宗教裁判。司法という名の宗教。

彼らは法の執行者ではない。
法をもてあそぶ司祭と言った方が正確だ。

宗教においても往々にしてあることと思うが、
上層部は、誰も教義などを信じておらず、
たんに権力をむさぼっているだけ。

その証拠に、憲法においては、裁判官の独立が明記さられているにもかかわらず、
司法のトップである最高裁は、下級審を統制し続けている。
最高裁に逆らった裁判官は、左遷だ。

最高裁が自ら憲法違反を行っている以上、
日本は、未だ、立憲国家とは言えない。
また、憲法という最高法規を犯している以上、
法治国家とも言えない。

先進国と途上国の中間に位置する。

まあ、もともと、発展途上国で、市民革命も経験してない日本に、
いきなり先進国になれと言うのは無理な話なので、そこは言うまい。

ただ、日本の教育では、大学まで入れると16年もかけて、
日本は先進国のいい国だと洗脳してくるので要注意だ。
大人になれば、社会のゆがみに気づくものだが、
親が子供にその歪みの直し方を上手に伝えることができてない。
かえって、その歪みを受け入れ、上層部を目指すことに熱心になることで、
歪みを助長している。

というわけで、日本では政教分離をうたっていながら、
実は、憲法という宗教、法治国家という大きな宗教の司祭たちに支配されている。
三権分立は、司祭たちの派閥と言ったところだ。
派閥だから分かれてはいるが、根っこは一つなので、結局は、一体だ。

三権分立が機能せず、三権癒着となっているのは、
行政訴訟を考えればわかりやすかろう。
最高裁はご都合主義である。

法は、そのまま適用できないことがほとんどであり、
法の適用に当たっては、法の解釈が必要だ。

解釈というと、占いがイメージしやすいだろう。
かつて、亀の甲羅の割れ方を、解釈して、吉兆を占っていた時代もあった。
現代においては、亀の甲羅が法律に置き換わったが、やっていることは、そう変わらない。
法を、裁判所にとって都合がいいように解釈しているだけだ。
勘違いしてはいけないのは、法を解釈しているのではなく、
法を解釈するふりをしているということである。
実際は、亀の甲羅の時代とそう変わっていない。
裁判官の判決ありきで、法律の方をその判決に従わせているに過ぎない。

ちなみに、裁判官が、自分に有利な裁判をするのは当たり前であるから、
法は除斥、忌避という制度を規定した。
つまり、裁判官自身が当事者となっている紛争については、その裁判官には裁判させませんよってこと。
当たり前のことだね。
ところが、裁判所自身が、当事者になるケースについては、規定しなかった。
そこで、「誰が司法をさばくのか?」という言葉が生まれる。

裁判の公開も、単に傍聴できるという形式を保つのみで、
当事者は「陳述します」というだけ。
傍聴人は何を陳述したのかはさっぱりわからない。
内容が分からない以上、公開とは言えない。

無罪推定原則も、実務上は、有罪推定原則となっている。
死刑囚の冤罪報道を見れば明らかだろう。
裁判所で無罪を主張しても、
密室において拷問によって取られた自白調書が優先されるなんてのは無茶苦茶だ。

憲法違反を上げれば、枚挙にいとまがない。

三権においては、憲法違反を犯しているのがすでに、日常レベルになっており、
現政権も、安保法案で違憲と騒ぐのは理解できないと言った感じだろう。

「今さら何言ってんの?憲法違反なんて他にもいくらでもしてるじゃん。
 なんで安保法案だけ反対するんだよ。いじめか!」
といった気分だろう。

それにしても、困ったことは、司法は、宗教にもかかわらず、
日本国民は、生まれながらに強制参加ということだ。
信教の自由が許されてない。
政教分離もなされていない。

非常に困った。
やはり、先進国になるには、市民革命の洗礼を受ける必要があるということなのだろう。

それにしてもたちが悪い。

政教分離とはよくいったものだ。
先進国が政教分離をうたっているのは、
宗教が政治を行うとろくでもないことになることが、
経験的にわかったからなのであるが、
宗教が政治を行うとどうなるかというと、
それがつまり、今の日本の状況である。

偶像のようにあがめられる存在でありながら、
いざ困った時には、何の役にも立たないところもそっくりである。

北朝鮮による拉致問題どころか、
離婚に伴う片親による引き離しすら解決できていない(笑)。
笑いごとではないが、笑ってしまう。
このような有様で、どうやって北朝鮮による拉致問題を解決しようというのか(笑)。
さらに、ハーグ条約加盟の先進国からは、拉致国家として、名指しされているも同然だ。
お話にならない。

ちなみに、私は、現在、行政訴訟によって、
情報公開請求等を行う準備中であるが、
先日、無料相談でお話しした弁護士が、
たまたま、別の自治体の情報公開審議会の委員だった。
その自治体では、私のような情報公開請求は、経験しなかったそうだ。
世の中に引き離しが何十万件も行われているにもかかわらず、
泣き寝入りする者がほとんどだ。

まずは、声を上げなければ。

司法はしょせん宗教である。
宗教が権力を維持し続けるにすべきことは、
常に、多数の側に立つことだ。
自分の正義を持たず、多数の意思に従う。
こうすることで、多数決が原則の民主主義では負け知らずとなる。
ちなみに、多数と言えば、選挙も、多数決であるから、
つまりは、与党に従うことになるし、内閣に従うことにもなる。
まあ、なんともなさけない集団だ。
二割司法と言われるのもうなづける。

司法の無能さを見限って、あきらめる人が多いのだろう。
しかし、三権分立という制度設計は悪くない。
先進国ではそこそこ機能している。

我ら主権者である国民が、
日本はまだ発展途上であるということを認識し、
訴訟を提起することで、
喝を入れてやらねばなるまい。