さて、続いて、自尊心についてですが

そもそも自尊心と言うものはどういうものでしょうか?


自分にとって自分の尊厳が最大なっていると言う意味では

存在としては当たり前の状態ではありますが

しかし、その

自分の尊厳

を担保する要素について考えると、なかなかそうはいかなくなります。


基本的に、私たち意志存在は、自分たちの能力やクオリティーを推し量る時に他の意志存在と比較すると言うことをします。


もちろんですが、自分は自分ですから

自分だけでは自分があまり見えないものです。

故にどうしても周りの反応から自分を推し量ることになってしまいがちです。

つまり、自己評価をするにしても、それは周りからの評判の総称と言うことになりがちです。


そして、この世であっても明らかなことですが

どのジャンルでも

ある能力に対して、とんでもないほど高いものを持っている存在がいるわけです。

運動だったらオリンピックですし

各分野で優勝したり、賞を取ったりするような人もそれに該当します。

簡単に言えば、一位とまでは言わなくても、上位層に入らなければ

自分は下位互換になってしまいがちな状態にあるわけです。


さらに 何かが得意なら何かが不得意である

と言う法則も成り立ちません。

なんでもかんでもできる優秀な人から

何一つできないダメな人まで存在するわけです。

それは、今までの過去や輪廻の回数など、様々な事情によって左右されているものだと推測できますが

とは言っても残酷なほどに現実では差がついています。


そしておそらくこの世を離れた、さらにレベルの高い共存コミュニティーでは

この世界では想像もできないほどの

高い能力や、文化レベルを持った存在がたくさん存在している事は明らかです。

今現在でも、地球でUFOなどが確認されているくらいで

ここより上の存在はごまんとある訳です。

そうすると

こんな生存競争社会で足を引っ張り合っているようなところで

何かを死ぬほど努力しても、

太刀打ちできないような存在は無数にいるわけです。


簡単に言えば、上を見ればキリがないわけで

自分よりも、あらゆる面で優れている意志存在もまた存在し得るということです。


つまり、自尊心…自信を持つにあたって

その根源、ソースを

何かの能力に依存している時点で、瓦解は目に見えています。

自分のアイデンティティがとある能力値の高さに依存しているのならば

それよりも、高い能力、値の保持者が現れることによって、自分のアイデンティティが崩壊してしまうのです。

そしてそれは、広い意味でのこの世界では必至となってしまいます。


基本的に、この世での自尊心とは

自分の資産や能力 地位 名誉 周りからの評判などで構築されています。

しかし、こんな生存競争社会での地位や名誉や評判は根源的には何の価値もなく

能力にしても

たとえ、それが、天国を製作するにあたり有用な能力であったとしても

それよりも、それに対してはるかに高い能力を持っている存在もいるわけです。


その事実に直面しても保てるような自尊心でなければ

本来の自分自身の自尊心とは言えないわけです。


本来あるべき自尊心とは

自分を凄い・素晴らしい存在だと認識するのではなく

自分を歪めずにありのまま認識し、大切にする姿勢だといえます。

それは勿論、自分の本質である嗜好性に対して・

と言う側面も持っています。


簡単に言うならば

存在として、あらゆる存在を歪めずに、きちんと認識すると言う姿勢が、本来の自尊心につながるわけです。

つまり、自分の能力値が低いことや

様々な過ちを行ってしまったこと

そして、自分が本来良いと思えない行為に走ってしまったことなど

やはり、未熟な故にいろいろな過ちをしてしまうわけですが

それをそのまま受け止め評価することが自尊心です。

自分の行為であっても

良くないものは良くない、良いものは良いと

きちんと自分の嗜好性に照らし合わせて評価判断するのが自尊心といえます。


どのような前提条件であろうと、自分の嗜好性を遵守し、評価すると言うことです。

たとえそれが今回の自分の行為や過去をまるまる否定することになったとしても、

それを貫くと言うことになります。

自分が導いた、自分を含めた現実をまるまる受け入れるという行為そのものです。


まとめますと

本来あるべき自尊心とは、他者と評価をして、自分を素晴らしいと思い込むことではなく

ありのままの自分の嗜好性と、それに伴う評価 価値基準を大切にし

自分として歩を進めていくと言う姿勢になります。


我に帰って自分の人生を、振り返り

自分を評価したときに

自分はどう考えても良くないな、褒められたものではないなとなってしまっては

それは悲劇であり遠回りです。


自分と自分の嗜好性にとって

自分自身や、自分の人生が本当はどう捉えられるのか?というのを常に問い続ける必要があると言うことです。


その道が

他の意志存在とって、悪かろうが良かろうが、それは相性が決めることです。

能力はいずれ向上します。

それよりも、謝った道に行くことがとても重大なダメージです。

自分本来の道を歩んでいるならば

基本的に人生にも存在にも無駄は無いはずです。

唯一、自分自身をゆがめてしまったときに

遠回りとそのツケと言う悲劇が生じるわけです。


それは、広い意味では

あらゆる存在のありのままを否定するということが

結局のところ、自分に遠回りをもたらし、ダメージを産むということを示唆しています。


結局のところ、自尊心と言うのは

存在を尊厳すると言うことです。

存在そのものを否定したり、歪めたりと言った事をせず

1つの嗜好性と言う存在として

当たり前に振る舞う事 それだけなのです。