青木冨貴子さんの『７３１石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』新潮文庫を読んだ。

先ごろから、佐野眞男の２作『満州の黒い霧』『甘粕正彦　乱心の　　』で、アヘン売買人でＡ級戦犯里見甫と、大杉栄事件に加担し、満州の数々の謀略を操っていたといわれる甘粕正彦を知った後、満州にかかわる３人目の人物として、７３１部隊の石井四郎のことを無性に知りたくなった。

１９８０年代初め、森村誠一氏の『悪魔の飽食』という本がベストセラーになった。満州にあった旧日本軍の細菌戦部隊７３１部隊の行った捕虜、囚人に対する人体実験の事実を暴露する内容は、とうの昔に戦後を終えたつもりの当時の日本人にはショッキングな事実を突きつける形となった。

まだ子供だった私は、それがどんなことだったのか充分には把握していなかった。と思う。

その後７３１部隊を扱った本は多く出ていたが、私の好きな作家、青木冨貴子さんが、数年前、７３１部隊について書いた本書を購入することにした。

青木さんがこの本を書く取材中、終戦直後、石井四郎が書いたノートが奇跡的に発見される。本書の前半は、石井四郎の前半生徒と７３１部隊の満州での活動、実験、そして攻撃が描かれる。『医』と『軍』の中で、どう自分を出世させるかというのが、石井の前半生の課題であった。自分と自分自身の研究成果を、軍上層部に認めさせ、満州に巨大な実験研究施設を作らすあたりは、今の言葉で言うと、自己プロデュース力に優れている、という表現だろうか？幾分芝居がかり、研究成果をさも、重要な意義を持つかのようなプレゼンで、お偉いサンたちを煙に巻き、莫大な資金をせしめるあたりは、現代の広告代理店あたりなら、間違いなくピカイチの人材になるだろう。

そして本書後半は、戦争が終わり、満州に侵攻したソ進軍をタッチの差でかわし、国内に潜伏した石井四郎が、ＧＨＱを相手に、７３１の研究成果を引き換えに、自分と部下の戦犯免責を得る為の暗躍を描く。

東京裁判は、戦勝国による敗戦国の戦争犯罪を裁くという『勝てば官軍』強者の論理で、いびつな正義をうたう裁判だった。インド人判事バルも、『少なくともアヘン戦争までさかのぼら』なければ、この戦争の真の原因は見えないと、裁判そのものを批判した。同じく、細菌戦で、捕虜や囚人を人体実験にしたという、事実は、細菌戦に関する研究に出遅れていたアメリカにとってはのどから手が出るほどほしい研究成果。この成果と引き換えに、アメリカは、石井部隊を無罪放免とした。

７３１部隊を語るとき、その細菌戦部隊が行った残虐な行為が、個人の猟奇的な嗜好性ではなく、組織として、軍として、国家として許容してしまった恐ろしさ、今でも、安全性や、モラルを無視して企業として利益を優先したがために、大災厄を生んでしまった例が後を絶たない。日航ジャンボ機墜落事故、ＪＲ西日本の脱線事故、そして、石井四郎の片腕、内藤良一が創業した『ミドリ十字』の薬害エイズ問題。

そして、組織への忠誠心が強い日本人においては、そういった『組織の捻じ曲がった論理』をいとも簡単に受け入れてしまう国民性。そういったものも、７３１部隊は示唆してくれる。大事故は起こしていなくても、今の日本の企業、大なり小なり、『組織の捻じ曲がった論理』で、ないがしろにされているものがあるのではないだろうか？

細菌兵器、化学兵器は『貧者の核爆弾』と呼ばれ、高度な科学技術を要する大量破壊兵器に比べ安価で大量生産できるため、小国でも、あるいはテロリスト集団でも手に入れることができる。イランイラク戦争、オウム事件は、その証拠。この『悪魔のような魅力』を持つ細菌兵器に魅せられたのが、石井四郎。石井自身は、他の手段でもよかった、彼が立身出世する道具としてたまたま細菌兵器に思いが行った、いや、逆に、悪魔にささやかれたのかも知れない。戦後、その悪魔は、アメリカにささやきかけた。ＧＨＱ、国務省内では、日本の細菌戦に関する残虐な行為を『東京裁判』でとりあげるかどうか、せめぎあいがあった。しかし、最終的には来るべきソ連との戦争を前に、悪魔のささやきを受け入れた。石井の研究成果は根こそぎアメリカが持ち去った。これまで、細菌戦に関し研究らしい研究をしてこなかったアメリカにとって、『石井四郎はアメリカ細菌戦部隊の父』といえるかもしれない。７３１部隊はアメリカの中に確実に受け継がれていった。

ＧＨＱとの取引後、石井は、静かな余生を送ったようだ。一度、ミドリ十字の前身、『日本ブラッドバンク』を立ち上げ、朝鮮戦争の負傷兵に乾燥血漿等を供給し、羽振りの良くなった、かつての片腕、内藤のもとに、たかりに行ったが、相手にされなかった。石井から、悪魔が去ったあとは、普通のほら吹き爺さんになった。最後はキリスト教の洗礼を受け静かに最後を迎えたようだ。

石井は、満州時代も、敗戦直後も、自分の出身地である千葉の地元の人間の面倒や、部下の処遇、退職後の生活のことまで、さらにお手伝いさんまで、心細やかに気を使う人であった。立身出世をしたといっても、研究開発のために先祖伝来の田畑を切り売りし、すっからかんになった。

ＧＨＱ相手に、細菌戦の研究成果というカードを、いかに効果的に使うかを考えた人であったが、それは、先般面積と共に、リッチな生活ではなく、それぞれ面倒見た人間が最低限生計を立てていく手段を案じながらの取引でもあった。

人間が食べていくことは、いつの時代も難しい。悪魔のささやきが、悪魔のような人間に為されるとは限らない。ほんの少し、自分の人生に高望みをしたとき、そばに、悪魔がいて、その人を何時、悪魔に変えるかもしれない。あとがきを書いた佐藤優さんも、同じような状況にあれば、自分も同じような運命の人間になるかもと言っている。

満州というたった１３年、人類史上に存在した人工国家。ここで行われた、謀略は、たとえば、生物細菌兵器の研究、たとえば軍事独裁政権、反政府武装勢力が資金源として、または少年兵を軍に縛り付ける手段としてアヘンを栽培するシステム、たとえば、計画経済によって、一国を高度経済成長に導くシステム・・・・。後の世界に与えた影響は大きい。

里見甫、甘粕正彦、石井四郎、それぞれ、中国なるものへの大いなる愛情あり、天皇陛下への忠義、人種、思想にわけ隔てなく人を使う才あり、地元の人や部下への思いやりありと、人間として非情に魅力を感じる。この３人を通しただけで、満州を、戦争を、戦後日本を、いわんや人間を語るなかれ！といわれそうだが、３冊あわせて読んで見てはどうだろうか？

『竜馬』を卒業し、『坂の上の雲』にも飽きてきた方どうぞ！