本稿に取り組むきっかけ
何だか後ろ向きの様に感じて「いわゆる闘病記」を残すつもり等サラサラなかったのだが、多くの同病患者が人工呼吸器装着後の生活に悲観して呼吸器の装着を拒み亡くなっている現状を憂い、本稿が現状打破の一助になればと思い、私なりの「ALS考」を綴ってみることにした。
しばしば「三保の主治医は誰?」と問われるが、私のような人工呼吸器を装着したALS患者が在宅で暮らすためには多くの医師がかか関わる必要があり、一言では答えにくい。今回は現在の医療体制に至るまでの道のりを整理しながら、私と医師の関係について語りたい。
神経内科医A
頚椎症の術後が芳しくないことから、整形外科医の「神経内科で診てもらいましょう」の一言で、県立広島病院の門を叩くことになった。当時はALSなんて病名も知らなかったし、広大病院は建て替えられる前で、待ち時間がハンパないために県立広島病院を希望した。MRI画像と痙性歩行から受診当初は「頚椎症術後でいいと思いますよ」とのことだったが、何度目かの受診の際に胸がピクピクする旨を伝えると、みるみる顔色が変わり、ALS診断への検査予約となった。検査の結果、「筋萎縮性側索硬化症LSの可能性が濃厚です」と。
A医師の最大の功績というか、今でも感謝しているのは、人工呼吸器に早くから慣れさせてくれたことだろう。デブの私を見て睡眠時無呼吸症候群の可能性あり、と見抜き、院内の呼吸器科を紹介、鼻マスク呼吸器を処方された私は自宅で装着し、呼吸を呼吸器に委ねる練習が出来た。また、人工呼吸器を装着する生き方の提案もあったし、セカンドオピニオンを求めることにも賛成してくれたし、治験への参加にも協力してくれた。
神経内科医B
気管切開を直前に控えて、 A医師の後釜の神経内科医の海外留学を機に、県立広島病院から広大病院に丸ごと転院した。気管切開や人工呼吸器装着という、苦しい時期を共有してくれたし、同い歳というのも親近感が湧いた。
現在では広島国際大学にリハビリ科の教授として赴任され、主治医ではなくなったが、広大歯学部の先輩でもある里田隆博教授と共に私を非常勤講師として呼んでくれる等、良好な関係は続いている。
B医師(左)と里田隆博教授
神経内科医C
広島大学神経内科の現在の主治医だ。人工呼吸器を装着して、すっかり身体も生活も落ち着いている現在では3か月に一度、経過報告に受診するだけだが、中学高校の10学年後輩なので話も合うし、忙しい中私の話によく耳を傾けてくれる。訪問医では出来ない検査、レントゲンによる骨密度の測定や、血液ガス分析等を担当し、訪問医とデータを共有してくれ、私にもマメにメールをくれる優秀な医師だ。
広大病院神経内科の主治医と
宮地隆史先生
小学三年生の時にボーイスカウトで一緒の班になって以来、中高同級生の上に「三保・宮地」で出席番号まで並んでおり、広島大学も同期入学した仲だ。「三保・宮地」でいつも比較され、学業成績はいつも完敗の上に、見ての通り女性ウケも完敗・・・唯一勝っているのは腕力・・・だったはずだが、その腕力もALSの今では完敗だ。彼は神経内科医になっており、私の確定診断時は広大病院にいたので、早速相談に行った。有効な治療法がないこと、治験が行われていること等を教えてくれた。最もエビデンスのありそうな東北大学で行われている治験には頚椎症の手術の既往があってエントリー出来なかったが、彼がアルバイトに行っている三次市のビハーラ花の里病院でも他の治験を行っていることを教えてくれた。答えはもちろん「受けたいので紹介してほしい」だ。治験については<その3・治験入院考>で詳しく述べたので割愛するが、多くを学んだ治験参加だった。
宮地先生は現在国立病院機構柳井医療センターで副院長をしており、彼の手引きで私に講演する機会を与えてくれたり、私が支部長を務めるALS協会広島県支部にて学術講演会をお願いしたり、治療のアドバイスを求めたり、と小学三年生以来の良好な関係は続いている。
宮地隆史先生と
和泉唯信先生
宮地隆史先生の紹介で、三次市のビハーラ花の里病院の外来部門というべき「三次神経内科クリニック花の里」で初めて診察を受けた。ビハーラ花の里病院はご実家で、当時は「徳島大学神経内科の広島基地」という様相を呈しており、患者のため、治験のデータに、徳島と三次を忙しく行き来しておられた。私が治験入院しなくなってからも、年に一度自宅まで訪問診察に来られる程、ALS治療に熱く、主治医とは言いにくいものの、信頼を寄せている。
