結局のところ、幸福とは

この生存競争社会が生んだ実体のない概念といえます。

実際問題、私たちと言うのは

ありのままの存在として

周りとの相性があるだけです。


自分たちの存在は、少なくとも自分たちにとっては絶対的な正解であるべきで

存在するのが辛いと言うのは

ありのままの存在として、相性の悪い環境にいると言うことに他なりません。


基本的に、この生存競争社会に生きている以上

私たちを取り巻くこの環境は

ありのままの自分自信を維持することすら難しいところにあるといえます。

極端な言い方をすればその時点で幸福などあり得ません。

少なくとも、私たちは

ありのままの自分自身が否定されず

存続できる場所に移行しなければならないと言えるわけです。


そしてその場所は、少なくともこの世ではありませんから

私たちは この世に生まれてしまった・と言う過ちを持っているわけです。

そして、それを

今回の生で何とか是正しなければならない訳です。


少なくとも生きていないと大きな変化を得る事はできない段階に我々はいます。

結局のところ、

狭い部屋に閉じこもっていくら勉強しても

それで何とかなる問題で悩んでいるわけでは無いからです。


それ故、私たちは生き続けながら

とある問題を解決しなければなりません。それは

自分がこんな致命的に

ありのままの自分自身でいれない場所に生まれてしまった原因である何かなのです。


すべての現実には理由となる過去があります。

とにかくも、何かしら原因があったから

ここに生まれ生きているわけです。


この世における幸福とは

自らをこのように縛り付ける価値観でもあります。

私たちはそれから脱却しなければなりません。


この世における贅沢や生物的快楽とは

端的に言えば、

次回からこのような生存競争社会に生まれないためのものでもあるといえます。

生存競争社会にいる時点で、名誉に相当するものはありません。

そして 自分自身を そして他の存在をも見誤り、歪めたからこそ、このような場所に生まれているとも言えるわけです。


私たちは、この世で生きるにあたり

幸福を求めるのではなく

ありのままの自分を大切にする事を求めるべきなのです。

それが、たとえこの世に対して、いかに相性の悪いものであったとしても

或いはだからこそ 妥協してはいけないのです。

幸福になる為にこの世で生きるというのは

この世に合わせるしかありません。

それはつまりこの世の奴隷になる事です。


この世は自分自身とイコールの存在ではないものです。

それに自分自身が歪められるというのは

奴隷的な事であり

自己矛盾そのものなのです。


この世の人生において

求めるべきは、幸福ではなく

ありのままの自分自身として存在する事です。

自分の嗜好性とそれに基づいた価値判断を遵守することです。

そして

それらのことをいかに獲得するか?です。


私たちは、自分自身についても

自分が今、存在している世界についても

あまりにも無知であり

また、その探究も十分だとはとても言えないものです。

真の幸福とは、この世に妥協して得るものではなく

逆に妥協することなく、自らを貫くことによって得られる境地を指します。

つまり

自分自身は本来

ありのままの自分で存在していれば

それが最適解であり 言わば幸福なのです。

故に

自分の存在がイコール幸福になる為には

自分を歪めるのではなく ありのままの姿で居られるように

周りを整備しなければならないのです。


そのためには、何より 何があっても

ありのままの自分とその嗜好性を保持しなければならないのです。その上で

生じた問題を ありのままの自分を毀損することなく、解決するように動いていくしかないのです。


次項では、ありのままの自分を保持したまま

生じた問題を解決するにあたっての話をしていきたいと思います。