浅舞公園に今も残る「忠猫(ちゅうびょう)の碑」
が紹介されていました。
猫ちゃんの慰霊碑(顕彰碑?)です。


花が供えられています。私より先に誰かがお参りしたみたいね…
地元の人でもここを知っている人は何割いるか…?
知る人ぞ知るかも?
ある程度郷土史に詳しい人じゃないと分からんかも…
一方、横手市平鹿町には、いまだ無名だが忠義な猫が実在した。
「あやめ公園」として知られる浅舞公園は1882(明治15年)8月、
伊勢多右衛門が八幡神社に隣接する原野を買い求め、
開墾して庵(いおり)を結び、梅、松、桜などを植えて
庭園にしたことから始まる。
公園には今も「忠猫(ちゅびょう)」と刻んだ珍しい碑が残っている。
※八幡神社とは当社のことです。
※伊勢家の現戸主は当社の責任役員です。
この碑は、多右衛門が飼っていたまだら模様の猫が1907(明治40)年
2月15日、13歳で亡くなったのを機に建立された。
その経緯は、多右衛門が書き残した文書などから、
うかがい知ることができる。
多右衛門(1833~1914)は、酒造業を営む大地主であり、
慈善家として知られた伊勢家のむこ養子となった。
養父多兵衛の志を継ぎ、
慈善事業と社会事業(道路・橋の改修)に尽力。
窮民を救済するために感恩講を設立した。
多右衛門が暮らした邪防庵は庵とはいえ米蔵があり、
一般の民家よりはるかに大きかった。
ここで多右衛門の娘キクが裁縫教授所を経営し、
養蚕と機織りを地域の女性たちに教えていた。
だが、その土地はいまだ雑草が繁茂し、
野ネズミやヘビの害に苦しめられた。
教授所の教師・高久奈保が、浅舞村の医師・佐波賢隆から
1895(明治28)年8月10日に、雌の子猫をもらった。
奈保は、子猫を大切に育てた。
子猫はとても優しくおとなしく、よく人に慣れ、
間もなくネズミを捕るようになった。
(今の猫は捕らない? 野性味が無い?)
奈保は97年職を辞し、庵を去ったが、後任の教師が猫を飼育した。
猫はネズミを捕るのが自分の務めと心得たかのように、
庵のネズミを捕り尽くしたという。
当時、八幡神社境内の修理と、
多右衛門の庭園を浅舞公園にする工事が行われていた。
こちらも野ネズミとヘビがおびただしく、
植えた樹木や花などに被害が及んだ。
公園に水を注ぐ側溝や堤なども破損した。
人々は困り果てていたが、伊勢家の猫が日々退治にいそしみ、
10年ほどで撲滅した。
一方、米蔵の木材に穴を開けて侵入し、
米をあさる大量のネズミが発生した。
米蔵の米は、感恩講の米でもあった。
感恩講とは、江戸時代後期以降の本県の民間救助機関で、
蓄えた米を貧民の救済などにあてた。
感恩講の米が不足すると人々の生活が成り立たなくなる。
これも伊勢家の猫が退治した。
当時の慈善事業の中心だった伊勢家の志を、
猫が裏で支えたことになる。
さらに伊勢家の猫は、村内各所の米蔵にも足を伸ばし、
そこのネズミも退治した。あたかもその様子は、
猫の姿を借りて民衆の米を守る「いのちの番人」のようだったという。
神仏が猫に乗り移って、民衆を守ろうとしたのだろうか。
こうして民衆の、命をつなぐ米は守られ、
人々が憩う浅舞公園も整備されていった。
ここで作られた浅舞染めは、堅くて丈夫で色彩や香りがよく、
防虫効果もあったことから高く評価され、
皇室に献上されるまでになった。
これもネズミの被害が無くなったからだと、
人々は伊勢家の猫をたたえた。
伊勢家の猫は不思議なことに一度も交尾することはなく、
子をはらむこともなかった。聖女のようであった。
猫でありながら、人々のためにひたすらネズミ退治に奔走した。
ただの猫ではない。神聖なる神の猫、忠義の猫であった。
こうした猫の様子を見るにつけ、
主人である多右衛門は
「なんという忠義者。老いて亡くなったら
猫明神として永く祀りたい。魂になっても、神社や公園内に
害を及ぼすネズミなどを退治する守護神になったほしい」
と強く願い、碑の建立を思い立った。
やがて猫は亡くなった。多右衛門は、葬式を手厚く執り行い、
塚を築き、松を植えた。碑は男鹿の寒風山の石に猫の姿を刻み、
総持寺の高僧から「忠猫(ちゅうびょう)」という
文字を篆刻(てんこく)してもらった。
伊勢家文書の終わりに、多右衛門は述べている。
「永遠にこの功徳を伝えたい。碑を見る人々よ、
忠義な猫の功績を忘れないでほしい」
猫が没して103年。多右衛門が世を去ってからも、
すでに96年の年月がたっている。
今は忠義の猫を語る人も、知る人もいない。
(猫ちゃん! 八幡神社の神主が語ってるよ!)
