さて、もう一つの幸福

自分に対する幸福ですが

これは 簡単に言うと

裕福さ

名誉

そして自尊心の3項目に分けれると思います。

まずは、この三要素の1つ目

裕福さ

すなわち、贅沢について書いていこうと思います。

基本的に贅沢をすると言う事は、幸福の根本要素の1つとされています。

豪華な家、高級な料理やファッション、そして贅を尽くした所持品 誰もが羨む旅行まで…

この世の中には、様々な贅沢があり

それを享受できることが良い人生の条件の1つになっていることは間違いありません。


基本的に、贅沢な体験をすると言う事は

良いものを知るという事と同義でもあります。

良いものを知ると

様々な知見が得られます。

まず何といっても 比較ができるようになるわけです。

例えば、とびきりおいしい高級ワインを堪能出来たとします。

すると、そこまで評価の高くないワインの味の

どこが悪いかが

評価の高いワインの味を知ることによって比較でわかるわけです。

当然、人間には体があるわけで

運動もそうですが、体の使い方や体の信号の受け取り方は、魂の能力の1つと言えるようです。

なので、この世にはソムリエと言う職業があるわけですが

彼らは、体の ワインを味わう能力を最大限に引き出せる能力を持っているわけです。それは味覚や嗅覚がメインと言えるでしょう…。しかしそれに加えて

膨大な量のワインのテイスティングの知識も含まれている訳です。


どういったジャンルで

どのワインが高く評価されるか?みたいな世界観の話も入ってくるわけですね。


とにかくも

良いものを知ると言うのは

存在のポテンシャルそのものに触れると言うような行為でもありますから

とても勉強になる訳です。


例えば、ものづくりやその他もそうですが

まずは良いものを見て触れて勉強するというのがあります。

今は、ここまで良いものが存在するようになっているんだ、というのを知る事は

良いもの作りにおいても近道になり得るわけです。

もちろん今はまだ存在していないより良いものを作り出すことも人間はできます。

しかし、そのために

今1番良いとされている存在を知っておく事は当然近道になりやすいわけです。もちろんたまに例外もありますが・・。


つまり、良いものを知るということは

存在の素晴らしさ=存在の喜びを体感するということでもあるわけですから、エネルギー補給の側面もありますが

同時に、良い存在を知るということで、勉強にもなるわけです。


つまり、贅沢とは

エネルギー補給であると同時に

素晴らしい存在に直接触れて知ると言う勉強の行為でもあります。


ただ、ここで1つ重要な点がありまして

この勉強と言うのは

あくまでも、素晴らしい存在を作ろうとする上での勉強です。

前述したソムリエさんもそうですが

ソムリエさんの能力それ自体では

おいしいワインを作ることはできません。

そのワインのどこをどう改善したら、おいしいワインになるかを指摘することはできても

実際に、その改善点を改善する技術は持ち合わせていません。


つまり、評論家とは

より良くするための改善点を指摘することはできても

実際の改善を行う能力とはイコールでは無いのですね。


戦争反対!格差反対!環境問題反対!と声高に叫ぶ事は簡単ですが

それを実現するのが相当難しいのと同じです。


つまり、贅沢をすると言う行為は

良いものを自分でも作っていこうと言う側面があり、且つそれに生かされない限りは

単なるエネルギー補給行為になります。


ただ、贅沢三昧をする人生と言うのは

言い方を変えると

使いもしない、知識をただただ集めるだけの人生ともいえます。

そして、同時に

特に使い道のないエネルギーをひたすら補給をしている行為とも言えるわけです。


ちょっとストレートな言い方になりますが

それはリソースの無駄遣いと言うものでしょう。


非常に極端な言い方でいいますと

料理人を目指す人が、まず食においての贅沢をすべきなのです。

料理や関連する文化を作る気が全くない人は

もちろん他の分野で貢献をしているわけでしょうから、エネルギー補給として自分の好きなグルメを堪能するのは無駄ではないにせよ

しかし、素晴らしい味覚を体験すると言うことに対する意義は、比較的薄いという言い方もできなくもないわけです。


ともあれ このような理由で

もう少し大きな目で見て

豊かな社会の恩恵は

豊かな社会を作っていこうと言う存在に享受されるべきです。

豊かさと言う つまり贅沢と言うものは

その体験によって得られた知見が

豊かさの生産に生かされる人に与えられた方が良い訳です。


豊かな社会を作っていこうと言う意識がない人が

豊かな社会の恩恵を受けるということは

その恩恵が余っていない限りはリソースの無駄遣いです。


この世で贅沢をすると言うことを意義あることにするためには

その贅沢をして得た知識を

自分の天国製作要素 能力に還元する必要があります。

当然ですが、この世には贅沢は余っていません。

むしろ、格差拡大とともに不足の傾向は強まる一方です。

そんな世界で贅沢をすると言う行為が

自分に見合っていなければ

それは搾取と言う行動になります。


そして搾取をするような存在は当然ですが、天国に必要ありません。


グルメをした人間が食文化に必ずしも貢献すべしと言うような

直接的な貢献関係は必ずしも必要はありません。

しかし

少なくとも、贅沢をもたらす豊かな社会に貢献しようという志や、具体的行動がない人が贅沢をすると言うのは、事実としてリソースの無駄遣いであり、泥棒行為となってしまうのは確かです。


自分の天国制作能力

つまり、豊かな社会に対する貢献能力に見合った以上の贅沢をするというのは

この世界では良いかもしれませんが、

総合評価としては、泥棒に寄っていってしまうと言うことを

念頭に置いておく必要があると言うことです。


そしてもう一つ重要な事ですが

この世界では、その貢献能力をお金で代表すると言う考え方がありますが

実際問題は、お金と言うのは

お礼として、支払われる要素よりも

足元を見られて取られる度合いとしての要素の方が強いわけです。


いわゆる観光地価格と言うものや

あるいは、平社員の給料が低い

非正規社員の給料が低い

金利や賃貸の価格もそうですが

片方が決して納得いっていなくても

承諾せざるを得ないギリギリまでお金は交渉出来ます。

そういうことはこの世に数多くあります。

勿論お金は 正当な対価としてお互い納得できる関係もありますが

それ以上に力関係で決まることが多数を占めているのが事実です。


基本的には

やりたがられないことをやることに対して、貢献という言葉が入ります。

簡単に言うと、労働の対価としての貢献です。

たまたま思いついたアイディアが爆発的にヒットして

この世界を変えたとしても

たまたま思いついたという行為が、その労働の本質です。

その為の勉強なども労働に入りますが。


つまり、実際問題

これだけのお金をもらわないとやりたくないよ…

と思うようなことが

労働と対価の正当な関係です。


誰だって、大企業のCEOになって

机に座っていろいろやっているだけで年収何億円も欲しいわけです。

誰かが羨むような労働と対価の関係は歪です。

まぁ、妥当だよねと

うらやましいわけでもないし

悲惨だと思うわけでもない位の労働と、その報酬の関係があるべき姿です。


豊かな社会に対する貢献と言うのは

この正当な報酬の観点で測られるべきだと言う点を忘れてはいけません。


贅沢とは

正当な対価としてのバランスとりに留意する必要があります。

そうでないと、この世では良いかもしれませんが

競争社会の価値観を取り除いた時

ただ理屈をこねて泥棒していた人間になって

また あらゆる共存コミュニティから出禁を食らう事になる訳です。


さて次に

名誉について書いていきます。