2020年より教授に就任され、「今まで以上にALSに特化して研究をしていきたい」と抱負を語り、ALS治療では国内最前線に立つ一人だ。そんな和泉教授の推薦で、「日本神経学会・ALS診療ガイドライン作成委員会パネリスト」に指名されたり、非常勤講師として徳島大学医学部5年生の講義を担当しており、責任重大だ。
和泉唯信先生と
訪問医D
先輩患者からのアドバイスから「そろそろ訪問医を」ということで、広島市内でも有名な訪問専門医にお願いすることになった。しかし、初対面の顔合わせの時からして印象が悪かった。「ALSの方を何人も診てきましたが、皆さん最期は苦しまずに安らかなお顔で見送ってきました」と、やや自信ありそうな言葉に幻滅した。これが訪問専門医の言うことか・・・。これからALSと共に生きていこうとしている私には残念だった。のちに知ったが、C医師はターミナルケアを得意としているらしい。事前に知っておくべきだった。
レティナカニューレを装着していた時期に決定的な事件があった。レティナカニューレの交換を在宅で行おうとした際に、不慣れD医師は気切孔に無理矢理グリグリと押し込もうとするので、私は血まみれになってしまった。出血が気管にも落ち込みそうで怖いし、気切孔だけでは何も喋れんしで、かなり不安だ。そんな中、「次の訪問があるので・・・」と逃げるように出て行ってしまった・・・。
訪問医E
D医師に不信感を抱いてしまったので、訪問看護師の紹介で訪問診療をお願いすることにした。E医師は日常診療の合間に訪問診療するスタイルだったので、「訪問専門医が見つかるまで」という約束だった。E医師のお世話になっている間に人工呼吸器を装着した。また、インフルエンザに感染したのと誤嚥性肺炎を経験した。その際の適切で迅速な処置で命拾いしたので、大変感謝している。
当時は便器に座って用を足していたのだが、尻の肉が落ちており、便座に尾てい骨が当たるととんでもなく痛かった。そこでE医師に相談のつもりで尾てい骨を見せると、「モン毛が伸びてますねー。剃ってください」と(笑)。以後我が家では「モン毛先生」と呼ぶようになったのは内緒だ(笑)。
訪問医F
新規に訪問専門で開業されるという情報を得て、開業前からコンタクトを取り、E医師からF医師に訪問医が変わった。F医師は「人工呼吸器を装着して今まで通り生活する」という私の気持ちをよく理解してくれ、一緒に歩んで行く気概が感じられた。F医師とは同い歳の上に、私が中学時代に父が単身赴任で暮らしていた大阪府池田市の出身で、夏休みの度に遊びに行っていた街なので、話も合う。私が調べてきて提案したダブルサクションカニューレの導入にも賛成してくれるなど、私の思いをかなえてくれる強い味方だ。
現在は気管カニューレの定期交換、胃瘻カテーテルの定期交換、ALS治療に必要な投薬、花粉症やアトピー性皮膚炎、ドライアイ、骨粗鬆症に対する投薬、人工呼吸器の管理と、幅広く私の暮らしを支えてくれる。私が望めば広大の神経内科医や製薬会社、薬局と交渉してくれるので、全幅の信頼を寄せている。この4月に発売されるラジカットの内用薬も「一番に処方してほしい」との私の希望を叶えてそうだ。
カニューレ交換する訪問医
まとめ
訪問医が神経内科専門医であることは稀だ。守備範囲でいえば、神経内科医はALSの診断とALSそのものに対する治療を担当し、訪問医は日常的な体調管理と在宅で暮らす支援をしてくれている感じ、といえば分かりやすいだろうか。人工呼吸器を装着して生活が落ち着き、ALSの進行が止まった現在では、訪問医と接する機会が多く、神経内科医の登場頻度は低下しているが、病状進行期には心強い存在だった。一方で、神経内科医は患者がどんな暮らしをしているのかピンと来ていない様子なので、これから広く伝えていきたい。
その他にも胃瘻造設には内視鏡科の医師、気管切開には耳鼻咽喉科の医師、訪問歯科医等、多くの医師・歯科医師と関わってきた。これからも在宅で暮らすためには多くの医療職者と出会うことだろう。患者の中にはすべてを医師任せにして、自分の意見を発さずに過ごす人もいるようだ。医師によっては過去の常識や自分の経験から、ALS患者=何もできない、と捉えている医師もいる。自分の身体は自分が一番分かるので、方針は人任せにせずに自分で考え、決めて、言葉は悪いが、医療職者の知識と技術を引き出すのが在宅を成功させるコツと感じている。
「船頭多くして船山に上る」と言うが、船頭は患者自身であるべきと考える。船頭の決めた針路をよく理解して、船頭の掛け声に合わて櫓を漕ぐと船はグングン進む!
船頭多くして船山に上る
(つづく)
※本連載は歯科医向けの連載ですので専門用語を含みます。
<広歯月報No.816 令和5年5月号掲載>