19世紀も後半に入ったころ、パリに住む銅版画家ブラックモンが友人の印刷工房で思いがけない発見をします。日本から届いた磁器の緩衝材がなんと「北斎漫画」だったのです。
創意に溢れた的確なデッサンのかずかずは、あまりにもエキゾチックで衝撃的で、ブラックモンは「北斎漫画」の素晴しさを友人知人に吹聴。パリの芸術家たちは、北斎を介して日本独自の美術表現を知ることとなりました。
さらに、1867年のパリ万国博覧会で、日本から出展した江戸幕府等の伝統工芸品や浮世絵がヨーロッパの人々の心をとらえ、日本美術に対する意識は一変。特に、それまでの西洋絵画の常識とかけ離れた浮世絵が与えたインパクトは絶大でした。
このころのフランスは、17世紀にルイ14世が設立した美術アカデミーの教えが依然として金科玉条とされており、絵の主題は神話や聖書、文学作品に限られ、正確な素描をもとに、背景を詳細に書き込む画法以外は認められていなかったのです。
フランスを皮切りにしたこのジャポニスムは、またたく間にヨーロッパやアメリカに広がり、装飾芸術の分野では、「アール・ヌーヴォー(新芸術)」運動へと発展。19世紀後半の西洋の近代芸術はジャポニスムを抜きにしては語ることができないほどの大流行へとつながっていきました。
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という訳で、フランスから広がっていった北斎の芸術。
北斎が描いたのは1830年頃。パリ万博のあとにマネ、モネ、ドガ、セザンヌの印象派の画家達が真似をしだしたのが1880年頃。
30年以上も遅れて、尚、新鮮な影響を与えたこの日本人の画家は天才だったのだろうと思えます。
それを私にとても良く教えてくれたのは、なんと工藤セシリアゆいちゃんのリサイタルでした!!
フォーレの墓地にて、という曲をお父さんの重典さんと演奏しましたが、とても良い曲でした。墓地で友人や家族に見守られてお別れをするシーンと、海で遭難して亡くなる人との2つのシーンを混ぜ合わせた曲でしたが、まさに、北斎の神奈川沖浪裏が目の前に浮かびました。
びっくりしてしまいましたが、これはただの偶然ではないようです。
この曲が作曲されたのは、1888年。
まさに、ヨーロッパでは絵画で北斎を取り入れていた時期でした!!
絵画と音楽もまた同じ文化として密接に結びついている面があります。日本人として北斎がこんなに誇らしい人物であったとは知らなかったので、今後こんな面に着目して曲を探しても面白そうです。
本人は全く意識して居なかったそうですが、この上野で西洋美術館と東京文化会館でシンクロしていた事件なのでした★彡
フランス育ちのゆいちゃんから、逆輸入されたというか、日本の良い面を教えて貰った気がします🇯🇵✨
そして、もう一つシンクロ!!
背景のエレベーターが、フランスの国旗に見えるという偶然🇫🇷✨✨