さて

前項では

ありのままの自分で居た時に生ずる問題で

その解決方法としての場所を変えられると言うことには、限界があると言う話に触れました。


何度も同じことを書いてしまっていますが

結局のところ

共存原則を遵守する存在以外とは

根本的な共存ができないと言う本質があるわけです。

しかし、現時点でこの世では

共存原則 或いはそれに内容的に同質な概念を持っている意志存在自体がかなり少ないと言える現状があります。

つまり、この世では

ありのままの自分自身で存在することや

そのありのままの自分自身の現状が内包している問題を解決することはできるのですが・

今いる場が原因で生じる問題に関しては

解決できる範囲が限られていると言うことになります。


逆の言い方をすれば

ありのままの自分自身で存在する事が確立できていて

そして、その自分自身の問題点が

少なくとも、他の共存原則を遵守する意志存在と共存可能なレベルまでは解決されている場合・・


つまり、ありのままの自分と言う状態を毀損される事なく

他者との共存関係が原則的に構築可能な状態までは自分の問題が解決されている場合は

それ以上のステップに到達するためには

この世から離れなければいけなくなると言うことです。


存在として、天国を目指すにあたり

この世では、そのステップの上限があると言うことになります。


もう少し具体的な状態でその上限を表します。

もちろん、共存といっても

自分の嗜好性に相反しない意志存在で

少なくとも自分の思考性に沿った天国をある程度以上共有できる存在との共存関係が前提となりますが

この世では主に、自分自身の共存可能な存在としての問題点がどうか?と言うところが重要になっています。


端的に言うと

自分が100人なり1000人なり集まったとして村を作ったとします。そして

私達のちょっと上の

少なくとも生存競争でない 共存社会=天国共同製作コミュニティから 土地やノウハウや一定の技術と資材を借りたとして

まずはそこでちゃんと崩壊せずに

共存社会を作れるか?が問われます。

そして その中で

誰もが本質的に犠牲にならずに 共に発展できるコミュニティを形成できるか

ちゃんと自己犠牲にならない程度には真面目に学び向上し

ちょっと上の 色々と貸してくれたり供与してくれた組織に貢献できるようになるか?

参画出来るようになるか?(存在がお荷物=赤字にならないか)が問われています。

実際問題 ほぼこの構図になっていると推察出来ます。私達はこの世でも 少なからず目上の人の指導でここまで来ています。

自分では作れない素晴らしいものがそこにある時点で(この世では美しく都合の良すぎる自然のアレコレが該当します・・基本的に世界の恵みそのものですが。) 私達はそれを供与されているわけです。

それで豊かに暮らしているわけですから

本来はいずれ恩返しを出来る

その組織に参画し貢献できるようにならないとバランスが取れないと言う事でもあります。


基本的に

存在していて自己犠牲にならない状態ならば

向上のスピードは問われなくなります。

今既に幸せなんだから

より良くなるにしてもそんなに急がなくても良いじゃない・という事です。


現時点で私たちがどうしても 出来れば早く向上しなければならない理由は

現時点(生存競争)では私達は自己犠牲そのものの状況であり

また同時に他者犠牲も生み出し解決のベクトルも希薄だからです。

その状況から脱却し

共存社会(犠牲のない状態)に移行できたなら

少なくとも退化しなければヨシとはなるのです。


そして

その共存社会に参画可能か?=生存競争社会から移行可能か?がこの世で問われています。

それは上述したように

自分が沢山集まった時

それでも組織が崩壊しないか?共存できるか?発展できるか?と言った

自分が共存社会の一員としての根本要素をクリアしているか?が問われていると言うことになるのです。


そしてそれが解決された時

もはやこの世

つまり


共存社会=共存原則と天国五大要素の落とし込み・総じて 哲学

の不在がもたらす教訓が溢れた場


にいる必要性も必然性も無くなります。


この世に生きる意味とは 苦しむ意味とは

その段階に達する為と言えます。


その段階に行く必要性を痛感するために様々に教訓をくらい苦しみ

ありのままの存在を毀損する状態のダメさを自分に刻み

そして脱する為にその問題点を克服するところにあるのです。


なので

逆に言えば そこまで行けば

もうこの世でやる事は基本的にはおしまいとなります。

あとは この場から離れて

ちゃんと共存社会の

おそらく1番入門段階と呼ばれるところに参画して

そこにいて初めて分かる様々な問題を解決していくわけです。結局

その場に行かないと学べない事は沢山あるわけで

低い場所に居ても出来る事 学べる事は限られていると言う事でもあります。


つまりこれが

この世での哲学の 終着点となるのです。