薄田泣菫「公孫樹下にたちて」「望郷の歌」(岩波文庫『泣菫詩抄』より) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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薄田泣菫・明治10年(1877年)生~
昭和20年(1945年)没

 公孫樹下にたちて
 薄田泣菫

 一

ああ日は彼方、伊太利の
七つの丘の古跡(ふるあと)や、
圓き柱に照りはえて。
石床(ゆか)しろき囘廊(わたどの)
きざはし狹(せば)に居ぐらせる
青地(あをぢ)襤褸(つづれ)の乞食(かたゐ)らが、
月を經て來む降誕祭(くりすます)
(いち)の施物(せもつ)を夢みつつ
ほくそ笑(ゑみ)する顏や射む。
ああ日は彼方、北海(きたうみ)
波の穗がしら爪(つま)じろに、
ぬすみに獵(あさ)る蜑(あま)が子の
氷雨もよひの日こそ來れ、
(さち)は足りぬ、と直(ひた)むきに
南へかへる舟よそひ、
(や)れし帆脚や照すらむ。
ここには久米(くめ)の皿山の
(いただき)ごしにさす影を、
肩にまとへる銀杏の樹、
向脛(むかはぎ)ふとく高らかに、
青きみ空にそゝりたる、
見れば鎧(よろ)へる神の子の
陣に立てるに似たりけり。

 二

ここ美作(みまさか)の高原(たかはら)や、
國のさかひの那義山(なぎせん)
谿にこもれる初嵐、
ひと日高みの朝戸出(あさとで)に、
遠く銀杏のかげを見て、
あな誇りかの物めきや、
わが手力(たぢから)は知らじかと、
軍もよひの角笛を、
木木に空門からとに吹きどよめ、
家の子あまた集へ來て、
黒尾峠の懸路(かけぢ)より
風下(かざした)小野(をの)のならび田に、
穗波なびきてさやぐまで、
勢あらく攻めよれば、
あなや大樹(おほき)のやなぐひの
黄金の矢束(やづか)鳴だかに、
諸肩(もろがた)つよく搖ぎつつ、
賤しきものの逆らひに、
滅びはつべき吾が世かと、
あざけり笑ふどよもしや、
矢種(やだね)皆がらかたむけて、
射繼早(いつぎばや)なるおろし矢に
射ずくめられし北風は、
またも新手をさきがけに
雄詰をたけびたかく手突矢の
(やじり)ひかめく圍みうち。
頃は小春の眞晝すぎ、
因幡ざかひを立ちいでて、
晴れ渡りたる大空を
南の吉備(きび)へはしる雲、
白き額をうつぶしに、
下なる邦(くに)のあらそひの
なじかはさのみ忙しきと、
心うれひに堪へずして、
(かへり)みがちに急ぐらむ。

黄泉(よみ)の洞(ほら)なる戀人に
生命の水を掬ばむと、
七つの關の路守(みちもり)に、
冠と衣(きぬ)を奪はれて、
『あらと』の邦におりゆきし
生身(なまみ)素肌の神の如、
ああ爭ひの七八日(ななやうか)
銀杏は征矢(そや)を射つくして、
雄々しや空手(むなで)眞裸(まはだか)に、
ほまれの創の諸肩を、
さむき入日にいろどりて、
み冬の領(りやう)にまたがりぬ。

 三

ああ名と戀と歡樂(たのしみ)と、
夢のもろきにまがふ世に、
いかに雄々しき實在の
眩きばかりの證明(あかし)ぞや。
夏とことはに絶ゆるなく
青きを枝にかへすとも、
冬とことはに盡くるなく
つねにその葉を震ひ去り、
さては八千歳(やちとせ)靈木(りやうぼく)
(そびら)の創は癒えずして、
戰ひとはに新らしく、
はた勇ましく繰りかへる。
銀杏よ、汝常磐樹(ときはぎ)
神のめぐみの緑葉(みどりは)を、
霜に誇るにくらべては、
いかに自然の健兒ぞや。
われら願はく狗兒(いぬころ)
(ち)のしたたりに媚ぶる如、
心よわくも平和(やはらぎ)
小さき名をば呼ばざらむ。
絶ゆる隙(ひま)なきたたかひに、
馴れし心の驕りこそ、
ながき吾世のながらへの
(はえ)ぞ、價値(あたひ)ぞ、幸福(さいはひ)ぞ。
公孫樹(いてふ)よ、汝(なれ)のかげに來て、
何かも知らぬ睦魂(むつだま)
よろこび胸に溢るるに、
許せよ、幹をかき抱き、
長き千代にも更(か)へがたの
刹那(せちな)の醉にあくがれむ。

