今まで色々と書いてきましたが

この項ではまとめ的なものを具体的に書いていこうと思います。

前項 5のシリーズまでが所謂 哲学の基本的な部分です。

この先は具体的な記述に入りますが

その分 所謂学問的な正確性や根拠が不明瞭な点が出て来るかと思います。ご了承頂けたら幸いです。



さて

結局のところ 私達は何が良くなかったのでしょうか?


それは 怯えなのです。

自信の無さと言えるものです。



本来私達は ありのままの自分でいるべきでした。

自分が好きなものを存在させるように

自分が嫌いなものを遠ざける=存在させないように

ただ純然たる嗜好性として存在していれば良かったのですが

あまりにも知識も能力も無かった私達は

必然的に

周りに流されたのです。


身体に流されて 本能の赴くまま振る舞い

他社の評判に従い

組織のルールに従いました。

行動や決定の根源的な部分はありのままの自分が担当すべきなのに

その他の 外的な圧に任せてしまっています。


身体的快楽(苦痛を忌避するのも含む)も他者評価も社会正義も

あまりにも弱い自分に対しては

主導権をとってしまうものでした。

そして完全に取られ

しかも自分自身がその為に生きているかのような錯覚すら起こしてしまっています。


なんとなく身体的快楽につながるようなものを求め

なんとなく他者の評判を気にし

なんとなく社会のルールに従い


結局生きて何をしたかったのか

何をなすべきなのか

そもそも自分とはなんなのかすら 殆ど把握できずに死んでいく・・これが

今の人生の実態ではないでしょうか?



根源的な存在論は前述していますが


無は存在しない


というこの世界唯一絶対の要素から

今まで書いてきた事が派生しています。

私達は限りなくイコール無限の中のイチ存在 イチ次元とも言えるべき嗜好性存在です。

私達は流れを生むものであり

この世界の全ての存在の可能性を一部担当しているものでもあります。

そして勿論 私達もまた無限を内包した流れでもあります。


私達は身体に入って 身体と共にあります。

しかし前述した通り =身体ではありません。

そして 必ず身体は死にます。

この人生とは 身体に入って具体的にこの物理世界に存在する行為を指します。


身体に入らなければできない事は沢山あります。

物理法則でガチガチに固められ 定まった世界というのには価値があります。


何か新しいものを作り知るという時

私達=何かを発する性質があり流れを本質として持つ次元的存在 とは全く違う 

確固たる存在としてそこにある物理法則の物質はとても魅力的です。

何故ならこれら物質は自ずからは変わらず

物理法則のみに従い

この物理法則も極めて安定・不変だからです。

故に 私達の行動の蓄積が

新しい何かとして結実し得るのです。簡単に言えば モノづくりの素材として最適なのが

物理世界なのです。

そしてそれを感じるにも評価するにも

そもそも行動として物理世界にアクセスするにも

同じく物質としての感受機関である身体が必要です。


つまり私達はこの世界に

確固たる変化を求めて 身体に入ってアクセスしています。

そしてそれは勉強となり 経験となり

私達の嗜好性をアップデートする事となります。

私達はより確固たる存在である身体に入る事で

確固たる存在をしているのです。


確固たる存在をしていると

この感覚などがそれですが

良いとか悪いとか

快不快もハッキリしています。つまり強いのです。

存在の喜びも悲しみもハッキリしていて強い・・

なので存在それ自体の問題点も勿論ハッキリと出ます。

ハッキリとした喜びや存在の美しさの堪能は素晴らしいのですが

勿論私達はまだ全然それを堪能する段階にありません。


私達存在は 存在を根源的に肯定し信仰すらしています。故に今ここまで来たわけですが

より良い存在の仕方

自分にとって否定されない存在の仕方が未だ上手くいっていないのです。

これが 自己犠牲が消えていない状態です。

これは存在として非常に未熟と言えるものでしょう。

そして存在それ自体すら大切に出来ていない・・これが他者犠牲が消せていない状態ですが


つまり

存在のクセに

存在を確立出来ていない未熟な状態が

この世に居る私達なのです。


そしてその諸悪の根源とは

自分を知らず

他者を知らず つまり世界も知らず

故に自分と他の存在を

お互いが犠牲にならない状態にすら調整出来ない事なのです。


つまり 致命的にものを知らないのです。


そして

それすら飲み込めないところに全ての問題の元凶があります。


ありのままの自分に戻れば

未だ何も分からないという事を痛感する筈です。

自分が何者か どんな性質の存在かも分からなくなっていますし

他者との適切な関係も分かりません。

それでも本来は

そんな自分でいるべきで そんな自分を第一にすべきだったのです。

そして自分も 他の存在も

存在として大切にし

理解に努め ありのままの存在を毀損しないようにするべきでした。


しかしこの膨大なしなければならない勉強の道・・つまり

呆れるほどの無知な自分も 学んだり その為にしなければならない事も

受け入れられなかった。

自分から逃げてしまったのです。


自分とは厳密な意味で唯一無二の嗜好性を持つ存在です。だからこそ唯一無二の過去を持って今ここに居る訳です。

どんなに似通った存在でも今ここに同じ場所に同じ状態で居ない以上

何かはちょっと違った訳です。


兎に角も

その嗜好性次第で 良いも悪いも変わります。

確かにこの世界にいる私達人間は根本的な部分での嗜好性は大体は似ていて

だからこそ 脅しやご褒美も成立しているわけですが SMのような 何が正解か?の差はあるわけです。


本当は 全て

自分の嗜好性に照らし合わせるべきで

自分にとってだけの最適解を求めるべきなのですが・・

あまりにも無知な自分も

そんな自分が学ばなければならない膨大なアレコレにも耐えられず

何か安直な答え・・外圧への従順に走ってしまった訳です。



・・こんな 犠牲だらけの世界に生まれてしまった自分はダメなのではないか?


YES 


そもそも自分本来の嗜好性すら見えていないというのは致命的ではないか?


YES


ありのままの自分を出すと 周りの反応が怖い。

バチも当たるかもしれない。居場所が無くなるかもしれない・・

というのは つまり世界の奴隷になってはいないか?


YES


先ずは自分について知り

外について知り

存在として

兎に角存在が毀損しない状態になるべきではないか?


YES


・・そして

その為に必要なアレコレの根本的なことに触れたのが

哲学で 私がここまで書いたきた事です。


兎に角 世界の奴隷から

自分を取り戻す・・戻すというか

イチ存在として独り立ちするというのが 私達のファーストステップなのです。

その段階にいる訳です。


結局のところ 無知な自分も

また故に膨大に学ばなければならない事も受け入れられず

ありのままの自分を出すのが怖く

自分を信じる事が出来ず

身体や 他者や 所属する組織の圧に

盲目的に従ってしまった。

これが諸悪の根源です。

快楽を求めても

他者に褒められても 組織で成功しても

結局何にもその手に残らない。

その時初めて

自分を大切にすべきだったと気づくのですが

それでは遠回りすぎませんか?


その為の哲学だと私は信じています。