日本史における、最も大きなターニングポイントは、

1937年7月11日だった。

この日を境に、日本は、国民にとって地獄の戦争へと突入して行った。



この前日、7月10日、87年前の今日、

陸軍参謀本部は、次の「大名案」を陸軍省軍事課へ送った。


『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>

1975年、防衛庁戦史室著作

p160からの引用をもとにわかりやすく書き直しました。


以下、上書の次の部分の簡略化です。


支那駐屯軍(日本軍)の自衛行動は、

優勢な支那軍に包囲され救えなくなる。(筆者の見解:自衛ではダメで攻撃しなければ救えないと言っている)


そうなれば、帝国(日本)の威信は地に落ち、支那(中国)を増長させてしまう。

そうなると、中国在留帝国臣民(日本人)の生命財産は暴虐なる毒手にゆだねられる。


ゆえに、すみやかに臣民を救援しなければならない。

同時に、この事態の根元を一掃するために必要な兵力を北支(中国北部)方面に派遣する必要がある。


次のように、兵力を増派する。




この内容が何を意味するか。


関東軍、満州国の日本軍・日本兵士を2万人前後、北京周辺へ送る。しかも、最新鋭の戦車部隊を。


朝鮮軍、ソウルに駐屯していた日本軍・日本兵士1万人を北京周辺へ送る。


戦闘機部隊、日本軍が所有していた戦闘機の半数以上を北京周辺へ送る。


などなどの方針を、「陸軍参謀本部」が決めて、「政府の陸軍省」へ通達したということ。


当時、陸軍のほかに、政府内に陸軍省があり、陸軍と連携して、政府方針を決めていたのです。


そういう意味では、陸軍が政府を動かしていたと言えるかもしれませんが、


最終決定権は、政府、内閣、国会議員たちにあったとも言えるのです。


軍だけが戦争を引き起こしたのではないのです。


政府の責任が、最終的であり、とても大きかったのです。

すなわち内閣や総理の責任が、とても大きかったのです。


とにかく、陸軍も政府・内閣の大臣たちも、国家中枢にあって、国家政策の方針を決めていたというわけです。


一般国民の気持ちや生活とは、全く無関係に戦争開始を決めていくのです。


そういう意味で、国家中枢にいた人たち、すべての人たちが戦争責任を逃れることはできません。


そして、国家中枢の人々以外の、とてつもなく大勢の一般国民は、戦争責任は、とてつもなく「小さい」と言えると思うのです。


人類の歴史は、ごく少数の人間たちが、国家的方針を決めて、とてつもなく大勢の人間たちを丸め込んでいく、という歴史だったのです。


ごく少数の人間たちが、とてつもなく大勢の人間たちの一人ひとりのほんの少しの富を奪い取ら歴史だったのです。


でも、とてつもなくおおぜいの人たちから奪い取ったので、それが、巨額の資金になって、ごく少数の人間たちが好き勝手に使うという歴史だったのです。


明日は…いよいよ、

歴史のターニングポイントについて書きます。