようやく口語自由詩の成功作「心の姿の研究」連作を発表したのが明治42年(1909年)12月ですから朽葉も先駆的な業績を残した詩人と言えるのです。次の作品は、テーマはすでに萩原の「青猫」を予告するものです。

 のぞみ
 三富朽葉

私は雑踏を求めて歩く、
人々に随つて行きたい、
明るい眺めに眩惑されたい、
のぞみは何処にあるのであらう、
群集の一人となりたい、
皆と同じく魂を支配したい、
荒い渇きに嘔(むか)ついて、
私は雑踏を求めて歩く。

(明治43年=1910年2月「新潮」)
 
 また、朽葉の西洋詩的発想の消化と都会的で柔軟な抒情性は明治の新体詩とははっきり異なっており、一見平凡な中にも口語自由詩の時代の到来を導くだけの役割は果たしたのです。
 
 黄昏の歌
 三富朽葉

窓の外に、
黒い木の枝が葡つてゐる、
屋根の雪が溶けて、
単調な雫の、
絶えず何処かへ
(めぐ)り旋り行くやうな響……
この家の
蒼い、蒼い幻惑の底に、
私は眠りを窺つてゐる、
周囲(まはり)の壁をひそかに飾つて
閃く星を夢見てゐる。

(明治43年=1910年2月「新潮」)

 啄木の晩年の口語自由詩を含む『啄木遺稿』(大正2年=1913年刊)とともに、画期的な口語自由詩の詩集となったのが高村光太郎(1883-1956)の第1詩集『道程』(大正3年=1914年刊)でした。同詩集や後の『猛獣篇』『智恵子抄』『典型』の作品は名高いので、代表詩集から洩れたさりげない佳品を拾ってみます。

 真夜中の洗濯
 高村光太郎

闇と寒さと夜ふけの寂寞とにつつまれた風呂場にそつと下りて
ていねいに戸をたてきつて
桃いろの湯気にきものを脱ぎすて
わたしが果しない洗濯をするのは その時です。
 
すり硝子の窓の外は窒息した痺れたやうな大気に満ち
ものの凍てる極寒が万物に麻酔をかけてゐます。
その中でこの一坪の風呂場だけが
人知れぬ小さな心臓のやうに起きてゐます。

湯気のうづまきに溺れて肉体は溶け果てます。
その時わたしの魂は遠い心の地平を見つめながら
盥の中の洗濯がひとりでに出来るのです。
氷らうとしても氷よりも冷たい水道の水の仕業です。

心の地平にわき起るさまざまの物のかたちは
入りみだれて限りなくかがやきます。
かうして一日の心の営みを
わたしは更け渡る夜に果しなく洗ひます。

息を吹きかへしたやうな鶏の声が何処からか響いて来て
屋根の上の空のまんなかに微かな生気のよみがへる頃
わたしはひとり黙つて平和にみたされ
この桃いろの湯気の中でからだをていねいに拭くのです。

(大正11年=1922年4月「明星」)
 
 こうした力みのない詩を書いても高村の詩は名人の一筆書きの観があります。また独身男の洗濯を題材とする発想そのものに斬新さがあります。同時発表のもう1篇も素晴らしい逸品です。

 下駄
 高村光太郎

地面と敷居と塩せんべいの箱だけがみえる。
せまい往来でとまつた電車の窓からみると、
何といふみそぼらしい汚らしいせんべ屋だが、
その敷居の前に脱ぎすてた下駄が三足。
その中に赤い鼻緒の
買ひたての小さい豆下駄が一足
きちんと大事相に揃へてある。
それへ冬の朝日が暖かさうにあたつてゐる。

(大正11年=1922年4月「明星」)

 萩原が夢想の人なら高村は眼の人だったのがわかります。また、高村が陥りがちな主義主張と離れた掛け値なしの絶唱と言えるのは、

 母をおもふ
 高村光太郎

夜中に目をさましてかじりついた
あのむつとするふところの中のお乳。

「阿父(おとう)さんと阿母(おかあ)さんのどつちが好き」と
夕暮の背中の上でよくきかれたあの路次口。

鑿で怪我をしたおれのうしろから
切火をうつて学校へ出してくれたあの朝。

酔ひしれて帰つて来たアトリエに
金釘流のあの手紙が待つてゐた巴里の一夜。

立身出世しないおれをいつまでも信じきり、
自分の一生の望もすてたあの凹んだ眼。

やつとおれのうちの上り階段をあがり、
おれの太い腕に抱かれたがつたあの小さなからだ。

さうして今死なうといふ時の
あの思ひがけない権威ある変貌。

母を思ひ出すとおれは愚にかへり、
人生の底がぬけて
怖いものがなくなる。
どんな事があらうともみんな
死んだ母が知つてるやうな気がする。

(昭和2年=1927年9月「炬火」)

