本稿に取り組むきっかけ

何だか後ろ向きの様に感じて「いわゆる闘病記」を残すつもり等サラサラなかったのだが、多くの同病患者が人工呼吸器装着後の生活に悲観して呼吸器の装着を拒み亡くなっている現状を憂い、本稿が現状打破の一助になればと思い、私なりの「ALS考」を綴ってみることにした。

 

気管切開をする決意

私の病ALSにおいて気管切開を受けるか否かは生死に直結しており、その選択は当人にゆだねられている。この生死の選択を迫られる点もALSが残酷な病といわれるゆえんとされる。私が気管切開の決意をしたのは確定診断直後の比較的早い時期だった。しかし今思い返しても、その時期にそんな重要な決断を迫るのはいささか早すぎると感じる。確定診断直後はALSという病気そのものとその予後を調べることに意識が集中し、気管切開後の日常の暮らしがどう変化し、どの様なものか情報が乏しく想像すらついていなかったのが現実だった。そんな訳で私はさして悩むことなく「気管切開~人工呼吸器装着」を選択した。もちろん妻も同意見だった・・・

 

私の気管切開孔

 

術前検査

私が気管切開術を受けたのは2013年の10月のことだった。ALSに限らず大抵の気管切開術は「息が出来ない」~「救急外来」~「気管挿管」~「引き続き人工呼吸器が必要」~「気管切開術」の手はずを踏んで行われていると思われるが、私の気管切開は違った。最初にかかっていた県病院の神経内科医の「将来的にエアウェイの確保が困難になるので、今のうちから耳鼻科医にも診てもらっておきましょう」との計らいで、早い時期から耳鼻科を受診し、耳鼻科医に鼻から内視鏡を入れられては「エアウェイが狭いですね~」と言われ、妻からは「ケツの穴のみならず鼻の穴もコマイのか(笑)」と笑われていた。

内視鏡検査前の耳鼻科受診中の一コマ

 

何回目の受診時だろうか、特に呼吸苦がある訳でもないのに内視鏡を覗いた後に耳鼻科医はぽつりと「そろそろ気管切開を・・・」と切り出した。驚いている私を見て「唾液が気管へ垂れ込み始めてます。風邪を引いたりして喉の粘膜が腫れると窒息の危険があります。痰吸引を確実に行うためにも・・・」と。「とうとう来たか・・・」返答に困る私を見て「大丈夫です。失うものは何もありませんから」との説明だった。確定診断以降、病気のことを忘れる様に「広島モーターサイクルレース全史」の取材と執筆に取り組んで来たが、初めて大きな現実を突きつけられた気がした瞬間だった。

 

信頼を寄せていた神経内科の主治医と耳鼻科の主治医が移動のため県病院を去ると聞かされて、かねてからリハビリ科でお世話になっていた広大病院に転院し、主治医の一本化を図ることとした。広大病院の耳鼻科医は失うものは何もない」とは決して言わず、「もしかしたら声を失うかも」との説明だった。また、術後の一週間はシンプルなカフ付きカニューレを装着するために「発声と食事は不可能」、嚥下試験の結果を見て「食事の開始」と「スピーチカニューレの装着」、「現時点では人工呼吸器の装着は考えていない」との説明だった。

 

カフ付きカニューレ

 

気管切開術

すでに思うように手を動かせなくなっていたため、声を失うことへの恐怖は相当なもので、軽い力で作動するナースコールの準備のみならず、透明文字盤と初代の視線入力パソコンを事前に準備して手術に挑んだ。手術そのものは鎮静下で行われたため何も記憶していないが、目の覚めたSICUの印象は最悪だった。なにせ生まれて初めて「声が出せない」、術前に持ち込んだナースコールは反故にされ「ナースコールが押せない」、「看護師とコミュニケーションが取れない」、「寝返りは出来ない」、「ブチ寒い所にスッ裸で寝かされ」、「尿意を伝える手段なく、小便は垂れ流し」、時計が視界になく昼か夜かも分からないので「あとどれだけココで我慢するのかも分からず」、「たくさんのモニターに繋がれ」、やっとのことで看護師に寝返りがしたい旨伝えると「ココはあなたの他は重症患者ばかりなんですよ!そんなことで呼ばないで!」と怒られ、初めて、「あぁ・・・ALSってこういうことなのか・・・」と絶望感でいっぱいになり無性に悲しくなった・・・

 

準備していた軽い力で作動するナースコール

 

