教理省から異端が公表され、ますますカトリックの人と本当はそうでない人、イエズス様が言われた救いに至る狭い道と地獄に通じる広い道が明らかになってきています。


ですが聖母の権威は揺らぎません。

天主様は家族というものを世界に与えられ、男と女、夫と妻、親と子というものを表出され、そこに全てが表されていますので、そのことを考えるだけでわかるはずのことです。


「聖母は産んだだけで何もしていない」や、「イエズス様だけで足りるはず」という暴言、侮辱があります。

実際、実の母親にさえ、「あなたは産んだだけでなにもしていない」を言えば暴言とみなされるはずです(普通の愛ある母親であれば)。それを、イエズス様が十字架上で示された、「全ての人の母」に対して言うのは尚更おかしな話です。


子供が何か悪さをした時に、自分一人で厳しい父親に謝りに行けるでしょうか?行けることは善いですが、母親がいれば、子供の状況をより詳しく説明し、「こう言っていました、許してあげてください」と夫であるその子の父親に言うことができます。

そして父親は、愛する妻が言うのだから、という理由でも、我が子に憐れみを増して許すでしょう。

女、母親は、仲介者の役割をしているのです。

そして夫である男が先に女を愛し、子供を許すことにより、妻への愛を再確認するのです。

そして子供も、父親の威厳の愛と、母親の優しさの愛を確認でき、家族の愛は循環します。


天主様はこのようにあるべき完全な形を示されています。


そして聖母は私達の完全な仲介者であられます。


この世でも母親が父親と共に犠牲を払って子供を育てていない、などという声も、ありえない暴言とみなされることでしょう、聖母は、心において、イエズス様と同じ痛み苦しみを感じ受けられました。

共贖者であられるのは当然のことです。

マリア様はイエズス様と同じで罪がないにも関わらず、全てを承諾し、苦しみを受け入れ、全て余す所なく捧げたからです。全て私達の為です。


そもそもマリア様のフィアットという承諾がなければ、イエズス様はこの世に来られなかったのですから。

愛である天主様は、イエズス様ご受胎の前に、全て起こる苦しみ(今も!)をマリア様に見せられたことでしょう。承諾しなくても、もちろん罪ではないのです。自由意志故に、マリア様は選択することができたのですが、承諾してくださったのです。

天主様への愛の為、そこからの私達への愛の為に!


そして、聖母が共贖者で仲介者であられることは、神秘的な理由があります。


天主様は聖母への愛の為に、この世を造られました。

何よりも聖母を愛しておられるのです。

それ程完璧な完全な愛を持った被造物です。

聖霊の浄配と言われている通りのことです。


「天主様と同一に崇拝するのはおかしい」などという声がありますが、同一ではありません、そこには歴然とした差があり、造った者と造られた者、という明確な差があります。

天主様は誰からも造られることはありません。

そして、人間を愛するが故、聖母を私達に与えてくださったのです。

ですから、その聖母の尊厳を否定することは天主様を否定することです。


私達は、被造物として天主様が与えてくださった、私達の母となってくださった、完全な愛あるマリア様を愛するのです。

天国に到達した時に、そのもっと深い意味をわからせてくださるはずでしょう。



ここからは私が勝手に思っていることですが、私は、聖母マリア様は、"聖霊の型どり"ではないかと思っています。

というのは、ビンゲンの聖ヒルデガルトによると、天主様がアダムを眠らせた時に、アダムは愛を感じ、その愛を形にしたのがエヴァです。

だから女は男の愛なのだと書かれています。男の愛の型どりなのですね。


それと同じ事が、天でも最初に起きたのではないでしょうか。

完全な被造物というものを、天主様は造らないはずもないと思います。

そして、完全な愛の被造物を造るなら、それはもう聖霊の型どりしかないと思います。


被造物である以上、罪なく造られても罪を犯す可能性が天使でさえあり、実際にそれは起きましたが、マリア様にはその可能性さえないのは、やはりそういった理由ではないかと思えます。

聖霊の型どりであれば、それ程崇高な存在であれば、無原罪というだけでなく、完全な愛を持ち、永遠に罪を犯さない存在として造ることができますから。