 ここで散文詩という形式で『測量船』の収録諸篇と比較できる作品を探してみましょう。やはり最初に見るべきなのは萩原朔太郎の散文詩です。萩原は「情調哲学」「アフォリズム」「新散文詩」とさまざまに呼んでいた散文断章集を大正11年(1922年)刊の『新しき欲情』を皮切りに生涯に4冊発表しましたが、昭和14年(1939年)刊の自選詩集『宿命』では抒情詩70篇とともに散文断章から70篇を散文詩として再録しました。まずボードレール風の(つまりポー的でもある)奇想による1篇を引きます。

 死なない蛸
 萩原朔太郎

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
 だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臓の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
 かくして蛸は、彼の身体全体を食ひつくしてしまつた。外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(しほみづ)と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は実際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠に"そこに"生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい欠乏と不満をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。

(昭和4年=1929年10月刊『虚妄の正義』収録)

 三好の『測量船』の散文詩のマゾヒズムがナルシシズムと表裏一体なのに対して、萩原の場合は骨身に染みる痛切さがあります。次の、チャールズ・ラムの『エリア随筆』の、存在しない子供の夢について語った幻想的エッセイを思わせる1篇は、おそらく萩原全作品でももっとも痛々しいもので、詩集『氷島』と同じ萩原自身の自伝的題材を詠んで『氷島』1冊を凝縮したような純粋な悲しみを伝える作品です。

 父と子供
 萩原朔太郎

 あはれな子供が、夢の中ですすり泣いて居た。
「皆が私を苛めるの。白痴(ばか)だつて言ふの。」
 子供は実際に痴呆であり、その上にも母が無かつた。
「泣くな。お前は少しも白痴(ばか)ぢやない。ただ運の悪い、不幸な気の毒の子供なのだ。」
「不幸つて何? お父さん。」
「過失のことを言ふのだ。」
「過失つて何?」
「人間が、考へなしにしたすべてのこと。例へばそら、生れたこと、生きてること、食つてること、結婚したこと、生殖したこと。何もかも、皆過失なのだ。」
「考へてしたら好かつたの?」
「考へてしたつて、やつぱり同じ過失なのさ。」
「ぢやあどうするの?」
「おれには解らん。エス樣に聞いてごらん。」
 子供は日曜学校へ行き、讃美歌をおぼえてよく歌つてゐた。
「あら? 車が通るの。お父さん!」
 地平線の遠い向うへ、浪のやうな山脈が続いて居た。馬子に曳かれた一つの車が、遠く悲しく、峠を越えて行くのであつた。子供はそれを追ひ馳けて行つた。そして荷車の後にすがつて、遠く地平線の尽きる向うへ、山脈を越えて行くのであつた。
「待て! 何処(どこ)へ行く。何処(どこ)へ行く。おおい。」
 私は声の限りに呼び叫んだ。だが子供は、私の方を見向きもせずに、見知らぬ馬子と話をしながら、遠く、遠く、漂泊の旅に行く巡礼みたいに、峠を越えて行つてしまつた。

「歯が痛い。痛いよう!」
 私が夢から目醒めた時に、側(そば)の小さなベツトの中で、子供がうつつのやうに泣き続けて居た。
「歯が痛い。痛いよう! 痛いよう! 罪人(つみびと)と人に呼ばれ、十字架にかかり給へる、救ひ主(ぬし)イエス・キリスト……歯が痛い。痛いよう!」

(昭和10年=1935年10月刊『絶望の逃走』収録)

 再び三富朽葉の作品を取り上げます。朽葉は生前刊行詩集がなく、没後10年近く経って刊行された全集『三富朽葉詩集』の大半は未発表作品と日記・書簡・翻訳で占められていました。「詩と詩論」主宰者の春山行夫も朽葉を現代詩最初の自覚的詩論を持った詩人と評価し、中原中也は日記に「日本に詩人は5人しか居ない」と岩野泡鳴、佐藤春夫、朽葉、高橋新吉、宮澤賢治の5人を上げています。朽葉は日本初の口語文によるボードレール、ランボー、マラルメの翻訳者でもありました。

