さて、新しい価値観に置いて

この世の様々な事はどう変わるでしょうか?

それについてこの子では書いていきたいと思います。自己研鑽をするにあたり

その評価方法が大切になりますので、

もちろんまずその対象どう捉えるかどうかが大切になってくるわけです。


さて

なんといっても、まず初めに取り扱うべきは

生存競争社会において、最も大切をされていた

幸福

です。


生存競争であるこの社会における価値観では、人間は何よりも幸福になることを最優先するように価値付けられています。

これはどのように変化するでしょうか?


基本的に、幸福とは

大きく2つの要素に分けられています。

1つは生物的な幸福です。

すなわち、感覚的な快楽と種の保存に関わる項目です。

2つ目は、自分に対する幸福なのですが

この自分と言うものは正確に捉えられていません。

実際問題、自分というものが生物なのか?あるいは魂なのか?死後の世界に対する見解もそうですが、

基本的にそれを解明し 具体的に把握すると言う姿勢が欠落しているのがこの生存競争の社会です。

極端に言ってしまえば、ただ感覚として何となく感じている自分の認識です。

当然、ここで扱っている哲学のような論理建てて解明し 具体的に把握した自分という像は存在しませんし

そもそも、自分と言うものの境界すらも曖昧なので

あくまでも、なんとなく…の域を出ない概念としての自分です。


ともあれ生物的な幸福と

自分的な幸福の2つが、この生存競争社会にはあります。


まず、生物的な幸福ですが

これは簡単に言うと 生命の維持管理と、種の繁栄のためにセットされている側面がある感覚系統の話です。

もちろん、実際問題は、私たちは指向性を本質する存在であり

そして、この体も、私たちが本体として入っている訳ですから

極端な例では、SMなど

明らかに体にも悪く、種の保存にも何も貢献しないことを快楽としたりする事象があるわけです。

そのような倒錯した報酬快楽がこの体にはあるわけですが

そのような例外や

別の側面を覗くと

基本的に、生物としての快楽は

生物としての私たちを維持、促進するために用意されているものといえます。

つまり、生物としての快楽に答えるということは

基本的には、自分の生物的側面に貢献することになります。

つまり、身体感覚としての快楽を追求すると言う事は

基本的には、自分の体に対して貢献をすると言う側面がメインになるわけです。

それが食事にしろ

あるいは性行為にしろ

基本的には、生物としての自分と言う側面に貢献する行為になります。

つまり、生物的に生きていると言うことが、自分にとって良いか、悪いかを左右することに対しての行動と言えるわけです。


生物的に生きててよかった!とするためには

当たり前ですが、この生物的な快楽欲求に応える必要があります。

逆に言えば、お腹が減っている、暑い、寒い、あるいは欲求不満など…生物的な快楽の欲求に応えないと、生物的に生きていることが苦痛になってしまうと言うことになります。

もちろん、私たちはこの体で生きているわけですから、この体を持って生きることが好ましい状態であるに越した事はありません。


つまり、生物的快楽に対する応答は

この体で生きていく事を好ましくしようとする行為になります。

それ自体は、何も悪いことでは無いのですが

あくまでも、この体を持って生きていくことに対する行為であると言う点が重要です。

つまり

生物的な快楽欲求に対して答えて行くということは

生きていく行為それ自体を良くしていくことではありますが

それは、あくまで今いる場所で自分が生きていく事に対してのアプローチです。


今いる場所を根本的に変える事には貢献しませんし 自分自身を根本的に変える事にも貢献しません。

あくまでも、今いる場所においての

体を持って生きていくことに対するアプローチです。


つまり、どんなに生物的な快楽を追求しても

今いる場所が根本的に何か変わるわけでもありませんし

身体に入っている自分自身が変わることもありません。

ただ入っている体のコンディションが良くなるだけです。


とは言え、快楽とは

非常に甘美なものでもあります。

なので快楽とは

存在してよかった。

と思う要因の1つになります。

存在して良かったと思えばこそ

より存在していこうと言う気持ちになるわけで

つまり、存在する上でのエネルギーにはなります。

人間何をするにもエネルギーは必要ですから

快楽と言う報酬を得て

自分の道を歩くエネルギーにするというのは意義のあることです。

ただし

今、私たちは

生存競争社会と言う地獄から抜けなければならないと言う課題の上にいるので

その課題に対して

生物的快楽にいかに答えていくかと言う側面の意義は直接的には薄いわけです。

快楽を得て

この生存競争社会を抜け出るためのエネルギー源にすると言うのならば

その意義があるのですが。


つまり端的に言うと

生物的快楽とは、エネルギー補給であり

そのエネルギーを生存競争社会から脱却するために使うと言う前提が成立して、初めて意義のあることになるわけです。


ただこの世で生物的快楽を追求すると言う行為は

車に置き換えると

ひたすら乗っている車を磨くだけで、どこにも行かない行為に似ています。

あくまでも、エネルギー補給であって

そのエネルギーを何に使うかが問われていると言うことです。

なので、生物的快楽への応答と言うのは

エネルギー補給の観点が大きいと言うことになります。

いわゆる禁欲的な生活をしても

もちろん、様々な行動や自己研鑽はできますが

生きていくことが苦痛になりすぎると言う事は長期的に見てデメリットが大きいわけです。

あくまでも、現段階では私たちは生きていく上で変化すべきものですから

その生きる行為自体が嫌なものになってしまうと言うことのデメリットは甚大です。

ある程度楽しく生きながら、自分の機嫌をとりながら変化していった方が、長期的には走る距離も長くなると言うものです。


これが幸福の1つ目の側面

生物的な幸福の立ち位置になります。


次項では、もう一つの方

自分に対する幸福について解説していきます。