さて 基本3項目の最後

好き嫌い三要素ですが

大原則として 私達は存在していて楽しければそれで基本的には満足だという身も蓋もない本質がります。

どんなにどうしようもない人でも

王様で良い暮らしをしていればそれはそれで満足でしょうし

ダメダメなジャンキーも

ドラッグでハイになっている最中はそれで満足なわけです。

金があろうがなかろうが

自己実現がどうだろうが

一生楽しく生きれるのなら それで良いは良い と言う事実があります。

皆で天国を目指す時も同様です。

むしろそれ以外何か最重要なことがあるのか?という事も言えるくらいです。


故に私達は 何かを評価する時にまず

それがあると 或いは居ると

楽しいか楽しく無いかを本質的に問います。


旅行にせよ

家族にせよ同じですが

一緒にいる人間は まず何と言っても一緒にいて楽しいやつか

嬉しいやつか

そこがキーな訳です。これはエンタメ三要素の話で同じことを触れましたが


結局のところ 競争社会ではなくなると

一緒に居て嬉しい 楽しい人と

ゆっくり発展して行けば良いだけの話・になる訳です。

これは遠い先の話ではなくて

死後 身体を失えば即この状況に戻る?訳です。

ただ 問題は その人は本当にそうなのか?という側面がある点です。


変な話ですが 人間余裕があったり

明確な理由があると良い人間を演じようとします。

ビジネスでの営業や

好きな人・・男性で言えば 所謂落としたい娘の前では精一杯良い人間を演じるものです。

端的な例で言えば結婚詐欺師などがあります。


その人が良い人間なのか

良い人間を演じれる人なのか

これは逆を言うと 自分はどうなのか?という事にもなります。


結婚したら人が変わった!出世したら別人のように横暴に!なんて話もありますが

要はありのままの状態の時

本来の姿はどうなのか?というのはとても重要です。


これはつまり その人の嗜好性の問題とも言えます。


人間誰でも大人であれば

良い人間とはどんな人間なのかは知っています。

ただ 良い人間になりたいかどうかとは別です。


良い人間になっても損ばかりで

そんなのは馬鹿な子供が目指すものだ・と

思っている人間は少なくありません。


何故奪わないのか?

そこに奪えるものがあるのに。。なんて思う人間はごまんと居ます。そもそも生存競争とはそういうものです。


自己犠牲は良く無いのは分かるが 他者犠牲を気にする根本的な理由が分かっていない人

自己犠牲をいとわず 利他に走る人


何故そうなるかというと

以前私達の 共存原則・共に協力して天国を作った方が良いと悟るまでの経緯を書きましたが

そういう教訓が分かってないと

そうなるのです。

そうなるというか 最初はそうで 教訓を喰らって共存原則の重要性に気づくわけです。


つまり

奪う人は それを延々と行って行き着く

キツイ教訓を本質的に分かっていないわけです。

ニートの人が 両親を失って地獄という教訓を見るのと同様

サボっているとどうなるか を

心の底から理解するには

どうやら相当な教訓が必要なケースがあるようです。

一見良さそうな目の前の怠惰な選択肢が何をもたらすかを 身をもって知らないとダメなのかもしれません。

ニートでも略奪でも嘘つきでも同じで

結局目の前の怠惰な しかし一見良さそうな選択肢を取るとどうなるかを知らなければ

やっぱり選んでしまうものなのです。


逆に利他に走り

自己犠牲をいとわず

美辞麗句に埋没する人もまた

自分を理解し

自分の嗜好性 ひいては他人の思考性を

受け入れる労力から逃げてしまっています。

ありのままの存在を受け入れるのは怖い事です。ダメな自分

誰かの下位互換のような自分をそのまま受け入れることは 特にこの競争社会ではとても怖い事です。

しかしそれでもありのままの現実を受け入れないと話になりません。妄想の世界では現実とギャップが生まれ

それがいつか膨大な教訓として降りかかるだけです。


つまり


何故良い人でないと駄目なのか

何故 共存原則を重要視し 天国五大要素を落とし込み

一緒にいて楽しい 嬉しい人にならなければ良くないかを知っているかどうか。


これが問われるのです。

知識でなく

身をもって知っていますか?

知っていれば

ありのままのあなたの嗜好性は

犠牲を嫌い 不真面目 無関心を嫌い

自分の嗜好性における楽しさ・美しさを大切にし

そしてそんな自分の確固たる強さを強めようとする筈です。


少なくともそこまで行っていますか?

身をもって知っていますか?本当の意味で

実の知として知っているといえる存在ですか?という事です。


新しい価値観では

その人の本質的な知識が問われるのです。

その人の根本的的な嗜好性の状態が問われます。


少なくとも 最も基本的な項目である犠牲・

犠牲をいとわないレベルの嗜好性では勉強不足となります。そもそもその為には

犠牲とは何なのかを知る必要もあるわけです。

以前書いた犠牲の優先順位などの考察も必要です。

結局のところ未熟な存在は犠牲を生み出しますので

当然隔離されます。そして状況から分かるように、隔離先がこの世界なのでしょう。


この世界は様々な状況があります。

教訓だらけの世界と言っても過言ではありません。


この世界に生まれる意味とは つまり

教訓に触れる事です。逆に言えば

その必要があるからこそ こんな世界に生きているのです。


仏教で言うところの脱却すべき輪廻の輪とは

結局 この

教訓が必要な状態を表しているのでしょう。


ただ良い人

ただ美しい人

ただ楽しい人 では駄目で

何故それが大切なのかを 身をもって知っているか?がまず問われます。

知らない人間は つまり演じているだけの人間は

いずれシッポを出します。


借金や嘘がわかりやすいですが

結局人は 一回はそのツケを喰らわない限り

本当の意味でその悪さを知る事はできないのかも知れません。つまり

本人的にトラウマレベルで知らないと駄目なのかも知れません。


しかしそれが本質的に問われている という事です。


次項では残る 利便性について触れていきます。