薄田泣菫「村娘」「鳩の浄め」(岩波文庫『泣菫詩抄』より) | 人生は野菜スープ~アエリエルのブログ、または午前0時&午後3時毎日更新の男

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元職・雑誌フリーライター。バツイチ独身。午前0時か午後3時に定期更新。主な内容は軽音楽(ジャズ、ロック)、文学(現代詩)の紹介・感想文です。ブロガーならぬ一介の閑人にて無内容・無知ご容赦ください。

薄田泣菫・明治10年(1877年)生~
昭和20年(1945年)没

 村娘
 薄田泣菫

春ゆく夕(ゆふべ)、白藤の
花ちる蔭に身をよせて、
泣くは行末、さだめなき
世のならはしを思ふもの。

知らじや、薄き花びらに
春の日を燒く香(かをり)あり。
見じや、か細き鬢莖(びんぐき)
かなへをあぐる力あり。

路いそぎゆく旅の人、
しばし木暗(こぐれ)に立ちよりて、
冷たき胸を叩く手に、
など若き身を抱かざる。

誰に語らん、和肌(やははだ)
指をさはればうとましや、
潮に似たる胸の氣(け)
浪とゆらぐを今ぞ知る。

春經(へ)てさぶる酒甕(もたひ)には、
色濃き酒の湧くものを、
痩せし腕(かひな)に血も冷えて、
苦き涙をぬぐふかな。

夏きてまたも新らしく
薄ら衣服(ごろも)を裁ちきれど、
もろき命(いのち)をおもひみて、
たたむに惜しき染小袖。

神よ情(じやう)ある人の子に、
盲目(めしひ)をゆるせ、ゆく春の
長きうれひを眺めては、
か弱き胸の堪へざるに。

(明治30年=1897年発表、詩集『暮笛集』より)

 鳰の淨め
 薄田泣菫

夏なかの榮えは過ぎぬ、
くたら野の隱れの古沼(ふるぬ)
「靜寂(じやうじやく)」は翼を伸(の)して
はぐくみぬ、水のおもてを。

(にほ)や、實(げ)に淨めの童女(をとめ)
尼うへの一座なるらし。
なづさひの羽きよらかに、
水泥(みどろ)なす水澁(みしぶ)に浮きつ。

水漬(みづ)く葉の眞菰のみだれ、
伏葦(ふしあし)の臂(ひぢ)のひかがみ、
末枯(うらがれ)や、――さてしも齋場(ゆには)
おもむろに鳰(にほ)は滑りぬ。

漁人(すなどり)の沓のおとにも、
鼻じろみ、面隱(おもがく)す兒の
振りかへり、かつ涙ぐみ、
(み)がくれにつとこそ沈め。

河骨(かうほね)の夏を夢みて、
ほくそ笑む水底(みなぞこ)の宮、
潛かつぎ姫、「歸依(きえ)」の掬(く)むなる
常若(とこわか)の生命湛(たた)ひぬ。

見ず、暫時(しばし)、――今はた浮きつ、
淨まはる聖(ひじり)ごころの
かひがひし、あな鳰(にほ)の鳥、
ひねもすに齋(いつ)きゆくなり。

(初出・明治39年=1906年3月「早稲田文学」、詩集『白羊宮』より)