 魂の夜
 三富朽葉

 もはや秋となつた。やがて此の明るい風物に続いて、鴉の群が黒い霧のやうに灰色の空を飛び散る、鬱陶しい冬が来るであらう。
 四季と群集との中にあつて、脆く苦い、また物怯ぢする私の生命をば運命は異様に麗しく飾つた。私は常に感性の谷間(たにあひ)を彷徨(さまよ)つて空気から咽喉(のど)へ濃い渇きを吸つた。又、夢魔に圧(うな)されるやうな私のか碧い生活の淵にも、時々幽妙な光りが白んで煌いた。幽玄と酷薄との海に溺れて、私の紅い祈祷と生命の秘鍵とは永遠に沈み入るであらう。
 秋の夜の長い疲労の後、私は眠られぬまま、とりとめのない、やや熱に浮かされたやうな物思ひに耽つてゐた。

 私は何処とも知れぬ丘の上に、ゆるやかなマントオに身を包ませて、土塗れのまま横たはつてゐる。眼の上には一旋の黒い旗がどんよりと懸かつてゐて、その旗は夏の白日(まひる)の太陽の耀くやうに烈しく私の額を照らした。

 私は薄ら明りの高窓から海底のやうな外を覗いた。遠方にもう夜が静かに紅い翅を伸(の)し広げ、蒼い瞳を見開いてゐる。私の唯一の宝はおもむろに彼方の夜の中に掻き消えてしまつた。

 泉の周辺(ほとり)に色や匂ひが一杯に溢れてゐる。その傍(かたはら)を獣(けだもの)は一匹ずつ、ひとは一人ずつ、長い間(ま)を置いて走る。獣は光りの如く飛び、人は悲鳴を挙げた。いつまで見てゐても影は一つづつであつた。

 私は何といふこともなく涙を落とした。そして《愛》に対する消し難い悲嘆に襲はれた。

 眼が覚めると、もう朝であつた!雨の音と、そして、例えば牢獄(ひとや)の中へ僅かに射し入るやうな薄白い光線とが取り乱した身の周囲(まはり)に雫(こぼ)れてゐる……

(明治44~45年=1911~12年執筆、生前未発表、大正15年=1926年10月刊『三富朽葉詩集』収録初発表)

 中原の年長の親友(もっとも中原は晩年に絶交されましたが)だった夭逝詩人、富水太郎(1901-1925)にも『三富朽葉詩集』刊行前に類似した題材の散文詩があります。

 秋の悲歎
 富永太郎

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。
 私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅(あかゞね)色の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
 私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習ひであつた……
 夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞ひだを、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状体に触れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか? 私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空気を憎まうか?
 繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノミー)をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。

(大正13年=1924年12月「山繭・創刊号」)

 三富朽葉の「魂の夜」、富永太郎「秋の悲歎」がともに、フランスの象徴派詩人ステファヌ・マラルメ(1842-1898)の散文詩「秋の嘆き」(雑誌発表1864年、単行本収録1896年。鈴木信太郎訳「マリアが私を棄てて、他の星に往ってから、――どの星だらう、オリオンか、牽牛星(アルタイル)か、それとも緑の金星(ヴエニユス)、お前かな――私はいつも孤独を愛した。猫と共に、唯一人、暮らし果たした永い永い尽日終夜」下略)と、アルチュール・ランボー(1854-1891)の散文詩集『地獄の季節』(執筆1873年、発表1886年)の最終篇「別れ」(小林秀雄訳「もう秋か。――それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか、俺達はきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか。――季節の上に死滅する人々からは遠く離れて」下略)を発想の源にしているのは明らかですが(朽葉はマラルメの同作を翻訳してもいました)、それだけではなく朽葉と富水には伝記的にも偶然に符合する共通した生活体験がありました。簡単に言えば痛切な、しかしよくある失恋体験なのですが、その体験の共通性と微妙な差が「魂の夜」と「秋の悲歎」の違いに表れているようです。

 富水太郎が病没した直後、同人誌「山繭」に参加を勧誘された詩人が当時大学生だった瀧口修造(1903-1979)でした。もっとも瀧口は富水の親友だった中原中也、小林秀雄とは親しくなりませんでした。それは「山繭」参加間もない次の作品からでもわかります。