病室編

病室に戻っても地獄は続いた。気管壁が機械的刺激に慣れていないためちょっと体を動かしただけでとんでもなく咳き込んだ。夜ベッドに横になるとそれだけで刺激になり、何とかしようと寝返りを打つとまた刺激。とうとう病室初夜は車椅子上で夜を明かした。異物が気管にあたえる刺激がどんなものかなかなか想像できないと思うので分かりやすく説明すると、海やプールで水を飲んだ経験はないだろうか?思わず立ち止まってゲボゲボと激しく咳き込んだ経験があろうかと思う。水ですらあんなに苦しいのに、いくら激しく咳き込んでも異物が取れない苦しみと言ったら・・・気管切開後の三日で一生分の咳をした気がした。道理で腹筋と横隔膜が痛いはずぢゃ。  

 

術後につらかったのはほかにもある。暫間的に挿入したカニューレの内壁に痰がびっしりとこびりついて気道を閉鎖して息苦しいのだ。手術直後だからだろう、痰の分泌は今とは異なり黄色い粘液質なもので、いくら吸引を繰り返してもカニューレ内壁は動脈硬化をきたした血管の様にみるみる狭窄した。看護師に息苦しい旨伝えると「ネブライザーで痰をふやかして吸引する」という。びっしりこびりついた痰がふやけるとますますカサを増してさらに呼吸は苦しくなった。無性にカニューレを外して内壁を洗い落としたくなり、主治医に伝えてくれと伝えるとあいにくその日は主治医は出張のため不在であるとのこと。翌日になってようやく代わりの医師にカニューレを交換してもらった。外されたカニューレを見ると、想像した通りカニューレ内壁は鼻くそのような黄色く固形化された痰により、断面積で1/8程度に狭窄していた。息苦しいはずぢゃ。

 

また、こんなことも知った。気管切開孔から呼吸するようになると、当たり前だが鼻腔を空気が流れなくなる。すると鼻が詰まっているような気がして不快でしょうがないのだ。鼻閉感とは鼻腔が閉塞するのではなく、空気の流れがなくなることによって感じることを知った。

 

退院へ

主治医によるとカニューレを装着する目的は主に気切孔を保つためで、カニューレを外したままにしていると胃瘻同様、自然の治癒力でせっかく開けた気切孔が閉じようとするらしい。しゃべれないストレスから脱したくて、一日も早くスピーチカニューレに交換~退院を熱望し、当初の予定通りレティナ・カニューレをすることとなった。レティナ・カニューレは簡単なワンウェイバルブを装着することにより発話が可能になる。まったく声が出せない一週間を過ごし、耳鼻科の診療室でいよいよスピーチカニューレに交換だ。「第一声はどうする?」「英語しか発せない新キャラクターで行こうか(笑)?」と考えながら診察を待った。ところがカニューレを装着する刺激で咳き込んでしまい、「ゲホゲホ」と私の大きな「第一声」が響き渡った。

 

術後一週間は口からの食事を禁じられ、退院前にはカニューレを装着することにより食道が圧迫されても嚥下機能に影響がないか、歯科医にもなじみのあるVF(嚥下造影検査)も受けた。食事を取り上げられるなんて当時の私にはまっぴら御免だったので、合格することを願いながら真剣に飲み込んだ。その甲斐あって無事に合格。退院するとその足で「合格祝い」の焼肉へと直行し、自己流の焼肉嚥下試験(笑)を行い、嚥下機能に低下のないことを確認して安心した。これで無事、「鼻がのどに移設」された訳だ。

 

まとめ

術後しばらくは積極的に気管切開孔を使うことはなかったのだが、食事の際に誤嚥すると気管切開孔からご飯粒が出てきたり、誤嚥性肺炎を起こした際には気管切開孔からしっかり痰吸引できたことで重症化を防いでくれた。気管切開を受けていなかったらと思うとゾッとする程だ。私は早めに気管切開を受けたが同病患者の中にはなかなか決心がつかずに先延ばししてしまい、命を落とす方もいる。胃瘻造設と異なり、失うモノも多いうえに苦痛を伴う気管切開だが、「人工呼吸器を装着して生きる」決心をしたならば、人工呼吸器の装着時期にとらわれることなく、早めに受けていた方が安心だろう。

 

輪状甲状間膜切開と気管切開の違い

 

緊急時に行われる「輪状甲状間膜(靭帯)切開」と「気管切開」は目的や部位が似通っていることからしばしば混同されているが、私の受けたのは輪状軟骨や甲状腺より下の気管を直接開窓したものだ。我々の歯科領域でも「印象材を喉に詰まらせて窒息」という可能性もゼロではないので、一刻を争う窒息という緊急時にはエアウェイ確保のために自信をもって「輪状甲状間膜(靭帯) 穿刺・切開」が行える様、研鑽を積んでおくべきだろう。そう言う当の本人は全く自信がないが・・・(笑)

(つづく)

※本連載は歯科医向けの連載ですので専門用語を含みます。

<広歯月報No.759 平成30年8月号掲載>