 (三十四年、作州津山のほとりにて)

(初出・明治35年=1902年1月「小天地」、詩集『二十五弦』明治38年=1905年5月より)

 望郷の歌
 薄田泣菫

わが故郷(ふるさと)は日の光蝉の小河(をがは)にうはぬるみ、
在木(ありき)の枝に色鳥(いろどり)の咏(なが)め聲する日ながさを、
物詣する都女(みやこめ)の歩みものうき彼岸會や、
桂をとめは河しもに梁誇(やなぼこり)する鮎汲みて、
小網(さで)の雫に清酒(きよみき)の香をか嗅ぐらむ春日なか、
櫂の音とゆるに漕ぎかへる山櫻會(やまざくらゑ)の若人(わかうど)が、
瑞木(みづき)のかげの戀語り、壬生狂言(みぶきやうげん)の歌舞伎子が
(わざ)の手振の戲(ざれ)ばみに笑み廣ごりて興じ合ふ
かなたへ、君といざかへらまし。

わが故郷は、楠の樹の若葉仄(ほの)かに香ににほひ、
葉びろ柏(かしは)は手だゆげに風に搖ゆる初夏を、
葉洩りの日かげ散斑(ばらふ)なる糺(ただす)の杜(もり)の下路に、
(あふひ)かづらの冠して、近衞使(このゑづかひ)の神まつり、
(ぬり)の轅(ながえ)の牛車ゆるかにすべる御生(みあれ)の日、
また水無月の祇園會や、日ぞ照り白む山鉾の
車きしめく廣小路、祭物見の人ごみに、
比枝ひえの法師も、花賣も、打ち交りつつ頽(なだ)れゆく
かなたへ、君といざかへらまし。

わが故郷は、赤楊(はんのき)の黄葉きばひるがへる田中路、
稻搗(いなき)をとめが靜歌(しづうた)に黄(あめ)なる牛はかへりゆき、
日は今終(つひ)の目移しを九輪の塔に見はるけて、
靜かに瞑(ねむ)る夕まぐれ、稍散り透きし落葉樹(おちばぎ)は、
さながら老いし葬式女(はうりめ)の、懶(たゆ)げに被衣(かづき)引延(ひきは)へて、
物歎かしきたたずまひ、樹間(こま)に仄めく夕月の
夢見ごこちの流盻(ながしめ)や、鐘の響の青びれに、
札所(ふだしよ)めぐりの旅人は、すずろ家族(うから)や忍ぶらむ
かなたへ、君といざかへらまし。

わが故郷は、朝凍(あさじみ)の眞葛(まくづ)が原に楓(かへで)の葉、
そそ走りゆく霜月や、專修念佛(せんじゆねぶち)の行者らが
都入りする御講凪(おかうなぎ)、日は午(ひる)さがり夕越(ゆふごえ)
路にまよひし旅心地、物わびしらの涙眼(いやめ)して、
下京(しもぎやう)あたり時雨(しぐれ)するうら寂しげの日短かを、
道の者なる若人は、ものの香朽ちし經藏(きやうぎやう)に、
塵居(ちりゐ)の御影(みかげ)、古渡(こわたり)の御經(みきやう)の文字や愛(めで)しれて、
(ゆふ)くれなゐの明らみに、黄金(こがね)の岸も慕ふらむ
かなたへ、君といざかへらまし。

(初出・明治39年=1906年1月「太陽」、詩集『白羊宮』明治39年5月より)

 岡山県出身の詩人・薄田泣菫こと本名淳介は明治10年(1877年)5月19日生まれ、明治30年(1897年)5月に文芸誌「新著月刊」に投稿した詩が第一席に入選し、20歳で華々しくデビューを飾りました。明治32年(1899年)11月には第1詩集『暮笛集』を刊行、2か月で初版5000部を売り切る人気詩人の座を固めます。明治34年(1901年)10月には第2詩集『ゆく春』を刊行し与謝野鉄幹主宰の詩歌誌「明星」で巻頭特集を組まれます。明治38年(1905年)5月には第3詩集『二十五弦』、同年6月には詩文集『白玉姫』を刊行し、明治39年(1906年)5月には明治新体詩の絶頂とされる第4詩集『白羊宮』が刊行されました。以降は新作を含む選詩集こそ刊行されましたがオリジナルな詩集は『白羊宮』が最後になり、翌明治40年(1907年)以降は新聞社入社とともに児童詩や民謡詩、随筆や小説に転じて、大阪毎日新聞社に移ってからのコラム『茶話』は10年あまり続く人気連載になり、昭和20年(1945年)10月4日の逝去(享年68歳)までは随筆家として多数の著作を発表しています。明治末までに代表的な詩集を4冊前後刊行した島崎藤村(1872-1943)、土井晩翠(1871-1952)、蒲原有明(1976-1945)とともに当時「新体詩」と呼ばれた明治30年代~40年代の文語自由詩をリードしたのが藤村、晩翠、有明、泣菫であり、また河井醉茗(1874-1965)、横瀬夜雨(1878-1934)、伊良子清白(1877-1945)で、特に泣菫は柔軟で文語文法からも破格な文体と大胆に多数の造語を含んだ豊かな語彙、抒情に溺れない清新な情感によって、もっとも実験的で難解な作風だった蒲原有明と双璧をなす第一線の詩人とされていました。