 冬眠
 瀧口修造

 地面が作業をやめて、美しい空洞を見出した。彼女はここに住んで人間の華やかな網状体に驚嘆した。
 ――間もなく正午の太陽が現はれる。

 スペクトラムを片手に、メソッドを講ずる土龍が、先ず自らの露に光つた肉体に驚き、墓堀人に泣きついた。

 樟脳糖が痩せ細つてゆくと、見知らぬ動物の息づかいが苦しくなる。唯、怠堕な造花のみが明るくなる。いよいよ寒い明方がくる兆候であつて、繁みの中の梟は、そのからだがますます黒くなる。

 人間は冬眠を欲して、青い海をぢつと見てゐる。
 急に荒ら荒らしくなり、生ま生ましい無数の夕刊紙を、真赤な種子のごとくに、曙がやつてくる谷底めがけて撒き散らす。

(昭和2年=1927年1月「山繭」)

 瀧口はまもなく日本のシュルレアリスム詩人として頭角を現し、三好達治と入れ替わるように「詩と詩論」の中心詩人と見なされるようになります。ですが、その散文詩は三好が「詩と詩論」に発表した『測量船』収録の散文詩とはまったく異質なものでした。

 絶対への接吻
 瀧口修造

 ぼくの黄金の爪の内部の瀧の飛沫に濡れた客間に襲来するひとりの純粋直観の女性。 彼女の指の上に光つた金剛石が狩猟者に踏みこまれていたか否かをぼくは問はない。 彼女の水平であり同時に垂直である乳房は飽和した秤器のやうな衣服に包まれてゐる。 蝋の国の天災を、彼女の仄かな髭が物語る。 彼女は時間を燃焼しつつある口紅の鏡玉の前後左右を動いてゐる。 人称の秘密。 時の感覚。 おお時間の痕跡はぼくの正六面体の室内を雪のやうに激変せしめる。 すべり落された貂の毛皮のなかに発生する光の寝台。 彼女の気絶は永遠の卵形をなしてゐる。 水陸混同の美しい遊戯は間もなく終焉に近づくだろう。 乾燥した星が朝食の皿で轟々と音を立てているだらう。 海の要素等がやがて本棚のなかへ忍びこんでしまうだらう。 やがて三直線からなる海が、ぼくの掌のなかで疾駆するだらう。 彼女の総体は、賽の目のやうに、あるときは白に、あるときは紫に変化する。 空の交接。 瞳のなかの蟹の声、戸棚のなかの虹。 彼女の腕の中間部は、存在しない。 彼女が、美神のやうに、浸蝕されるのはひとつの瞬間のみである。 彼女は熱風のなかの熱、鉄のなかの鉄。 しかし灰のなかの鳥類である彼女の歌。 彼女の首府にひとでが流れる。 彼女の彎曲部はレヴィアタンである。 彼女の胴は、相違の原野で、水銀の墓標が妊娠する焔の手紙、それは雲のあいだのやうに陰毛のあいだにある白昼ひとつの白昼の水準器である。 彼女の暴風。 彼女の伝説。 彼女の営養。 彼女の靴下。 彼女の確証。 彼女の卵巣。 彼女の視覚。 彼女の意味。 彼女の犬歯。 無数の実例の出現は空から落下する無垢の飾窓のなかで偶然の遊戯をして遊ぶ。 コーンドビーフの虹色の火花。 チーズの鏡の公有権。 婦人帽の死。 パンのなかの希臘神殿の群れ。 霊魂の喧騒が死ぬとき、すべての物質は飽和した鞄を携へて旅行するだらうか誰がそれに答えることができよう。 彼女の精液のなかの真紅の星は不可溶性である。 風が彼女の緑色の衣服(それは古い奇蹟のやうにぼくの記憶をよびおこす)を捕えたやうに、空間は緑色の花であつた。 彼女の判断は時間のやうな痕跡をぼくの唇の上に残してゆく。 なぜそれが恋であったのか? 青い襟の支那人が扉を叩いたとき、単純に無名の無知がぼくの指を引つぱつた。 すべては氾濫してゐた。 すべては歌つてゐた。 無上の歓喜は未踏地の茶殻の上で夜光虫のやうに光つてゐた……… (sans date)

(昭和6年=1931年9月「詩と詩論」)

(引用詩のかな遣いは原文に従い、用字は当用漢字に改め、明らかな誤植は訂正しました。)

(以下次回)