 明治20年(1887年)前後からさまざまな詩人によって試みられ、明治30年代(明治30年=1897年)~40年代(明治45年/大正元年=1912年)の時期にかけて円熟期を迎えた日本の文語自由詩は新体詩と呼ばれましたが、この時期を代表する詩人を明治29年に先駆的第1詩集『東西南北』を発表し「明星」を主宰した与謝野鉄幹(1873-1935)、「文学界」を代表する島崎藤村(1872-1942)、「文庫」を主宰した河井醉茗(1874-1965)、明治38年(1905年)の訳詩集『海潮音』で絶大な影響を誇った訳詩家の上田柳村こと上田敏(1874-1916)らを指導者的存在とすると、藤村の『若菜集』(明治30年)と対をなす名声を明治第1詩集『天地有情』(明治32年)で獲て後進の詩人たちの叙事詩試作に大きな影響を与えた土井晩翠(1871-1952)、「文庫」に依った横瀬夜雨(1878-1934)や伊良子清白(1877-1945)、『若菜集』『天地有情』「文学界」「文庫」から「明星」まで幅広く活動した薄田泣菫(1877-1945)と蒲原有明(1976-1945)が上げられます。鉄幹、醉茗は後進の詩人たちの育成によって大きな功績を残し、藤村、晩翠、また柳村は実作(上田敏は訳詩家でしたが)によって影響の大きな詩人でしたが、明治新体詩の到達点は、明治37年(1904年)の島崎藤村の全詩集『藤村詩集』、明治38年(1905年)の上田柳村の訳詩集『海潮音』を例外とすれば、明治39年(1906年)の伊良子清白の詩集『孔雀船』、同年の薄田泣菫の詩集『白羊宮』、明治41年(1908年)の蒲原有明の詩集『有明集』が口語自由詩台頭前の屈指の詩集でした。このうち『孔雀船』は清白の唯一の詩集となったもので、雑誌発表詩250篇あまりから18篇を厳選した成り立ちから『孔雀船』一冊だけでは清白の詩の変遷をたどるのは困難です。薄田泣菫、蒲原有明の場合は『白羊宮』『有明集』が第4詩集であり、泣菫では明治32年(1899年)の第1詩集『暮笛集』、明治34年(1901年)の第2詩集『ゆく春』、明治38年(1905年)5月の第3詩集『二十五弦』、また蒲原有明では明治35年(1902年)1月刊の第1詩集『草わかば』、明治36年(1903年)5月刊の第2詩集『獨弦哀歌』、明治38年(1905年)7月刊の第3詩集『春鳥集』と詩集を追って作風の変遷がたどれることから、時代をさかのぼって日本の現代詩の黎明期を見るには薄田泣菫、蒲原有明の詩は明治30年代~40年代の詩の発展過程を知るのにもっとも適したものです。

 文語自由詩は自由詩型であっても和歌・俳諧の七五・五七韻律を残したものが大半であり、島崎藤村の『若菜集』、土井晩翠の『天地有情』でも七五・五七韻律の統一によって明治20年代詩人の試作を整理したと言えるものでした。薄田泣菫の第1詩集『暮笛集』でも七五韻律、またはその変型である八六韻律が詩集のほとんどを占めています。4行7連の「村娘」は典型的な七五韻律ですが、和語と漢語の配置に工夫を払い、村娘と旅人の邂逅を抒情的に詠っています。七五韻律では1行ごとが言い切りの型になってしまいがちなのを「村娘」では副詞節を行末に置くことによって緩和していますが、一方第4詩集『白羊宮』の「鳰の淨め」は5行6連による構成が五七韻律によってより柔軟な行文になっており、また水浴びする少女と鳩の重ね合わせによってどちらが喩でどちらが実かが連の交替ごとに往還する多重的な印象を作り出しています。これは『海潮音』からの影響でしょうが、翻訳詩的な生硬さや作為性はありません。『若菜集』が当時清新に女性の愛読者に迎えられたのは少女たちを詠った連作詩「六人の乙女」を詩集の中心に据えた着想によるものと思われ、泣菫の詩はもっとスケールの大きな歴史的想像力を働かせた地誌的抒情詩でより成功を収めているものの、「鳰の淨め」は「村娘」とほとんど同趣向の少女詩的な題材を扱って技法に格段の進展を見せている分、一見たおやかに見えながら文語自由詩としては行き詰まりに近い破格文法によって読者の理解力に極端に負担をかける、明治新体詩の極限に近い詩です。訳詩集『海潮音』は西洋詩のロマン主義由来の印象主義詩と象徴主義詩を『若菜集』的な日本の新体詩に即した文体で一挙に混淆させた創作的翻案詩集として功罪あるものですが、北村透谷~『若菜集』が拓いた恋愛至上主義、女性崇拝主義が明治30年代には女性解放的な役割を果たしたとしても『若菜集』が描いたのは客体化された(つまり決して主体的な存在ではない)女性でしかないとも言えるので、泣菫の「村娘」「鳰の淨め」は今日の目からはやや旧弊な女性観が眼につく詩の典型例になっています。泣菫にはもっと良い詩がたくさんあり、もっと良い詩の美点から「村娘」「鳰の淨め」を読むこともできるので今回のご紹介は失敗です。ただし「村娘」「鳰の淨め」について言えばこの日本語は純真に美しく、明治の詩は貴族や遊女など特殊な存在ではなく、また心中悲劇などではないごく普通の庶民の思春期の娘の感傷を初めて文学の題材にしたものでした。そこに文学史的な画期的意義があり、また泣菫に迎合的な処女崇拝やエロティシズムの意図は皆無なのは確かなので、それが美点でもあれば今日的な視点からは限界にもなっているのは押さえておきたいところです。