 泣菫は大正14年(1925年)2月に全詩集『泣菫詩集』、昭和3年(1928年)5月に岩波文庫からの選詩集『泣菫詩抄』を刊行し、明治41年(1908年)成立とする未刊詩集『こもり唄』、明治42年(1909年)成立とする未刊詩集『十字街頭』が加えられましたが、『こもり唄』は既刊詩集未収録だった明治39年からの民謡体短詩を集めた拾遺詩集であり、また『十字街頭』も『白羊宮』以後の作品をまとめたものながら必ずしも明治42年の時点の集成ではなく、ともに拾遺詩集的な性格の強いものです。泣菫の最高の達成は『二十五弦』と『白羊宮』にあり、明治38年(1905年)11月に「中学世界」増刊号に発表された「ああ大和にしあらましかば」(詩集『白羊宮』収録)と並んで泣菫の三大傑作とされるのが明治35年(1902年)1月発表の「公孫樹下にたちて」(詩集『二十五弦』収録)、明治39年(1906年)1月発表の「望郷の歌」です。「公孫樹下にたちて」「ああ大和にしあらましかば」「望郷の歌」はいずれも壮大な叙事詩的構想を持ち、現代(明治30年代末ですが)の旅行の嘱目から古代日本、古代ギリシャ、古代ローマに現代日本を重ね合わせ、豊かな語彙と想像力から凝縮度の高い抒情詩に詠いあげたものでした。叙事詩の試みは明治20年代の西洋詩移入期から北村透谷、中西梅花を経て土井晩翠の雄大な作品から伊良子清白、蒲原有明の試作へと連なるものでしたが、泣菫の独創は物語詩体の叙事詩から叙事詩的想像力をコンパクトな抒情詩に圧縮したもので、物語的な叙述に拠らず古代や中世の歴史的事象を一気に多重的な歴史性を備えた抒情詩にたたみこんだ手腕にあります。「望郷の歌」はゲーテの「ミニオンの歌」からの換骨奪胎を指摘されましたが、歴史性想像力と叙事詩的構想を抒情詩に圧縮する発想を十全な文語自由詩によって実現したのは晩翠、清白、有明にもない、泣菫ならではの発想でした。この泣菫の詩法が北原白秋、三木露風ら次世代の詩人に与えた直接的影響は藤村や晩翠、有明をしのぐもので、その発想は岩手県をイーハトーヴ共和国に見立てた宮澤賢治の詩にまで及びます。さらに泣菫自身がまったく知らなかった21世紀初頭の英米の最新のモダニズム詩の潮流にあってエズラ・パウンドやT・S・エリオットらが古代~中世~現代文明を多層化して表現する手法をはるかに早く先取りし、かつ純粋に日本語詩の発展過程でドメスティックな着想から実現したものとして異例の成果を実現していました。泣菫自身は自作の独創性と革新性に気づかず、白秋や露風ら新世代の台頭とともに詩作から引退してしまうので、これらの詩篇は爛熟と同時に凋落した明治新体詩末期の達成として過去のものとされてしまいます。また和漢の古典文学に通じた泣菫や有明の詩の措辞は今日の読者のみならず発表時にすでに難解だったので、明治末の詩の読者ははるかに表現の次元が明快な白秋や露風の詩に乗り換えたのです。泣菫の詩は外見の生硬さやいかめしさよりはるかに柔軟で練れたもので、かつ堅牢な文体は蒲原有明とともに文語自由詩の可能性を極めたものでした。白秋や露風の文語詩はすでに口語脈へと足をかけており、白秋や露風の詩の過渡期的な印象はその不徹底さにもよります。それでもやはり今日の読者には泣菫の詩は難解なので、習うより慣れろ的に文語文の文学作品に馴染んだ読者以外には伝わりづらい敷居の高さがあるのは否定できません。また今日の読者がそのまま泣菫や有明の詩を踏襲できないのも確かなのですが、こういう詩があったという参考までにもこれらの詩は読まれるだけの価値はあるでしょう。