さて、今まで色々と書いてきましたが

結局のところ、私たちは何が間違っていたのでしょうか?


もちろん各段階にいろいろな過ちはあります。

しかし、根本的な間違いは1つ

ありのままの自分を大切にしなかった…あるいはできなかったと言うところに帰結します。


私たちはまだまだ様々なことについて無知です。

そして、半無限的に様々な存在がいる訳ですから

全てを知りきると言う事は不可能です。

だからこそ、自分自身と言うものに対して

きちんと向き合い

わからない、そして無限に多様な存在で構成されているこの世界で

自分と言う道を歩んでいく必要があったのでした。

ありのままの自分自身でいることを

この世界においてやらなければ

その存在本来の結果に行き着きません。それは歪です。

そして、同様に

すべての存在を歪めようとしなければ良かったのです。そのためにも相互に理解し

お互いの存在が毀損しない関係を探るべきでした。

ただ、自分自身でいることも、相手のことを知ることも、

面倒くさかったり、あるいは恐怖が先行したりしてできなかったわけです。

そして

ありのままの自分自身も、ありのままの外の存在も大切にしない流れが生まれてしまいました。

それが私たちの出自からしても、

それは自己矛盾であり

相入れない流れにもかかわらず

無知なるが故に、その方向に突っ走ってしまったわけです。


私たちは、この世界と

何より、自分自身について知る必要があります。

そうでないと、自分本来の道の歩み方…つまり存在の仕方ができないのです。そして

自分本来の存在の仕方と、今の存在の仕方のギャップの分だけ

歪みが生じ自分や他の存在を苦しめているのですね。


この世界と言うのは

簡単に言うのならば 自分たちが歪んでいて

本来の自分たちを否定するような存在の仕方をしていることに気づいてない魂

が形作る世界です。

少し極端な言い方になりますが

目先にある良さそうなものを、片っ端からトライしているようなものです。


自分というものが見えていないので

自分とフィットしていない方向に行ってしまいますし

世界というものが見えていないので

当然ですが、行きたいところに行ける可能性は非常に低くなっています。

それを直さなければいけないと言うだけの話なのです。


自分と外が表裏一体なように

この世界は自分と他で出来ています。当然ですが、お互い協力しあって天国を作る以外では

この世界や存在を天国化することは不可能です。


この世界は

共存と

お互いありのままの存在を毀損しない関係を求める必要があると言うことを、

あらゆる方面から体感する教訓の場です。


その必要性が分かり

そして、その方法が分かり

そして、その方法を実現すべく、自分を変えることができたならば

この世界を卒業することができるようになるわけです。


今まで長く書いてきましたが

これで 私の到達した哲学の骨子の説明はおしまいです。

ただ、非常に難解で

おそらく分かりにくい内容になっていると思います。


ただ、私は上との関係上

この原理をどこかに残しておく必要があると思い

ここに書き記しました。


別のブログで

これをわかりやすく、書き換えたものをやろうと思っています。(後ほどここでも分かるようにします)


そのブログは、ポピュリズムに沿って

内容を1部毀損しても

伝わりやすく、わかりやすい内容で書く予定です。

しかし、本来の部分はこちらのブログに書いたことになります。


この世界の生を終えた後

どこかで次の世界に共に向かえる仲間が多いことを私は願っております。