書庫「政治」の更新です(^^)
出典:生存法則論第三巻(政冶編)戸松慶議著
関連記事【民主政治について①】
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/58957071.html
関連記事【民主政治について②】
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/58961272.html
【第一節 政治形態 三、民主政治について③】
元来デモクラシーは、既にその過去の閲歴が示している通り、
その原理と形態を完うしてしまったものでなく寧ろ人類が、
未来において実現すべき可能性を含んだ価値であり手段である。
デモクラシーを賛美する人々は、
統治と自治の関係を混同し、
主と従の分を無視し、
権利と義務を転倒しているように見受けられる。
民衆は自治を分として、その存在を明らかにするものであって、
統治を侵すべきものではない。
同時に統治者は自治を基盤として選ばれ、
統治の分につくべきものであって、
自治を侵すべきものではない。
デモクラシーがこの分を明らかにせず、
自治―「人民の権力」をもって
統治に位しようとするところに無理がおこるのである。
デモクラシーをもって「統治を確立」しようとするならば、
それに価する手続きをとり、段階を踏まなければならない。
なるほどデモクラシーは合理的である。
が、一定不動の基準となるべき
権威中心がないため、動揺し堕落する。
統治は常に必ず権威、基準、不動の指導理念が
尺度として位しておらなければならないが、
デモクラシーにはそれがない。
まだ用意されておらないのである。
デモクラシーが統治に参与しようと欲するならば、
必然その前提に、
先ず不変の基準となるべきものを確立せねばならぬ。
デモクラシーが従来のままの自治をもって統治を兼ね、
基準・権威を自主管理するようなあり方では、
永遠に統治の本質を成り立てることができないであろうし、
人類の期待に添う能率と価値を発揮することもできない。
この意味でデモクラシーは、
未だ「分の自覚が明確にされていない」ように思われる。
それだけ便宜的である。
デモクラシーがしばしば危機に直面するのは、
ここに理由がある。
デモクラシーは形態であって原理でなく、
完成されたものではなく、未完成のものである。
もう少し正確にいうならば、
自治の領域から出て統治の地位につき
如何なる原理を基準に統治力を発揮するかという
発展途上にある動態的(変動している状態)概念であり、
人類の進歩を絶えず触発してくれる
現実的理念であると同時に、
完成に向かって、あるものを加えつつある未知数の存在である。
それは未完成の概念であるために、
しばしばイデオロギー的機能を営むことになり、
普遍的概念である故に、
ともすれば諸種の意味に用いられることになる。
第一次大戦後、多くの政治学者によって叫ばれてきた
近代デモクラシーの危機ということは、
デモクラシーを完成されたものとして
取り扱ったところから派生したものである。
今後人類が当然為すであろう最大の課題は、
自治と統治の分を明確ならしめることであり、
人民の権力の位置づけである。
デモクラシーを完成に導くためには、
いかなる課題を取り上げて解決すべきであるか。
この点について、三つの問題が考えられる。
第一は人民の意義であり、
第二は政治組織の問題であり、
第三は統治の基準確立に関するものである。
次回「民主政治について④」…人民の意義に続きます(*- -)(*_ _)ペコ
この本の「自序の紹介」を忘れてましたね(^^;)
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/53752684.html
出典:生存法則論第三巻(政冶編)戸松慶議著
関連記事【民主政治について①】
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/58957071.html
関連記事【民主政治について②】
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/58961272.html
【第一節 政治形態 三、民主政治について③】
元来デモクラシーは、既にその過去の閲歴が示している通り、
その原理と形態を完うしてしまったものでなく寧ろ人類が、
未来において実現すべき可能性を含んだ価値であり手段である。
デモクラシーを賛美する人々は、
統治と自治の関係を混同し、
主と従の分を無視し、
権利と義務を転倒しているように見受けられる。
民衆は自治を分として、その存在を明らかにするものであって、
統治を侵すべきものではない。
同時に統治者は自治を基盤として選ばれ、
統治の分につくべきものであって、
自治を侵すべきものではない。
デモクラシーがこの分を明らかにせず、
自治―「人民の権力」をもって
統治に位しようとするところに無理がおこるのである。
デモクラシーをもって「統治を確立」しようとするならば、
それに価する手続きをとり、段階を踏まなければならない。
なるほどデモクラシーは合理的である。
が、一定不動の基準となるべき
権威中心がないため、動揺し堕落する。
統治は常に必ず権威、基準、不動の指導理念が
尺度として位しておらなければならないが、
デモクラシーにはそれがない。
まだ用意されておらないのである。
デモクラシーが統治に参与しようと欲するならば、
必然その前提に、
先ず不変の基準となるべきものを確立せねばならぬ。
デモクラシーが従来のままの自治をもって統治を兼ね、
基準・権威を自主管理するようなあり方では、
永遠に統治の本質を成り立てることができないであろうし、
人類の期待に添う能率と価値を発揮することもできない。
この意味でデモクラシーは、
未だ「分の自覚が明確にされていない」ように思われる。
それだけ便宜的である。
デモクラシーがしばしば危機に直面するのは、
ここに理由がある。
デモクラシーは形態であって原理でなく、
完成されたものではなく、未完成のものである。
もう少し正確にいうならば、
自治の領域から出て統治の地位につき
如何なる原理を基準に統治力を発揮するかという
発展途上にある動態的(変動している状態)概念であり、
人類の進歩を絶えず触発してくれる
現実的理念であると同時に、
完成に向かって、あるものを加えつつある未知数の存在である。
それは未完成の概念であるために、
しばしばイデオロギー的機能を営むことになり、
普遍的概念である故に、
ともすれば諸種の意味に用いられることになる。
第一次大戦後、多くの政治学者によって叫ばれてきた
近代デモクラシーの危機ということは、
デモクラシーを完成されたものとして
取り扱ったところから派生したものである。
今後人類が当然為すであろう最大の課題は、
自治と統治の分を明確ならしめることであり、
人民の権力の位置づけである。
デモクラシーを完成に導くためには、
いかなる課題を取り上げて解決すべきであるか。
この点について、三つの問題が考えられる。
第一は人民の意義であり、
第二は政治組織の問題であり、
第三は統治の基準確立に関するものである。
次回「民主政治について④」…人民の意義に続きます(*- -)(*_ _)ペコ
この本の「自序の紹介」を忘れてましたね(^^;)
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582/53752684.html